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season 1-5 黒野

season 1--5 黒野


2023年10月12日 木曜日


「おはよう黒野君」


美亜ちゃんは窓の外を見ていた。


「何を見ているの?」


「空だよ。いい天気で青い空も白い雲も綺麗でしょ」


「本当だね。働く様になってから、なんだか慌ただしく、空を見なくなったな。でもこうして朝少しだけでも窓から空を見るのも悪くないよね」


「うん、いいと思うよ」


「ご飯作ったら、約束通り、シャンソン歌ってあげるよ。『オーシャンゼリゼ』と『さくらんぼの実る頃』」


トーストとサラダとコーヒーを用意して小さなダイニングテーブルに座ると、美亜ちゃんは、正面に立ちマイクを持つふりをした。


「じゃあ、歌うね」


軽く咳払いをしてから、美亜ちゃんは大な声で『オー・シャンゼリゼ』を歌い始めた。

澄んだ優しい歌声。


フランス語は全くわからないので発音が合っているか良くわからないが、かなり雰囲気が出ていると思う。

パリの街角で優雅に朝食をとっているイメージでごはんを食べ始めた。


それだけで、この朝が、特別なものに感じる。


歌い終えると、美亜ちゃんは嬉しそうに笑った。


「次は『さくらんぼの実る頃』だよ」


今度は少ししっとりとした調子で歌い始めた。

優しくて、どこか切ないメロディ。

美亜ちゃんの声は、朝の光に溶け込むみたいに静かに広がっていった。


僕はコーヒーを飲みながら、

ただその歌声を聴いていた。


まるで時間が、この小さな部屋の中だけ、ゆっくり流れているみたいだった。


歌い終わると、美亜ちゃんはにっこり笑って、

コーヒーに顔を近づけた。


「どうだった?」


「最高だったよ」


僕が答えると、美亜ちゃんは照れくさそうに目を細めた。


朝の空は、まだ青く、窓の向こうで白い雲が静かに流れていた。


今日もきっといい日になる。そんな気がしていた。


——————


しかし、会社に着いたら少し考えてしまった。

明日の夜、霧が出る条件が揃うと予報で見ていたからだ。土曜日も同じように霧が発生する可能性はあるが、予報はあくまで予報だ。万が一のことを考えれば、確実なのは金曜日の夜。つまり、明日が僕と美亜ちゃんが一緒に過ごす最後の日かもしれない。


それを考えると、今日、明日が何気なく過ぎることが嫌だった。

だからこそ、明日は午後に半休を取って美亜との時間を大切にしようと思った。残業して仕事を片付け、明日午後からは二人で過ごす最後の日に備えたい。


これからのことを思うと、不安と期待が入り混じり、胸の中に奇妙な緊張が生まれる。

それでも、美亜ちゃんが穏やかに微笑んでいてくれれば、少しは落ち着ける気がした。


残業が終わり、家に帰ると時刻はすでに夜の23時を回っていた。朝は美亜ちゃんに残業のことを伝えていなかったし、半休を取ることも会社に着いてから急に決めたことだったので、遅くなる事は知らせていなかった。途中でメールや電話する事もできない。


玄関のドアを静かに開けて部屋に入ると、ナポレオンチェアに座った美亜ちゃんが僕を待っていた。


「おかえりなさい、待ってたのよ」


その言葉にハッとした。「待っていたのよ」美亜ちゃんが初めてこの言葉を口にした時のことを思い出す。当時は恐怖で凍りついたな…。


「あの時とは全然違うな…」


僕は心の中で静かに呟いた。


「ごめんね、遅くなっちゃった。残業してたんだ」


「ううん、大丈夫よ。疲れたでしょう?」


美亜ちゃんは優しい笑顔を浮かべて言った。


「明日、予報では夜に霧が出るっぽいからね」


「よかった!でも、それなら明日で最後になるかもね…」


美亜ちゃんは少し寂しそうに言ったが、覚悟が決まっているようだった。


「明日の午後から半休取ったよ。だから今日遅くなっちゃったんだ」


「私のために?嬉しい!どこか行きたい!」


美亜ちゃんの顔がパッと明るくなった。


「そのつもりだよ。海と山どちらがいい?今の季節、暑くも寒くもないからどちらもいいよ」


「山に紅葉を見に行きたい!」


美亜ちゃんは興奮した様子で声を弾ませた。

紅葉か……僕も紅葉を見に行くのは久しぶりだ。美亜ちゃんと過ごす最後の思い出にふさわしい場所かもしれない。


家から比較的近くに標高1500メートルほどの天鵞絨山ビロードさんという山がある。紅葉が見ごろの今なら、山頂には湖もボートもあるその山に行くのがぴったりだろう。


「明日、天鵞絨山に行こう。紅葉も綺麗なはずだし、湖でボートにも乗れるかもね」


「楽しみ!でも、もう遅いから今日は早く寝ようよ」


美亜ちゃんが嬉しそうに目を輝かせながらも、僕の疲れに気づいてくれているのが伝わる。


正直、今日はかなり疲れていた。明日の午前中にもまだ仕事が残っていて、早めに片付けないといけない。それに、明日の午後は2人の時間を大切にしたい。


「そうだね、ご飯食べてお風呂入ったらすぐ寝ることにしよう」


今日はこれ以上余裕がないけれど、明日の午後はしっかり楽しむつもりだ。最後の特別な時間になるかもしれないのだから…。


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