season 1-3 黒野
season 1--3 黒野
2023年 10月10日 火曜日
朝起きると、美亜ちゃんはまだソファで静かに眠っていた。もしかして、彼女も昨日の会話で変な気分になって中々寝付けなかったのかな?
そんなわけないか……。
僕は軽く朝食をとり、できるだけ音を立てないように電気のスイッチを入れて、小さな音でクラシック音楽を流た。
「うーん…おはよう…」
起こさないようにしようと、思っていたが起こしてしまったようだ。
「おはよう、ごめん起こしちゃったね」
「もう起きるよ」
「それじゃ、いってくるね」
「いってらっしゃい」
外に出て、自室の窓を見ると美亜ちゃんが笑顔で手を振っているのが見えた。思わず僕も笑顔になる。
仕事中も、何だかうわの空で、ミスをしないように必死で集中した。けれど、頭の片隅には美亜ちゃんのことがずっと引っかかっていて、心ここにあらずといった感じだった。
仕事が終わり、玄関のドアを開けると、ナポレオンチェアに座る美亜ちゃんが静かに僕を出迎えた。
「おかえりなさい!」
「ただいま」
「いいね、家に帰ると誰かがいるって」心の中でそう呟きながら、思わず顔がほころんだ。
「今夜行くよ。準備はいいかな?」
「はい、お願いします」
美亜ちゃんはまた敬語だ。何となくそれが気になった。
「その敬語、やめなよ。タメ口でいいからね」
冗談っぽく言ったが、美亜ちゃんは無言だった。
「敬語やめな」
少し強めに言ってみると、すぐに反応した。
「Yessir!!」
元気いっぱいの声で、ふざけた調子で答える美亜ちゃん。
彼女のその様子に、僕は思わず笑ってしまった。
今日の仕事着はスーツだが、そのままスーツで行く事にした。美亜ちゃんを送り出すには正装がいいと思ったからだ。
でも今日は過去にはいける気が全くしなかった。霧が出ていないからだ。やっぱり山道を、あの霧の中抜けるからこそ過去へ行けた気がするのだ…。
部屋を出て、美亜ちゃんと一緒に車に乗り込むと、エンジンキーを回した。
1975年式のアイボリーのビートルが静かに唸りを上げる。この車は僕の自慢でもあるけれど、同時に「金食い虫」でもある。50年近く前の車だから、故障も多くて修理費がかさむ。
そのせいで、僕の貯金は中々貯まらなかったのだ。
よく言われる話だが、人と車との関係は、女性との関係に似ている。通勤用の車と、もう一台趣味の車を持つ人は、愛人を作りたがるタイプ。派手な車が好きな人は、派手な女性が好きな傾向がある。車を乱暴に扱う人は、女性に対しても乱暴に扱う。一台の車をずっと大切に乗り続ける人は、奥さんも同じように大切にするらしい。僕は間違いなくこの最後のタイプだ。毎週の休みの日も手入れを欠かさない。
そんなことを美亜ちゃんに話そうかと一瞬考えたが、結局やめた。自分で言うのは何となく馬鹿っぽい気がしたからだ。
車の中で美亜ちゃんは終始元気だった。昔話をいくつもしてくれて、僕もつい笑いながら聞き入っていた。
「覚えてる?ピアノのコンクールのお昼休みのこと。私、一生懸命黒野君に話しかけたのに、すごく冷たい態度だったよね?」
「ごめん、ごめん。あの時、すごく緊張してたんだよ。話しかけられて嬉しかったんだけど、上手く返せなかったんだ…」
「知ってた。ふふっ…」
最近、会話のペースは完全に美亜ちゃんのものだ。彼女の言い回しにはいつもどこか含みがあって、僕は毎回少し戸惑わされる。まるで全てお見通しで、からかうのを楽しんでいるかのようだ。
今日は霧が出ていないので、山道を下るのにかかる時間は通常通りの30分弱。ちらっと腕時計を確認する。
西暦2023年10月12日、火曜日。やっぱりダメか。
僕は腕時計を美亜ちゃんに見せた。
「やっぱり駄目だね。霧が出ていないと…。一応家には行ってみようか?」
「……うん……」
返事は元気がない。成仏する土曜日までに霧が出なければ、過去に行けるチャンスはもうない。
そんな事実が、現実味を帯びてきた。
洋館に着くと、そこには何もなく、更地になっていた。
初めて美亜ちゃんと会った時、老朽化して取り壊されるというのは本当だったんだ…。古いものを大事にすると言う彼女のお父さんが生きていたら、改修工事をして洋館は現存していただろう。そんな気がした…。
美亜ちゃんは無言のまま、じっとその光景を見つめている。自分の家がなくなったという事実に、どれほどのショックを受けているだろうか。ふと自分の実家が更地になったところを想像してしまい、胸が締めつけられた。それから僕も黙り込んだ。
もしかしたら、もともと洋館なんて存在しなかったのかもしれない。美亜ちゃんとピアノ教室で一緒だったことも、今の状況も、全てが幻想だったんじゃないか……そんな疑念が頭をよぎった。
ふと、助手席を見る。美亜ちゃんがそこに座っている。やっぱり、これは現実なんだろう。
「とりあえず、帰ろうよ。私たちの部屋へ」
美亜ちゃんは明るく、まるでこの重い空気を吹き飛ばすかのように言った。彼女の元気な声に、僕は少しだけ安心して、頷いた。
「この車、好き。かわいいよね。フォルクスワーゲン・ビートルだよね?」
「よく知ってるね」
車を褒められるのは嬉しかったが、「かわいい」と言われるより「渋い」と言われたかった。女性からは大抵こう言われるものだ。
しかも、この車がモテに繋がったことは一度もない。
「昔、ビートルのミニカー持ってたんだよ」
「女の子もミニカーで遊ぶんだ?」
「パパがたまに買ってきてくれたの。パパもママも車が好きだったみたい。」
兄と二人兄弟で育った僕には、女の子の遊びがよくわからない。
「そういえば、お父さん、ジャガーに乗ってたよね。ブリティッシュグリーンの」
「よく覚えてるね」
「子供心に『あれは渋いな』って思いながら眺めてたよ」
「ジャガーのエンブレム、アレかわいいよね?」
やっぱり女性とはその辺の感性が違うらしい。僕が「渋い」と感じる部分を美亜は「かわいい」と捉える。僕は思わず心の中で苦笑した。この感性の違いをもっと学ばないといけないな、と少し反省した。
家に着くと、美亜ちゃんは「ただいま」と言いながらナポレオンチェアに腰掛けた。少し疲れた様子だが、その顔にはどこか安堵の色が見える。
「もう少しだけ、一緒にいれそうだね」
「そうだね…」
二人とも一瞬ほっとしながらも、心の奥底では、無事に過去へ行けるのかという不安が募っていた。
パソコンを開き、10月の低山で霧が発生する可能性について調べてみることにした。すると、次のような情報が目に入ってきた。
10月でも、特に山間部や標高の低い地域では霧が発生することは珍しくありません。秋の季節は日中と夜間の温度差が大きくなるため、霧が出やすい条件が揃う時期です。特に、山間部や川沿いのような湿度が高い場所では、霧が頻繁に発生することがあります。
以下の理由で、秋でも霧が発生しやすい状況が考えられます:
1.日中と夜の気温差
秋は昼と夜の気温差が大きくなるため、夜間に気温が下がり、露点温度に達しやすくなります。特に、山間部や谷のような地形では、冷たい空気がたまりやすく、夜間や早朝に霧が発生することがあります。
2.湿度の高い朝晩
秋は特に朝晩の湿度が高く、放射冷却によって地表付近の空気が冷やされ、水蒸気が凝結して霧になることがあります。
3.山間部の地形効果
山や谷の地形は、冷たい空気が低いところにたまりやすい特徴があります。霧は標高が低い山や谷間でも頻繁に発生します。標高が低くても、湿度が高い環境や気温の急な低下があれば、霧は十分に発生しやすいです。
ここから美亜の家までの最短距離の道はちょうど山の谷間の様な峠道になっていて、地形的には合致する。どうやらそれほど珍しいことではないらしい。
少しほっとしながら、次に週間天気予報をスマホで調べてみた。金曜日と土曜日がちょうど湿度が高く、寒暖差も大きく霧が発生しやすい条件が揃いそうだった。成仏するギリギリの日だ。
「美亜ちゃん、金曜、土曜は霧出るかもしれないよ。霧が出る条件と湿度、昼夜の寒暖差を調べたんだ」
「本当⁉︎希望が出てきたね。やっぱりこの魔法の鍵すごいよ。本当に私が生きている過去に行けるかも」
「また祈ってみなよ」
「うん」
美亜ちゃんの顔に笑顔が戻り、少しほっとした。この鍵に本当に魔法があるのなら、本当に美亜ちゃんの生きている過去に行けるかも知れない…。
「また、ご飯食べながら、映画見ようか?」
「うん、今日は『アメリ』がみたいな…」
「いいね。そうしようか」
こうして、また1日が過ぎていった。