season 1-1 黒野
season 1--1 黒野
2023年10月8日 日曜日
霧の深い夜、山道を愛車の1975年型のアイボリーのビートルで走っていた。
すると突然、白い瀟洒な洋館が目の前に現れた。車を停め、門を鍵で開け玄関へと進むと、続けて古びた扉も鍵で開けた。扉は重い音を立ててゆっくりと開いた。
ここで目が覚めた。鍵は昨日アンティークショップ「時の結晶」で買った、西洋の古城を思わせる鍵だった。
とてもリアルな夢だった。動くと夢の内容を忘れてしまいそうなので、トイレに行きたいのを我慢して再び目を閉じて静かに夢を反芻した。
山道と洋館付近の景色には見覚えがあった。ここから車で30分くらいの隣町の高台にある高級住宅街だ。住所で言うと紺野市久城だ。ここからは山道を抜けていった方が早い。そこにあの洋館があるのかは定かではないが、どうしても行ってみたくなった。
時計を見ると夜中の2時。今日は日曜日で仕事は休みだ。トイレを済ますと、完全に目が覚めた。窓の外を見ると深い霧が立ち込めている。夢と一緒だ。
鍵を握りしめると「何かに呼ばれている」と感じ、軽く身支度を整えるといく決心を固めた。
次第に深くなる霧の中、慎重に運転をする。
ふと腕を下ろして、デジタルの電波時計を確認する。いつもは気にも留めない西暦の表示に目が止まった。
2013年10月8日 4:15 SUN
「10年前⁉︎」
時計が壊れたのか?何が起きているのか頭が追いつかない…。久城まで30分くらいで着くところが1時間以上かかってしまった。霧が周囲を覆い尽くし、異様な静けさが漂っている。
先程の夢を思い出すと「これも夢なのではないか」と錯覚してしまう。でもこれは確実に現実だ。あまりにも意識がはっきりとしているからだ。
すると霧の中から突然夢で見た白い瀟洒な洋館が現れた。古くて朽ちているが、それがまた幻想的だった。心臓が早鐘を打つ。
車を止めて降りて眺めてみる。懐中電灯も持って行く。2階建てで、ドーマー窓がいくつも並んでいるため、実質的には三階建てかもしれない。庭は荒れ果て、かつての住人の痕跡は感じられない。まるで、時間そのものが止まっているかのような場所だった。
不法侵入になる事を覚悟しながらも、僕は門に手を伸ばした。例の鍵で開けると門はすんなりと開いた。
「嘘だろ?」
奇妙な感覚に包まれながらも、先へと進む。彫刻の施された重厚な玄関の鍵を開けるとドアは音を立てて開いた。夢と同じ様に…。
懐中電灯で足元を照らしながら、中へ足を踏み入れると、まず目に飛び込んできたのは、吹き抜けになった広々としたホールだった。そこには、2階まで伸びる立派な階段が、まるで時が止まったかのように静かに佇んでいた。
薄暗い中、埃が空中を舞い、家具や調度品はかつての栄華を偲ばせるかのように、整然と配置されている。
しかし、その整頓された様子が逆に不気味さを漂わせ、まるで住人が忽然と姿を消したかのような不安感を抱かせた。
ホールの右手にあるドアを静かに開けると、そこはリビングだった。アンティークの家具が美しく揃えられ、時代を感じさせるが、その上には厚い埃が積もり、空間に時間が止まっているような異様な雰囲気が漂っていた。
スタンウェイのグランドピアノも置かれている。サンルームから外を見ると霧の中で街灯がぼんやりと浮かんで見える。
その灯りが薄ぼんやりと影を落とし、部屋全体に不気味さが染み込んでいた。
その奥には、アイランド式のキッチンがあるり、料理道具が整然と置かれていた。
その左側には猫足のバスタブのある浴室が続いていた。全てが、その瞬間まで使われていたかのようだが、人の気配はなく、まるで住人たちが忽然と姿を消してしまったかのようだった。
階段を上がり、二階へ向かうと、そこには長い廊下が続いていた。懐中電灯の光を頼りに進むと、幾つもの扉が廊下の左右に並んでいる。そのうち、最も奥にある一つのドアが不思議と気になり、ゆっくりと開けることにした。
ドアが軋む音を立てながら開くと、そこには異様な静けさが漂う部屋が広がっていた。白いアンティークの家具がきちんと揃えられたその部屋は、一見すると美しいが、何かが確実に狂っている。
グレーのチェストの上にはフランス人形が座っており、そのガラスの瞳がこちらをじっと見つめている。アップライトピアノは音を奏でることなく、ただ静かにそこにあるが、誰かが弾いていた記憶が残っているような気配を感じさせる。
壁には小さな少女の服がかかっており、古びた小学校6年生の教科書が机の上に置かれている。彼女が今にも戻ってきて再び生活を始めるかのように、そのまま残されている。
しかし、部屋全体に漂う不気味な静寂が、何か異常なことがここで起きたのだと囁いていた。
その時だった。誰かがドアの前に立っている気配がした。
「こんばんは、待っていたのよ…」
懐中電灯で照らすと、そこには、小学校高学年くらいの水色の小花柄のワンピースを着た少女が立っていた。
直感的に幽霊だとわかった。彼女の声は静かで、不気味なほど落ち着いていた。
「どうか…怖がらないで…」
心臓は今にも飛び出しそうだった。恐怖が体中を駆け巡り、今すぐここから逃げ出したい衝動に駆られた。
しかし、少女はドアの前に立ちはだかり、出ることを許さなかった。恐ろしくて気が狂いそうだったが、彼女の姿に見覚えがあるような気がして、頭の中がひどく混乱した。
「アンティークショップで鍵を買った人が、扉を開けここに来てくれることをずっと祈っていたのよ…」
その言葉に、僕は混乱しつつも耳を傾けた。少女の顔立ちはハーフで、どこかで見たことがあるような気がする。
「お願いがあるの…。この家はもう老朽化していて、近々壊されるの…。
でも、この部屋にある私の『宝物』だけは残してほしいの。ゴミとして捨てられるのは嫌なの。売っても構わないけどね」
少女は次々と話を続けた。彼女があまりにも普通に喋るので、恐怖心は少しずつ薄れていった。むしろ、彼女の話を聞くうちに、この少女が誰なのかを思い出したことで、懐かしさが込み上げてきた。
彼女の名前はスミス美亜。学年は一緒だった。お父さんがイギリス人で、お母さんが日本人のハーフの少女だった。隣町のピアノ教室で一緒だったことを思い出す。僕はピアノが大好きで、わざわざ隣町の地元ではちょと名の知れた「アルティス音楽院」に通っていたのだ。今でも趣味で続けていて、部屋には電子ピアノが置いてある。
美亜ちゃんは絶対音感を持っていて、ピアノの腕前はずば抜けていた。コンクールでは「お嬢様」として有名で、彼女の美しさとバイリンガルの才能がさらにその評判を後押ししていた。
その頃、僕は美亜ちゃんに対して恋愛感情を抱いていた。一方的な片思いで、告白しようなどとは全く考えていなかった。そもそも個人レッスンの為関わり合いはほぼなかったし、女性と喋るのは今でも苦手だった。
しかし、美亜ちゃんは小学校六年生のとき、突然ピアノ教室に来なくなった。聞いた話では、アフリカのどこかの国に旅行に行った際、飛行機事故で亡くなったということだった。外国の中型のプロペラ機での事故だったため、日本ではあまりニュースにならなかった。訃報を聞いたとき、ひどくショックを受けたが、美亜ちゃんが亡くなったという実感が全く湧かなかった。
「スミス美亜ちゃん…だよね?」
僕は静かに尋ねた。
「えっ、どうして私の名前を知ってるの!?」
美亜ちゃんは驚いた顔をした。その反応が妙に面白かった。
「僕、今26歳なんだけど……黒野元、ピアノ教室で一緒だったけど…覚えているかな?」
「えっ?黒野元君のことは知ってるけど……」
「ところで、今は何年?」
「私が死んで4年だから……2013年よ」
「えっ!この電波時計の西暦、あってるのか?」
「何言ってるのか…よくわからないけど……」
「僕もよくわからないけど、霧の中を車で来たら、どうやら10年前にタイムスリップしちゃったみたいなんだ…」
「は?…あ〜……でも確かに、黒野君が大人になった顔だわ。ふふっ、凛々しくなった!」
僕はその言葉に気を良くした。
「美亜ちゃんも相変わらずかわいいね」
「そんなこと言われるなんて、嬉しい!」
両手を頬に当て嬉しそうに笑った。もはや幽霊との会話というより、普通の人間との会話に近い。僕も思わず笑ってしまい、美亜ちゃんもそれにつられて笑った。この状況は夢なんだろうか?それとも現実か?
「ところで、宝物って何?」
「このフランス人形と、それにこの椅子。あと、このオルゴール。本当はもっとたくさんあるんだけど、とりあえずこの3つを持って帰ってほしいの。全部、私の大切な宝物なの…」
美亜ちゃんが指差したものを一つ一つ見ていく。フランス人形は、どことなく美亜ちゃんに似ている気がした。特注でつくってもらったのかもしれない。
椅子は白くペイントされた年季の入ったナポレオンチェアで、部屋にぴったり合っている。
オルゴールは144弁のリュージュ製で、精巧な造りが目を引いた。どれも美亜ちゃんにとって特別なものだというのが伝わってきた。
「分かったよ。でもさ……不法侵入した上に、強盗じゃないか、これ…」
「そうだね、ふふっ」
その軽い空気の中でも、彼女の次の言葉が僕を現実に引き戻す。
「霧が晴れたら、黒野君のいる現代に帰れなくなる気がするの。だから、早くしたほうがいいかも…」
「そうなの?それは大変…じゃあ、これ持って帰ってあげるよ…」
僕は宝物を丁寧にまとめながら、ふと気になる事を尋ねた。
「ところで、美亜ちゃんは、いつ成仏できるの?」
「あと1週間かな」
「1週間?どうして分かるの?」
「ちょっと…言葉ではうまく説明できないけど『予感』かな…パパもママも幽霊になってしばらく一緒にいたけど、成仏する前に『予感』がしたの…。実際にその通りになったわ。だから私もあと1週間ね」
「そうなんだ…」
もっともっと話したかった。でも、時間がない。名残惜しくも、美亜ちゃんに別れを告げるしかなかった。
「もっと色々話したかったけど……じゃあ、これで…。さよなら」
「うん、ありがとう。幽霊になって4年、私の事が見えたのも、会話ができたのも、黒野君が初めてよ」
「そうなんだ…さようなら」
かつて好きだった人との再会。相手は幽霊だったけど、初めてまともに話した。
幽霊も初めて見た。
鍵を買い、夢を見て、洋館に忍び込み、物を持ち出そうとしている。
色々な事がありすぎて頭が完全に混乱していた。
鍵をかけ、荷物を車に積み込み、誰かに見られていない事を確認しつつ車を走らせた。
霧は少しずつ薄くなってきたが、まだ視界は悪く、慎重にハンドルを握っていた。
その時、突然助手席から声が聞こえた。
「不法侵入、強盗、拉致で逮捕だね!ハハハ!」
驚いて助手席を見ると、何と美亜ちゃんが座っていた。思わず声をあげそうになったが、もう訳が分からない。
「何で乗ってんだよ!?」
「黒野君に取り憑いちゃったみたい!」
「取り憑かれたのか……僕は?」
パニック気味になりながらも、なんとか言葉を返す。
「そう、ハハハ。ずっとあそこにいてもしょうがないでしょ」
「…今、ワープしてきたの?」
「違うよ。黒野君のあとをつけてきたの。壁も車のボディも幽霊ならすり抜けられるからね。後部座席に隠れてたのよ」
「びっくりして事故ったらどうすんだよ?」
「そうだよね。ハハハ、ごめんね。幽霊は殆ど移動できないのだけれど、取り憑いたら移動できるみたい。ずっとあそこにいてもしょうがないでしょ」
「ずっとあそこにいたの?」
「そうだよ。ようやく外に出られたの。ドライブ楽しいね!」
「テンション高いね」
「うん!」
「何か音楽でもかける?」
「何があるの?」
「何でも聴けるよ」
「どこにCDがあるの?」
その言葉に、僕はふと気づいた。時代的に美亜ちゃんはスマホやサブスクのことを知らない。少し驚いた顔をしているのを見て、彼女がまだ過去の時代に生きていたことを改めて実感した。
「美亜ちゃん、やっぱりクラシックだよね?ピアノ曲が好きだよね?」
「うん、クラシック音楽は大好き。ピアノ曲がいいな」
「じゃあ、今の気分を曲で表すと?」
美亜は少し考えてから、ふわりと微笑んだ。
「う~ん、パダジェフスカの『乙女の祈り』かな。祈りが通じたでしょ!」
「それ、いいね!」
車を停め、スマホを取り出して「乙女の祈り」をかけた。有名なピアノ曲はダウンロード済みだったのでオフラインでも聴く事ができる。柔らかなピアノの音色が車内に流れ始めると、美亜ちゃんの顔に驚きと喜びが広がった。
「すごい!何その機械⁉︎」
「これはスマートフォンって言って、未来の電話機だよ。簡単に言うと、小型の超高性能パソコンみたいなものかな?ちなみに、今はほぼ全員持ってるよ」
「へぇ~、すごいね…未来。じゃあ、CDは?」
「もうほとんど使われていないんだ。これでほぼ全部聴けるから」
「そうなんだ……やっぱり『乙女の祈り』って素敵だね」
彼女の言葉に、僕は自然と頷いた。そして、ふと彼女の部屋にあったピアノを思い出し、尋ねた。
「美亜ちゃんの部屋にもリビングにもピアノがあったよね。幽霊でも弾けるの?」
「私は弾けないの。触れることができないのよ。もしかしたら、弾ける幽霊もいるかもしれないけどね……」
「そうなんだ。それは辛いね。目の前にあるのに、弾けないなんて」
「しょうがないよ。もう慣れたから」
その言葉に、僕は少し胸が痛んだ。美亜ちゃんは、かつてピアノが生活の一部だったのに、それを取り戻すことができない。
「黒野君は?まだピアノを弾いているの?」
「うん、今でも続けてるよ。電子ピアノだけどね。部屋にあるよ」
「へぇ、もしかしてプロのピアニストになれた?」
「まさか?今は普通のサラリーマンだよ。趣味で弾いてるだけ」
曲が終わると、次にベートーベンの「月光 第1楽章」を選んだ。霧がさらに薄くなり、満月がゆっくりとその姿を現したからだ。
静かなピアノの旋律が車内を優しく包み込み、僕たちの周囲に広がる月明かりと一体となって、幻想的な雰囲気を作り出していた。
美亜ちゃんはうっとりとした様子で、窓の外の月を見つめている。その瞳は、まるでその月明かりを映し取るかのように、輝いていた。ピアノの音色が彼女の表情をさらに柔らかくし、儚げな美しさが際立つ。
「月、綺麗だね……」
美亜ちゃんがぽつりと呟いた。
「本当に……」
僕も小さく返事をする。
その時、ふと時計に目をやると、表示は2023年10月10日、5:10を示していた。僕たちは無事に現代に戻ってきたらしい。
僕は幽霊の美亜ちゃんとその「宝物」を積んで、タイムトラベルから生還したのだ。
「ほら、見て、電波腕時計の日付!」
「おおー、未来に来たのね。ドキドキするね!」
「僕にとっては現代ね。無事に帰れたよ」
思わず美亜ちゃんの頭をポンポンと撫でようと手を伸ばしたが、手は美亜の頭をすり抜けてしまった。やはり、触れることはできないらしい。それでも、僕は美亜ちゃんがまだここにいることに安堵を感じていた。
「ごめん、触れられないんだね」
「うん、幽霊だからね、ふふっ」
その後も、僕たちは色々なピアノ曲を聴きながら、音楽に身を委ねて語り合い、家までの道のりを楽しんだ。
やがて、自宅のマンションに到着した。霧は晴れて、空は幻想的な群青色に変わっていた。駐車場で宝物を一つずつ下ろし、美亜ちゃんの気持ちを大切にしながら慎重に扱った。椅子の上に全て乗せて共にマンションの中へと向かった。
「えっと…僕の部屋に来るの?」
「取り憑いているからね。ダメなの?」
「………」
「ねえ!?」
「…大丈夫だよ、どうぞ…」
幽霊とはいえ、12歳の少女を部屋に連れ込むことには、大きな抵抗があった。当然だ。もしこれが生身の人間で、世間に知られたら、間違いなく犯罪者だ。そんなことが公になれば、僕の人生は一瞬で終わってしまうだろう。
いや、それ以前に、今日の行動自体がすでにアウトだ。勝手に鍵を開けて、他人の家に入り、物を持ち帰るという行為は、間違いなく犯罪だ。
もしどこかに監視カメラがあったとしたら……。
あの深い霧が幸いして映っていなかった可能性は高いが、それでも内心、安心はできない。不安がじわじわと胸に広がっていく。
部屋に足を踏み入れた瞬間、頭の中でその不安がさらに増大する。誰にも見られていないとしても、自分がやったことの重大さは理解している。それでも、美亜ちゃんの宝物を大切に守りたいという気持ちがあったから、僕はここまで来たのだ。
「美亜ちゃん……僕、大丈夫かな……今までの事…」
おそらく、今はとても情け無い顔をしていることだろう。
「でもあれから10年経ってるんでしょ。タイムスリップして。もう時効だよ、多分。ふふっ」
「確かに!もう訳わかんないや。アハハハ…」
美亜ちゃんの存在が、少しだけ僕の心を落ち着けてくれるような気がした。
ナポレオンチェア、フランス人形、リュージュのオルゴールを部屋に並べると、驚くほど自然に部屋に溶け込んだ。不思議と言うより、むしろ当然のように思えた。
僕はアンティークショップであの鍵を買うくらいだから、アンティークが好きだ。部屋の家具もアンティークやアンティーク調のものが多く、宝物たちも見事に馴染んでいた。
「合うわね、この部屋に……私の宝物」
美亜ちゃんは感慨深そうに部屋を見渡しながら、そっと呟いた。
「全部大切にするよ。捨てたり、売ったりなんて絶対にしないから」
そう誓うと、美亜ちゃんはゆっくり頷いた。
しかし、次の瞬間、彼女の大きな瞳から大粒の涙が溢れ出し、ポロポロと流れ落ちた。僕は思わず動揺した。こんな形で人に泣かれたことは今までなかったからだ。
「ありがとう…」
美亜ちゃんは涙声で答えた。
「このフランス人形、美亜ちゃんにそっくりだね」
「そりゃそうだよ、私をモデルに作ってもらったんだから…」
「すごい…そんな事できるんだね…」
「パパがフランスで腕利きの職人さんに頼んで作ってもらったんだよ」
「すごい…」
「でも変な感じだよ。自分そっくりな人形が自分の部屋にあるって、ハハハ」
「確かにそれはそうかも…このリュージュのオルゴールは?聴いてもいい?」
「うん、聞こうよ」
僕はそっとオルゴールのフタを開けた。その瞬間、部屋に朝日が差し込み、柔らかな光がオルゴールを照らした。弁は銀色に光輝いている。
144弁のリュージュのオルゴールから流れ出したのは、「カノン」だった。その音色は、繊細で複雑、どこまでも澄んでいて美しかった。これまで何度もカノンを聴いたことがあったが、この瞬間のカノンは、これまでのどの演奏よりも心に響いた。
その瞬間、僕の目にも涙が流れてきた。音楽の力が、二人を包み込み、心を震わせた。
「私、自分では開けられないから……4年ぶりに聴いた…」
「このオルゴールは本当に素晴らしいよ…」
こんなに爽やかな朝を迎えたのは、生まれて初めてかもしれない。音楽の力は偉大だ。改めてそう感じた。
「このオルゴールね、私の10歳の誕生日にパパが買ってくれたの…」
美亜ちゃんはそう言いながら、オルゴールを優しく撫でた。
「すごいね。高かったんじゃない?」
「値段なんて知らないわ…」
美亜ちゃんの無邪気な言葉に、僕は興味本位でスマホを取り出し、こっそりとオルゴールの値段を調べてみた。画面に表示された数字に思わず息を飲む。100万を超えていたのだ。
改めて、美亜ちゃんが本当にお嬢様だったことを実感した。
僕が小学生の頃、誕生日プレゼントと言えば大抵ゲームソフトだったな…ふと思い出して、苦笑してしまった。
「私の12歳の誕生日プレゼントは、アフリカ旅行だったわ。野生の動物を見にね。その後、パパがピラミッドも見たいって言って、エジプトのカイロに行く途中で飛行機が墜落したの…言ってなかったけど、知っているよね?…」
「…うん知ってたよ…キリコ先生から聞いたよ。ごめんね、辛いことを話させてしまって…」
「…もういいの…キリコ先生…元気?」
「ごめん…小6でアルティスやめてから、会っていないからよくわからないだ。美亜ちゃんはご両親に本当に大切に育てられてきたんだね」
「一人娘だったからね…でもママは口うるさかったよ。私…幽霊になっても怒られていたからね、ハハハ」
「えっ?マジで?ご飯はどうしてるの?」
ちょっと疑問に思った事を聞いてみた。
「食べるわけないでしょ、幽霊が。でも食べたいよ」
「確かにね。じゃあ、睡眠は?」
「ちゃんと眠れるよ、幾らでも眠れるのよ…」
「幽霊でも眠るんだ……」
「そうよ。でもトイレは行かなくていいし、お風呂も入らなくていいし、勉強もしなくていいんだ。気楽なもんだよ…ごめんね、実はさっきからかなり眠いんだ…。このソファで寝てもいい?」
「ベッドで寝なよ」
「うん、じゃあベッドで寝る…」
そう言って、美亜ちゃんは静かにベッドに入った。
「ねえ、ピアノで何か弾いて。何でもいいよ。静かな曲がいいな…眠りにつけるような…」
僕はピアノの前に座った。美亜ちゃんのために、何か特別なものを弾きたかった。
そこで選んだのは、エリック・サティの「ジムノペディ第1番」。僕が1番好きな曲だ。
鍵盤にそっと指を置き、ゆっくりと最初の音を奏でる。もともとゆったりとしたテンポのこの曲を、さらにゆっくりと、心地よく眠りにつけるように、慎重に弾きはじめた。
柔らかな旋律が、部屋の隅々まで静かに響き渡る。サティの音楽は、どこか儚く、夢の中に漂っているような感覚を与える。音が空間を包み込むたびに、美亜ちゃんの呼吸が少しずつ深くなり、安らかにベッドに横たわるその顔は、静かに微笑んでいるように見えた。
音楽が進むにつれ、部屋の空気は次第に柔らかく、温かくなっていく。まるでサティの旋律が美亜ちゃんを優しく抱きしめているかのようだ。音と音の間にある静寂さえも、最後の音が消えゆく頃には、すっかり眠りについていた。
僕も軽く朝食を済ませ、歯を磨いてからソファに横になると、泥のように深く眠りに落ちてしまった。
目が覚めた時には、すでに昼の12時を過ぎていた。美亜ちゃんは先に起きていて、ナポレオンチェアに片膝をついて座っていた。
「黒野君、おはよう!爆睡してたね、ふふっ」
白昼夢の中、状況をゆっくり思い出す。
そうか…洋館に行き、幽霊の美亜ちゃんに取り憑かれたのだ。
「…おはようって時間でもないけどね…」
苦笑しながら返事をした。
「これから何するの?」
「ちょっとスーパーに買い物に行ってくる…」
「私も行く!」
思わぬ言葉に少し驚いたが、ふと気になって尋ねた。
「美亜ちゃんの姿って、他の人からも見えるの?」
「霊感のある人なら、見えるかもしれないよね。家を取り壊す業者の人や親戚も家に入ってきた事あったけど、今まで見えたのは黒野君だけだよ…なんか波長が合うのかな」
「へー、僕は霊感ないけどね…」
「そうなんだ…」
少し動揺した。幽霊の美亜ちゃんと一緒に生活をすることには、大きな戸惑いを感じていた。外出するとなると、他の人に見えるかどうかは大きな問題だ。今更洋館に帰ってもらう訳にもいかない。
「大丈夫だよ。そんなに心配しないで!ふふっ」
美亜ちゃんは明るく笑った。
僕は笑顔に救われたような気がしたが、まだ心のどこかに引っかかるものがあった。
「うーん、じゃあ一緒に行こうか?歩いてスーパーに行くだけだけど…」
僕は健康の為、買い物は大きめの登山用リュックを背負い、車は使わずに徒歩でいくことを心がけていた。
「行く!」
「その前に県立公園に散歩に行こうか?」
日曜日、時間がある時は少し遠いけど、大きな公園を抜けた先にあるスーパーに行く事になっているのだ。
「うん行く!」
美亜ちゃんはすぐに元気よく頷いた。外の世界を楽しみたいという彼女の気持ちが伝わってくる。
「朝にも言ったと思うけど、1人では少ししか移動できないの。今は黒野君に取り憑いているから色々一緒に行けるのよ」
「うん、覚えているよ。それじゃ外の世界を楽しもうね」
「うん!」
外に出ると、晴れ渡った空の下、太陽の光がまぶしく照りつけていた。歩いていると少し汗ばむくらいの暑さだったが、それが心地よくも感じられた。県立公園は広大で、芝生広場、樹木が茂る森、池、花壇、テニスコート、ドッグラン、カフェ BBQエリアなど、多彩な要素が揃っている。
池には鯉が泳いでおり、鴨が優雅に水面を滑っているのが見えた。ボート乗り場もあり、僕は一緒にボートに乗ることを密かに計画していた。
「ボート乗りたい?」
「乗りたいよ!」
「じゃあ、乗ろうか」
「やった!」
美亜ちゃんは満面の笑顔を見せた。
自動券売機で30分500円のボート券を購入し、係員に案内されながら、2人でボートに乗り込む。オールを漕いで、池の中央へと進むと、美亜ちゃんは景色を眺めながら心から楽しんでいる様子だった。その無邪気な姿に、僕もつい微笑んでしまう。
「少し音楽でもかけようか」
Bluetoothのスピーカーの電源を入れ、チャイコフスキーの『白鳥の湖-情景』を流した。
小型Bluetoothのスピーカーはいつもリュックに忍ばせてある。芝生の上に寝転びながら、聴くことがあるからだ。
穏やかなメロディが池の上を優しく包み込む。
すると、曲を聴いた美亜ちゃんが急に爆笑しながら言った。
「これは『鴨の湖』だね!ハハハ!」
その言葉に僕も思わず笑いがこみ上げてきたけれど、周りは家族連れやカップルばかり。
もし僕が1人でボートに乗って、声を上げて笑い出したら、完全に狂人だと思われてしまうだろう。
でもそんな、自分の姿を想像したら、つい吹き出してしまった。
気がつくと、笑いが止まらない。僕は慌てて上着で顔を隠し、なんとか落ち着こうとした。
しかし、それを見た美亜ちゃんが指をさして爆笑している。
二人で笑い続けるうちに、どちらが先に笑い出したのかも忘れてしまい、ボートの上で泣き笑いする時間が流れていった。周りの視線を感じながらも、その瞬間があまりに楽しくて、気ならなくなっていた。
ボートから降りると、僕たちは森の小道を散歩することにした。木々の間を風が通り抜け、静かな空気が心地よい。日差しが木漏れ日となって、道を柔らかく照らしていた。
美亜ちゃんは、飼い主に連れられて散歩をしている犬にすっかり夢中になっていた。屈んで犬に触れようと手を伸ばしたり、笑顔で呼んでみたりしていたが、もちろん犬は気づくことはない。
それでも、美亜ちゃんはそんなことを気にする様子もなく、終始楽しそうだった。
そんな無邪気な姿を見ていると、まるで普通の少女が楽しく遊んでいるかのように思えて、僕も自然と笑顔になった。幽霊だということを忘れてしまうほど、生き生きして見えたのだ。
風がそよぐ中、美亜ちゃんは犬たちに向かって何度も手を振り、楽しそうに歩き続けていた。その姿は、静かな森の中に優しい光を灯しているようだった。
「美亜ちゃんは犬、大好きなんだね。飼ってたの?」
「飼ってたよ」
「犬種は?」
「アフガンハウンド、名前はセリーヌ…3歳の女の子。私の妹みたいな存在だったわ」
「そうなんだ」
ロングヘアーが美しい大型犬だ。お金持ちが飼うのに相応しい犬だと思った。思い出などを聞こうと思ったが、事故の事で生き別れていたらと思うとそれ聞けなかったし、美亜ちゃんも話そうとしなかった。
芝生の広場に着いたので、木の下にレジャーシートを敷いて座った。美亜ちゃんと一緒にいると、小学生の頃に戻って、同級生の子とデートしている様な、親戚の子供を預かっている様な不思議な気分だった。
缶コーヒーを取り出して開けると美亜ちゃんが一気に話し始めた。
「この公園、来たことあるよ。休みの日、パパとママと私、セリーヌを車に乗せてね。セリーヌ、凄く目立つから色々な人に話しかけられるの『かっこいいね!』って私が褒められているみたいで凄く嬉しかったわ。セリーヌも泊まれる高原のホテルに一緒にバカンスに行って、さっきみたいに一緒にボートにも乗ったわ…」
「いいね。すごく優雅だ」
「うん、学校やピアノの事で嫌な事があってもセリーヌを抱きしめるとすぐに元気になれたし、思い出がいっぱい…。でも肝臓の病気になって死んじゃったわ。もっと早く気がついてあげられたら…」
「肝臓の病気⁉︎…」
「うん…。それで私…すごい落ち込んでね…。パパが『美亜の誕生日に野生の動物を見にアフリカに旅行に行こう』って、言ってくれたの。家政婦さんは平日の昼間家に来るけど、セリーヌが寂しがるからそれまで長期旅行には行けなかったの。だから、その年に一家全員が死んだ事になるわ」
そう言い終わると美亜ちゃんは悲しそうな顔をした。
こういう時、なんて声をかければいいのか、全く見当がつかなかった。
言葉に詰まったその瞬間、ふと金木犀の甘く優しい香りが漂ってきた。その香りは、まるで「何も言わなくていい」と囁いているようだった。ただ、そばにいてあげること。それだけで十分なんだ。
しばらくの沈黙の後、美亜が口を開いた。
「黒野君、優しいね…」
「今頃気がついた?」
冗談っぽく返した。
「ハハハ、今頃気がついたよ」
その後、彼女は突然、思いもよらない質問を投げかけてきた。
「黒野君、彼女いるの?」
不意打ちの質問に、危うく飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。
「…今はいないよ…」
あくまでさらっと答えたつもりだ。
しかし、実は26年間、一度も彼女ができたことがなかった。恥ずかしいので、その事実は隠しておくことにした。それに、付け加えておくと、僕の部屋に初めて入った記念すべき女性は、幽霊の美亜ちゃんだった…。
高校も大学も会社まで理系で、女性が少なかった。しかも、モテないグループに属していた自分には、そもそも女性との接点がほとんどなかった。ファミレスでバイトしていた時も、女性はいたけれど、話すのが苦手で結局うまく関わることができなかった。
「いつからいないの?」
美亜ちゃんが無邪気にさらに突っ込んでくる。
「…いつだっていいじゃん…」
できる限り平静を装ったが、これ以上聞かないでくれオーラを全力で出していた。
「多分、こういう時に素直に『今まで彼女がいたことないんだよ』って言える人の方が、まだモテるんだろうな…」
そう心の中で自分に皮肉を言ってみた。そしてふと、去年のバレンタインデーのことを思い出した。もらったチョコは、母親からの1つだけだった。あの時は、「これなら0個の方がよっぽどマシだ」と本気で思ったものだ。それを考えると、急に自分が可笑しくなった。
もし、美亜ちゃんが生きていて今、26歳だったらどんな女性になっていただろう?きっとすごく素敵な大人の女性になっていたに違いない。
そして、僕なんかには見向きもしなかっただろう…。
こんなふうに卑屈なところも、モテない理由のひとつなんだろうな……と、自己分析しながらまた苦笑する。
とりあえず、今は目の前の美亜ちゃんで、女性と話す練習をしてみよう。そう決意した。美亜ちゃんは人見知りせず、かなり話しやすい相手だ。
でも、12歳の幽霊の子と会話していることが練習と言えるのか……自問しながらも、少しずつ自信をつけようとしていた。
「考え事してるの?もしかして、私のせいで元カノのこと思い出しちゃった?」
「…いや…」
予想外の言葉に、返答をためらってしまう。すぐに気づいたようで、少し申し訳なさそうに続けた。
「ごめんね、もう聞かないから…」
上手く誤魔化せたような気もしたけれど、彼女の純粋な瞳は全てを見透かしているかのようだった。
何か話さなきゃ、と思っても、言葉が喉に引っかかって出てこない。
こんな時、僕はついつい場違いなことを口にしてしまい、周囲の空気を凍りつかせた経験が何度もある。
「美亜ちゃん、英語喋れるんだよね?」
またしても、訳のわからない質問をしてしまった。僕は英語のテストはそこそこできたが、英会話となるとさっぱりだ。
「うん、喋れるよ。パパとの会話は基本的に全部英語。そういう風に教育されてきたからね。黒野君は?」
「僕?英語しか喋れないよ」
また冗談を言ってみた。
「ハハハ…」
鼻で笑われた気がする。さっきから卑屈な自分に気づく…。
「美亜ちゃん、英語なんか喋ってよ」
思わずそう言ってしまったが、さすがに困るだろうと思った。
「Sure, I can speak English. How about I say something like this? ‘The weather today is nice, and I’m having a lot of fun spending time with you. You should try speaking more English, though. It’s good practice! 」
流暢な英語が、軽やかに彼女の口から出てきた。僕は、ぽかんとしてしまった。
「黒野君、英語しか話せないんでしょ?今の全部、わかったよね?」
美亜ちゃんは冗談っぽく目を細め、少しからかうような口調でくすっと笑った。
自ら墓穴を掘ってしまった。カッコ悪い。美亜ちゃんの英語は流暢過ぎて、ほとんど聞き取れなかった。
これでも中高大と10年間は英語を勉強してきたはずなのに……全く、日本の英語教育はどうなっているんだ?そう考えながら、また黙ってしまった。
次に何を話そうか、頭の中でぐるぐると考えてみるが、言葉が思い浮かばない。
「…そろそろ次のところ行こうか?どこがいい?」
そう言って、美亜ちゃんに次の行き先を尋ねた。
「お花が見たい! 花壇に行こうよ!」
美亜ちゃんが嬉しそうに提案してきた。
「いいね!」
昔は、花なんて興味がなかったが、最近は植物全般が好きで、時々スーパーや花屋で季節の花を買って、花瓶に飾ることもあった。
今日も、どこかで花を買って帰ろう。その際、美亜ちゃんに選んでもらったら、きっと喜ぶだろう。
花壇には、日々草、ジニア、ペンタス、マリーゴールド、サルビアなどが規則正しく並び、色とりどりの花々が咲いている。隣には大きなコスモス畑が広がり、満開の花が秋の風に揺れていた。
「すごい!綺麗!最高!」
美亜ちゃんは嬉しそうにジャンプしながら喜んだ。その無邪気な姿を見て、僕も自然と笑顔になる。
「そこに立ってみて」
美亜ちゃんをコスモス畑の前に立たせて、スマホのカメラで写真を撮ってみた。
もちろん、彼女の姿は写っていなかった。もし写っていたら、それはまさに心霊写真だ。
それでも、カメラに美亜ちゃんの姿を収めたいという気持ちが強かった。
横を見ると、カフェがあり、ちょうど二人がけのテラス席が空いていた。特等席だ。リュックを置いて席をキープし、カウンターで飲み物を注文した。
一応、美亜ちゃんに見張っていてもらう。
先程、缶コーヒーのブラックを飲んだばかりなので、今度はアールグレイのミルクティーを、二人分頼んだ。もちろん美亜ちゃんは飲むことはできないけれど、それでも二人分。
ミルクティーができて、席に運んだ。美亜ちゃんは飛び上がって喜んだ。
「気持ちが嬉しいよ!」
ああ、よかった。もし嫌味を言われたらどうしようかと内心ビクビクしていたけれど、そんな心配は杞憂だった。「グッジョブ!」と自分に言ってみた。
席に座り、少し熱そうなミルクティーが冷めるまで待つことにした。その間、美亜ちゃんは飲む真似をして、にこりと微笑んだ。彼女の笑顔を見て、僕も自然と微笑み返した。
「ところで、鍵のことで聞きたいんだけど」
僕はスマホを耳に当てながら話し始めた。こうすれば周囲の人に怪しまれることはないだろう。
ただ、カフェで電話している人に見えるだけだ。
もっとも最近では、ワイヤレスイヤホンで電話している人も多いし、独り言を言っているようにしか見えないこともあるが、街の風景としてはすっかり定着している。何なら声をあげて笑っている人だっている。そう考えると、僕が美亜ちゃんと話していることも、そこまで怪しまれることはないのかもしれない。
「うんうん、あの鍵は昔お城の鍵だったの」
「門の鍵と玄関の鍵、すごい年代物だよね」
僕はそう言いながら、鍵をテーブルに出してみせた。細かい装飾が施されたその鍵は、いつ見てもカッコいいと思う。
「その鍵はね、ドアと門の鍵なの。パパの実家が改装される時に、ドアと門をイギリスから持ってきて、あの家に付けたの。この鍵はその元鍵よ。普段使っている鍵はコピーの方」
お金持ちのやることはやっぱり凄い、と僕は思った。
「それでね、さっき言った、アフリカ旅行に行く前にね、ママが古いジュエリーやコインをまとめてアンティークショップに下取りに出したの。
その時、家政婦のタエさんに頼んだんだけど、あの鍵も一緒に紛れ込んでいて売っちゃったみたいなの。それがわかったのは、私たちがアフリカに着いてから。パパはすごく怒ってたわ。『あれは先祖から受け継いだ大切な鍵なんだ』って」
「それで、その鍵がアンティークショップに渡り、14年後に僕が買ったと言う訳か…」
「そうなの。私は祈ったわ。誰かが鍵を買って、鍵を開けて私の部屋に来てくれることを。そしたら、黒野君が鍵を開けて入って来てくれたのよ。窓から見ていたんだから」
「なるほど…そういう経緯があったんだね」
「そう、しかも10年後から来たとか、私の声も姿も見えるなんて凄いよね!だから私、凄く嬉しくて黒野君に取り憑いちゃったの。
ふふっ、すごくない?この話!やっぱり、この鍵は魔法の鍵だなんだよ!あとね、この鍵、流石に歯の部分は変えてあるけど、元々はお城の鍵だったんだって」
「それはすごい!…と言う事は美亜ちゃんは王家の末裔なんだね。…多分…その王家は魔法が使えて、その血を受け継いでいるだよ…お姫様でもあり、魔女でもあるんだよ、美亜ちゃんは!」
「…なんかすごい妄想だね…ハハハ」
「妄想?ロマンチストって言ってよ。アハハ…」
「すごいロマンチスト!でもこうして幽霊になっても普通に会話できたり、祈りが通じて来てくれたり、不思議な事が起きているのは、ある意味魔法と言えるかもね」
「そうだよ、だって、夢の中で美亜ちゃんの洋館が出てきて、その鍵を使って扉を開けたんだよ。起きたら、何かに導かれる様に、夜中にもかかわらず車を走らせて、洋館に向かっちゃったし……やはり、何かに導かれたとしか思えないんだ。まだ魔法が残っているとしたら……また過去に戻れるかな?」
僕は鍵を見つめながら言った。
「過去?何で?」
「もし、家族みんなが生きている過去に戻れれば、セリーヌも、美亜ちゃん一家も全員救えるかもしれない…」
「どういうこと?」
「セリーヌの肝臓のことが、もう少し早くわかれば、病院に連れて行ければ助かったかもしれないでしょ?そしたら、長期旅行には行かないってさっき言ってたよね?肝臓は『沈黙の臓器』って言われていて、病状が身体には現れにくいんだ」
「なるほど…頭いいね!」
美亜ちゃんは目を輝かせ、嬉しそうにそう言った。
「家族が生きている時代の過去に戻り、手紙をポストに入れるんだよ。セリーヌの肝臓の事を手紙に書いてさ。代筆するから」
「そんなに上手く行くかな?」
「美亜ちゃんしか知り得ない様な情報を盛り込めば信じるしかないだろ?」
「うん、うん、確かに」
「でも、また過去に戻れるかだよね。あの時はものすごい深い霧が出ていて、なんかとても不思議な雰囲気だったんだよ。美亜ちゃんも『霧が晴れたら現代に帰れなくなるかも』って言ってたでしょ」
「うん。言ったね…」
「とりあえず家に帰ったら手紙を書こうよ」
「うん!」
紅茶を2人分飲み干すと、返却口に置き、カフェを後にした。
「ねえ、美味しかった?」
「飲み過ぎた〜。お腹タプタプだよ」
「当たり前だよ、ハハハ」
その後、スーパーに行き1週間分の食料を買い込むと、花屋「ル・フルール」に寄った。
「ねえ、花を買って帰ろう。テーブルに飾ろうか」
「うん。飾ろう!私が選んであげるよ!」
「選ばせてあげたら喜ぶのではないか?」と言う考えは言うまでもなかったようだ…。思わず苦笑した。
駅前の花屋「ル・フルール」に足を踏み入れた瞬間、僕らはまるで花の世界に引き込まれるように、濃厚で甘やかな香りに包まれた。色とりどりの花々が、店内の光を受けて、まるでキャンバスに描かれた絵のように輝いている。
「すごい、いい香りだね〜」
美亜ちゃんが笑みを浮かべながら、嬉しそうに言った。どうやら幽霊でも匂いはわかるらしい。僕も思わず微笑み返したが、同時に「これからは自分の身だしなみや匂いにももっと気を配らなければ」なんて思った。家でも落ち着かなさそうだ…。
美亜ちゃんが選んだ花々は色彩豊かなセンスに溢れていた。ピンク、白、紫のコスモス、赤、オレンジ、黄色のダリア。さらに、淡いピンクとケイトウ、そして、白とピンクの秋明菊。黄色とクリーム色のスプレーマムも加わり、その1本1本が絶妙なコントラストを描いていた。一方で僕はグリーンを足したくて大きなレザーファンを2本選んだ。
店員さんに「プレゼント用です」と告げると、彼女は慣れた手つきで花々を丁寧に束ね、見事なブーケに仕上げてくれた。ブーケは美しく手提げ袋に収められ、店を後にした。
外に出ると、時刻はすでに17時を回っていて、夕闇が街を静かに包み込んでいた。
美亜ちゃんは軽やかにスキップしながら、時折手提げ袋の中を覗き込んでは、顔を埋めるように香りを楽しんでいる。
自宅へ帰ると、花束を花瓶に生けて飾り、そっとテーブルの上に置いた。花々の鮮やかな色彩が部屋を彩り、その甘い香りが静かに漂い始める。振り返ると、美亜ちゃんがすぐそばに立っていた。
「お花、ありがとうね。嬉しい!」
「夕食はパスタでいい?」
「うん」
「今作るからね」
僕は台所に向かい、パスタの準備を始めた。美亜ちゃんはリビングのテーブルに座り、花に顔を近づけてうっとりとしている。
「何か音楽は聴く?」
僕が尋ねると、美亜ちゃんはふと考えるように目を細め、少しだけ間をおいて言った。
「アンドレ・ギャニオンの『巡り合い』がいいな…」
その言葉に僕は頷き、リビングにピアノの旋律が静かに流れ始めた。やわらかで夢見心地なメロディが、部屋全体を包み込む。美亜ちゃんは静かに音楽に耳を傾け、まるでその音に身を委ねるかのように、穏やかな表情を浮かべている。
ペペロンチーノとサラダを作り、テーブルに並べた。美亜ちゃんの分は、小さなお皿にほんの少しだけ盛り付けた。花屋で自分の匂いに気をつけようと思ったばかりなのに、たっぷりのニンニクを使ったペペロンチーノを作ってしまったことを、心の中で少し後悔していた。
「いただきます!」
美亜ちゃんはまたしても、食べる真似をした。
「すごく美味しい!黒野君、料理上手なんだね」
その健気な演技に、僕は胸が締め付けられそうになった。食べることができないのに、それでも楽しそうに振る舞っている姿が、なんだか切なくて、涙が出そうだった。
「ありがとう。でも、ニンニクが効きすぎてるかもしれないね」
「ううん、ちょうどいいよ!」
美亜ちゃんは嬉しそうに笑って、また一口食べるふりをした。
部屋に漂う花々の香りと、ニンニクの香ばしい匂いが混ざり合う中、静かな時間が流れた。美亜ちゃんと過ごすこの一瞬一瞬が、とても大切に思えた。
いなくなるまで、あとどれくらいの時間が残されているのだろうか——そんな思いが頭をよぎる。
食事を終えると、早速手紙の話を切り出した。
「セリーヌのこと、手紙に書いてみない?」
「…今日はいいや。明日にしようよ。黒野君が仕事に行っている時に考えておくね。まだ内容も決めてないし、今日はゆっくり映画でも見ようよ」
その言葉に、正直ほっとした。もし手紙を書き終え、過去に戻り手紙を投函したら、その時点で美亜ちゃんとの生活も、そして彼女との記憶も、全て消えてしまうような気がしていたからだ。
もちろん、それはすべてが上手くいった場合の話だが。
でも、美亜ちゃんも同じ気持ちでいるのかもしれない、そう思うと、少し嬉しく感じた。美亜も、この時間が大切で、今すぐに終わらせたくないのかもしれない。いや、もしかしたら、単に疲れているだけかもしれないし、本当に内容をしっかり考えたいだけなのかもしれない。いずれにせよ、今日はその話を進めなくて済んだことに、少し安堵していた。
「じゃあ、映画にしようか。何がいい?」
「うん、何があるの?」
美亜ちゃんは明るい笑顔を浮かべた。
「今の時代、サブスクって言って映画もこのテレビでなんでも見れるんだよ」
「えっー?未来すごい!レンタルビデオ屋さんは?」
「この街にはもうないよ。ちなみに、本屋も1軒だけになっちゃったんだ。今は注文した本がインターネットですぐ届くし、スマートフォンでも読めるんだ」
「便利だけど、ちょっと味気ないね…。それに、本屋さんも、レンタルビデオ屋さんもかわいそう…」
その言葉に、僕は美亜ちゃんの優しさを感じた。未来の便利さを知っても、それに伴って失われていくものに対して、思いを馳せている。
迷っている美亜ちゃんに、僕はディズニープラスの中から「シンデレラの実写版」を選んだ。実写版は2015年上映されたので美亜ちゃんはまだ見た事がないはずだ。
僕自身、一度見たことがあるが、その映像美に圧倒された記憶が鮮明に残っている。ストーリーは誰でも知っているけれど、2人が十分に楽しめる作品で、ハッピーエンドで終わるのも、こういう時にはぴったりだと思った。
「ちなみに、英語字幕と日本語吹き替え、どっちがいい?」
と尋ねると、美亜ちゃんは少し考えてから答えた。
「いつもは英語で見るように教育されてきたけど、今日は黒野君と一緒に楽しみたいから、日本語吹き替えにしよう!」
その言葉に、彼女がどれだけ高度な教育を受けてきたのかを思い知らされ、驚かざるを得なかった。おそらく、英語以外の教科も優秀に違いない。そんな風に考えると、僕はふと、自分とのレベルの違いに愕然とする。2人は会話を交えながらも、食い入る様に画面を見つめ、ゆっくりと映画の時間が流れていった。
映画を見終わると、明日の仕事に備えてお風呂に入り、寝る準備を始めた。ふと時計を見ると、今日は本当に長い1日だったと改めて思った。
「私はソファーで眠るから、黒野君はベッドでゆっくり休んでね」
「えっ、でも…」
僕はベッドを譲ろうと少し戸惑ったが、美亜ちゃんはすかさず笑って続けた。
「ソファーで眠ると、身体痛くなるよ。私は幽霊だから大丈夫!気を使わないで」
その言葉に少し安心した。実際、僕は以前ソファーで寝たとき、寝違えてひどい目にあったことがあるのだ。美亜ちゃんの優しさに触れながら、ベッドに入ることにした。
「うんおやすみ。明日仕事だから、僕がいない間は一人で映画を見ていてね」
「わかった!今日一日、本当に楽しかったよ。おやすみ、黒野君…」
僕はもう一度「おやすみ」と返し、ベッドに横になる。今日の夜中の2時に目が覚めてから、信じられないような出来事が次々に起こった。
美亜ちゃんと過ごした時間、幽霊との生活——すべてがまるで別世界のようで、これが本当に1日で起きたことだなんて、とても信じられなかった。