season 1-2 黒野
season 1--2 黒野
2023年 10月9日 月曜日
朝、目が覚めると、美亜ちゃんはすでに起きていて、自分のナポレオンチェアに座っていた。やはり、ここが一番落ち着くらしい。
簡単な朝食を準備しながら、ふと美亜ちゃんが楽しめる映画やドラマについて考えてみた。映画は1話見るとそこで止まってしまうが、ドラマなら次々に自動で再生されるだろう。でも、正直なところ、美亜ちゃんがどんなドラマが好きかなんて全くわからなかった。
そこで、美亜ちゃんに尋ねてみると、「クラシック音楽をエンドレスで流してくれれば、それでいいよ」と答えた。僕は「クラシックベスト50」を選んで流すと、静かに音楽に耳を傾け出した。
時刻は7時30分、僕が家を出る時間だ。ちょうどその時、スメタナの『モルダウの流れ』が流れ始めた。すると、突然美亜ちゃんが立ち上がり、指揮者の真似を始めた。思わず吹き出してしまった。
「仕事頑張ってね!」
「6時半ごろには帰るからね!手紙の内容考えておいてね。いってきます!」
「いってらっしゃい!」
その瞬間、僕はこのマンションに引っ越してきてから、誰かに「行ってらっしゃい」と言われたのは、これが初めてだということに気づいた。胸がじんわりと温かくなった。
——————
仕事を終え、夕方家に戻る前に、ふと忘れていたことに気づいた。電気をつけることだ。どうやら、幽霊も、電気がないとよく見えないらしい。
「ただいま…」
玄関のドアを開けると、薄暗い室内にはラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』が静かに流れていた。その静かな旋律が、部屋の空気に妙な寂しさを感じさせた。
僕は急いで電気をつけたが、美亜ちゃんの姿は見当たらなかった。リビングを見ても、寝室を覗いても、キッチンやトイレ、浴室、ベランダ……どこにもいない。
「……美亜……?」
胸がざわざわと不安でいっぱいになる。
あの明るい笑顔で「いってらっしゃい」と言ってくれた美亜ちゃんは、どこに行ってしまったのだろう?部屋に漂う『亡き王女のためのパヴァーヌ』の音色が、余計に不安をかきたてた。
もしかして、もう成仏してしまったのか?不安が胸を締めつける。
まさかと思いながら、最後の望みをかけてクローゼットを開けると、そこに美亜ちゃんが丸くなって隠れていた。
「おかえり!」
満面の笑顔でそう言われると、僕はほっと胸を撫で下ろした。緊張が一気に解け、心の中に温かさが広がる。その瞬間、部屋にはベートーヴェンの「交響曲第7番第1楽章」が流れていた。
「ぴったりだな、今の気分に……」
そう呟きながら、泣きそうになるのを必死に堪えていた。ほんの1日一緒にいただけで、こんなにも情が移ってしまうなんて、思ってもみなかった。美亜ちゃんの存在が、いつの間にか僕の心の中に大きな意味を持ち始めていることに気づく。
「ごめんね。もしかして、泣いているの?」
美亜ちゃんが少し心配そうに尋ねてきた。
「泣いてるわけないだろ!」
そう答えるのが精一杯だった。喉の奥が詰まるような感情を抑え込んで、なんとか平静を装った。
「今日は、手紙を書くからね」
少し硬い声でそう告げた。
「うん」
美亜ちゃんも、ふっと神妙な顔つきになった。いつも明るく振る舞っている彼女が、今は何か大切なことをしっかりと受け止めているように見えた。二人とも言葉少なになり、音楽は消し、部屋には静かな時間が流れる。手紙を書くという約束が、これまでの穏やかな時間に、何か特別な重みを持たせているように感じられた。
夕食を終えると、僕たちはすぐに手紙を書く準備を始めた。帰りに、可愛らしい天使の絵が描かれた封筒と便箋を買ってきていたが、手紙は手書きではなくパソコンで入力することに決めた。字が下手な僕が書いたら、ただでさえ怪しい手紙が致命的な「怪文書」になりかねないと思ったからだ。
「今から入力するから、手紙の内容をゆっくり話してね」
「はい。宜しくお願いします」
急に敬語でお辞儀をした美亜ちゃんに、思わず笑いそうになったが、彼女の真剣な表情を見てすぐに気を引き締めた。
「では、ゆっくり喋りますよ」
美亜ちゃんは、僕がタイピングしやすいように、ゆっくりと話し始めた。その内容は、言葉が詰まることなくスムーズに進み、僕はただ彼女の言葉を忠実に入力するだけだった。頭の回転が早く、物事を的確に伝える能力には、改めて感心させられる。
——————
親愛なる美亜へ
この手紙を読んでいるあなたは、おそらくまだ12歳の美亜だと思います。この手紙を書いているのは、少し未来の美亜です。驚くかもしれないけれど、今から伝えることを信じてほしいのです。
まず、セリーヌのことを話します。セリーヌは今、元気そうに見えるけれど、実は肝臓に問題を抱えています。セリーヌは家族で、あなたにとって大切な存在だから、このことを早く知って、彼女を救ってあげたいと思って手紙を書いています。
最近、少し疲れやすくなっていると感じたことはありませんか?以前より昼寝の時間が長くなっていたり、散歩の途中で座り込んでしまうことはないでしょうか?ごはんを食べる量が少し減ったり、毛並みがいつもより元気がないように見えたりすることはありませんか?
また、セリーヌを撫でたとき、お腹が少し硬いと感じることはありませんか?
肝臓の病気はすぐに目に見える形で症状が出るわけではありませんが、早めに気づくことができれば、治療できる可能性があります。
私しか知らないことを少し話しますね。セリーヌは散歩の時、いつも同じ道の電柱で必ず止まってにおいを嗅ぐのが好でしたよね。
そして、夜寝る前には、必ずあなたのベッドの隣で静かに座っていたね。あなたがピアノを弾いている時、彼女がそっとあなたの足元に寝そべっていますね?そんなセリーヌを、これからもずっとそばにいてあげたいなら、どうかこの手紙を信じて、パパとママに話してほしいと思っています。
肝臓の病気はすぐには目立たないけれど、早めに気づけば治療できる可能性があります。病院に連れて行って、きちんと診てもらってください。きっとパパもママも理解してくれるはずです。
どうか、この手紙を信じて。
セリーヌのために、できることをしてあげてください。
未来の美亜より
——————
「入力終わったよ。この部屋にはプリンターがないから、コンビニで印刷するんだ」
「ありがとうございました。コンビニで印刷するのですね?」
美亜ちゃんは再びお辞儀をした。
「急に敬語になったね…」
「何かお願いする時はきちんとした敬語でって…ママに言われているから…」
「ここに来た時は全てタメ口だったでしょう」
「そうだっけ?」
美亜ちゃんは舌を出しておどけている。
僕も思わず笑顔になり緊張が解ける。
「今からプリントアウトしに、一緒にコンビニに行く?」
「うん、いく!」
歩いて3分ほどのところにセブンイレブンがある。店に入って、まずは手紙をプリントアウトした。ついでに今日の夕食用に弁当と味噌汁も買うことにした。
「今日は作らないんだね」
美亜ちゃんが少し不思議そうに言う。
「手紙を書くのに少し時間がかかると思ってね。でも、美亜ちゃんがよどみなく話してくれたから、早く終わったよ。でもついでに買うよ」
「黒野君が仕事に行っている時に、手紙の内容を考えておいたからね」
美亜ちゃんは微笑んだあと、少し気まずそうに続けた。
「でも、ごめんね。私が夕飯作ってあげられなくって……」
「ご飯作るどころか、クローゼットに隠れて驚かせただろ!?」
「ハハハ!」
美亜ちゃんは楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、ふと僕は思った。
美亜ちゃんは、まだ子供らしい一面を持ちながらも、確実に大人へと向かっているんだろう。さっきの敬語の使い方や、真剣に手紙を書こうとする姿勢、そして、僕との会話で見せる無邪気さのバランス……その全てが、彼女がちょうどその境目にいることを感じさせた。
「この手紙を無事に過去の家に投函できたら、美亜ちゃんもきっと大人になれるんだろうな……」
そんな思いが、心の中で静かに囁かれた。
帰り道、街灯が少ない暗がりの道端に、キジトラの野良猫がいた。よく見かける猫で、いつもこちらをじっと見ているくせに、近づくとすぐに逃げてしまうのだ。
「美亜ちゃん、行ってきな。僕はここにいるから…」
そう言う前から、美亜ちゃんはすでに猫に近づいていた。
彼女はしゃがんで、顔を猫に近づけ「ミャー」と鳴き真似をしている。その姿が本当に愛らしい。
僕も、少し離れたところから「ミャー」と真似てみた。
その瞬間、猫はビクッと反応して、すぐにどこかへ走って行ってしまった。
「余計なことしないでよ!」
美亜ちゃんが振り返り、少し怒った顔をした。
僕は思わず笑ってしまったが、本気で悔しそうだった。
家に帰ると、僕たちは鮭弁当を2人で分けた。
結局、美亜ちゃんは食べられないから後で僕が全部食べることになるのだが、なんとなく一緒に分けるのが習慣になりつつあった。
「明日、仕事が終わったら手紙を出しに行ってみる?」
僕はふと切り出した。
成仏までにはまだ時間がある。
でも、本当に都合のいい時代に戻れるかどうか、確証はまったくなかった。そのことは美亜ちゃんと何度か話していたけれど、僕自身、まだその不安を完全には拭い去れないでいた。
「うん……」
美亜ちゃんは小さく頷いたが、その表情にはどこか迷いが残っているように見えた。
「もし過去を変えて、セリーヌも私たち家族も助かったとしても、今の私たちの記憶は新しい記憶に置き換わって、なくなっちゃうかもしれないのよね……」
美亜ちゃんが少し考え込むように言葉を紡いだ。
僕は一瞬黙り込み、どう答えるべきか迷ったが、結局こう言った。
「とりあえず、まずは美亜ちゃんの家族全員が助かることを考えようよ」
「でも、私……黒野君とのこと、忘れたくない。このことも手紙に書いておきたい、追加していいかな?」
「それは難しいと思うよ」
僕は少し固い声で返した。
「何で?」
美亜ちゃんが訝しげに尋ねる。
「まず、過去の美亜ちゃんが混乱すると思うんだ。あまり複雑にしない方がいいと思う。
それに、仮に手紙に書けたとしても、過去を変えたことで未来も変わるから、僕たちがこうして出会ったこと自体がなくなる。
そうなると、この手紙自体が消えてしまうはずだ。
だから、手紙の内容はセリーヌのことだけにしないといけない。わかるよね?」
僕はなるべく冷静に、しかし毅然とした態度で言った。美亜ちゃんを納得させるためには、感情ではなく理屈で説明するしかない。
「理屈はわかったわ……。ごめんね、わがまま言って……」
悲しそうな顔をして、ふっと視線を落とした。
「今日、手紙を出しに行く?」
僕はなるべく軽い口調で聞いたが、正直なところ、これ以上美亜ちゃんに情が移るのを防ぎたいと思っていた。
別れが辛くなりすぎる気がしていたからだ。
「嫌だ。明日がいい…」
少し拗ねたような声で答えた。
「わかった、じゃあ明日にしよう。」
僕は無理にせかすのはやめた。
すると、美亜ちゃんは甘えるような声で続けた。
「今日も一緒に映画見ようよ。今日はアラジンの実写版が見たいな…」
彼女の無邪気な提案に、僕は思わず微笑んでしまった。まだこうやって僕と一緒に過ごす時間を大切にしてくれているんだ。
映画を見終わると、美亜ちゃんがふと思い出したように言った。
「昨日のシンデレラは王子様と一般市民、今日のアラジンは一般市民とお姫様の結婚だったね…」
「確かに逆だね。でも、アラジンはただの一般市民というより元は泥棒だったけど」
「うん、でも素敵だと思う。元泥棒とお姫様が結婚するなんて、なんだか私たちみたいだね。私が『お姫様』で、黒野君が『元泥棒』」
「元泥棒⁉︎」
思わず聞き返す。
美亜ちゃんは艶めかしい声で囁く。
「そう、私の『宝物』持ってったでしょう。そして、この鍵が魔法のランプ…」
美亜ちゃんはテーブルの上にある鍵の束を指差した。
その言葉に僕は一瞬、どう反応すべきか分からなくなった。ふざけているのか、それとも本当に大人になれたら僕と結婚したいと遠回しに言っているのか……。
僕はただ、黙って美亜ちゃんの顔を横目で見つめたが、相変わらず意図は読み取れなかった。美亜ちゃんの表情はどこか無邪気で、それでいて謎めいている。このまま何を言っても、たぶん答えは返ってこないだろう。そんな予感がして、それ以上深く突っ込むのをやめた。
その夜、僕は妙な気分のままベッドに入ったが、どうにも頭の中が落ち着かず、寝つくのに苦労した。美亜ちゃんの言葉が頭の中で何度も繰り返され、気持ちが乱れるのを感じた。