はじめまして
老いメイクの剣太朗作戦はどうなるでしょう。
まだ暑い夏の終わり。
緑の木々と青い空、白い雲が絵にかいたような夏を語っていた。
「ちょっとこの暑さに特殊メイクは酷だね、髭が痒くなってきた」
風太が運転する車内の剣太朗が既に汗だくになっている。9月と言うのに残暑が続くので仕方がない。
「エアコン強くしますね」
風太が気を利かせる。菖蒲が若葉の家に来てふたばの面倒を見てくれることになり、一緒に泉が息子の晴と残った。
「今日上手くいったら、晴君も泉さんも花ちゃんに会わせてあげたいわ。花ちゃん剣君の幸せだけを本当に願っているから」
剣太朗の顔は緊張したままなのに気付いた風太は「まぁまぁ焦らないで」と若葉をなだめた。
車が坂道を上がった所に花子のいる施設の門が見える。
そのまま駐車場へ車を停め三人は降りた。山沿いの小高い場所にある施設は緑と青い空の中に建っている。
介護士をしている風太が事前に連絡を入れてくれたので、すんなり受付を済ませた。とりあえずロビーで剣太朗は待つことにする。
風太と若葉が花子の部屋へ向かい、先ず様子を見ることに。
「じゃぁね!作戦実行行ってきます!」
若葉は剣太朗に敬礼の真似をしてロビーを後にする。
「花ちゃん、こんにちは」
花子はKNIGHTのライブ映像をその日は見ていて、若葉の声で振り返る。
「あら、若葉ちゃん。風太くんも一緒にどうしたの?」
どうやら今日は体調も良いようだ。
「ちょっと近くまで来たから寄ってみたの」
「あ、そう、ありがとう」
「これ、お土産」と若葉は花子のお気に入りのフィナンシェの小箱をテーブルに置いた。
花子の顔はパーっと明るくなり、嬉しい!と喜んだ。
「昔はるじ~に差し入れでよく貰ったよね」
若葉がそう言いながらお茶を入れる。
「あぁ晴治さんね、懐かしい。今どうしてるかしら」
「え?はるじ~は・・・ねぇどうしてるかしらね」
晴治はもう他界し、花子は法要にも行っていたのだが、やはり記憶は混在していて曖昧なのは仕方なかった。
「それはそうと、今日お天気良いからこれ食べたら外お散歩して見ない?」
花子の顔を覗き込んで若葉が聞く。
「そうね、折角二人も来てくれてるから」
この日の花子は前向きだったので風太も良い感じだとそっと部屋を出て剣太朗に知らせに行く。
若葉と花子が少しお喋りしながらフィナンシェを食べている間、風太はロビーの剣太朗と話をした。
「緊張してる?」
「あ、なんかちょっと、うまくいくかなって」
「大丈夫、今日は前向きな様子だし、時々話がかみ合わなくても、肯定してあげて。それだけで大丈夫だから」
「あ、はい」
◇
◇
暫くして、花子と若葉が部屋から出てくる。若葉が車いすを押しながらロビーへ出て来た。
「あ!若葉」
風太がこっちと手招きする。
「あら、風太さん今来たの?」
さっき出会ったことも花子はすっかり忘れていた。
「うん、丁度来た所」
風太は普通に話を合わせた。
「あら、こんにちは」
わざとらしく剣太朗を見つけて若葉が声をかけた。
「あ、あ、こ、こんにちは」
色んな賞を受賞している有名俳優とは思えないシドロモドロ状態な剣太朗に若葉は吹きそうになる。
「さっき偶然出会ってね、若葉のトリミングのお客さん。飼い主さん」
そう言って風太が軌道修正する。
「あら、はじめまして。ワンちゃんの飼い主さん?いつもありがとうございます」
花子は剣太朗に何の疑問も持たず挨拶をした。
「本当、いつもありがとうございます」
若葉がニコッと微笑んで剣太朗に目配せする。
「あ、はじめまして・・・愛犬がいつもきれいになって帰って来るんで喜んでるんです」
剣太朗が落ち着きを取り戻し答える。
「一緒にどうですか?お散歩」
「ええ、勿論」
花子は剣太朗とは一切気付かず、そのまま4人で玄関を出て庭の遊歩道を歩いた。
これと言った話をするわけでもなく、暑いねとか何か鳴いてる声がするねとか、普通にこの時の流れを4人は感じていた。
「あ!さっき花ちゃんテレビ見てたの電源切って来た?忘れてたんじゃない?見てくるわ~、ね、風太君も来て~」
と何やら白々しい若葉の演技が始まった。風太も「お~い、それは駄目だよ~消してこなきゃ、花子さんちょっと頼んでいいですか?け、け、ん、あ、太朗さん!」
「あ、はい」
しまった、名前の設定忘れてた、と若葉と風太、剣太朗は慌てた。初歩的なミスではあったが、風太の咄嗟の剣抜き命名で太朗になった剣太朗はその後、千葉太朗と名乗った。千葉はマネージャーの苗字。今頃事務所でくしゃみをしているだろう。
◇
◇
遊歩道に少し心地よい風が吹いた。暑いとは言いながら少しずつ秋が近づいていた。空は8月より高く広かった。
「あの・・・太朗さん?」
「あ、はい」
花子はふと振り返って剣太朗の顔を見上げた。剣太朗はバレたかと一瞬フリーズする。
「背が高いんですね、ふふふ」
そう言って向きを元に戻し一人クスクス笑い始めた。
「あ、あの、何か変ですか?」
「いえいえ、若い頃きっとモテたんでしょうねって思って、ふふふ」
剣太朗は答えるのに少し戸惑った。現役超人気俳優でもあり、アイドルとしてもまだ人気絶頂だからモテると言えばモテるのだけど・・・ここはその現役俳優の腕の見せどころか・・・
「ええ、モテましたよ、アハハ」
何だか俳優スイッチが入ったようだった。
「花子さんはトリマーされてたんですよね。若葉ちゃんがとても尊敬してましたよ」
「あら、あの子?ふふふ」
花子は少し照れたように笑った。
「愛犬がね可愛くて、サクって言ったんだけど、ワンちゃんは一緒にいる時間が本当に短いから、飼い主さんにも一緒の時間を大切にして欲しくて、ただ私はそのお手伝いをしていただけなんだけど・・・サッくんにもまた会いたいなぁ」
そう言って花子は空を眺めた。青い空に浮かぶ白い雲がサクの良く振った尻尾のように見える。とそこに、ふと剣太朗が覗き込んだ顔が見えた。
キャッ♪と花子の心の声がする。胸の奥にドクンという音もした。やだ、今の何だった?花子は一人で戸惑っている。
「どうかしました?」
更に剣太朗が覗き込んで接近するので、はっと顔を覆って花子はうつむいた。
やだ、顔が赤いんじゃない?何で?私おばあちゃんなのに、何?ドキドキしてる?
「大丈夫ですか?」
剣太朗がしゃがんで花子の視界に入った。
「あの、帰りましょ、部屋に。お願いしていいかしら?」
花子は胸を押さえてそう言うので、剣太朗は具合が悪いのかと慌てて「分かりました」とUターンした。
遊歩道の脇の植木に隠れていた若葉と風太は慌てて飛び出す。
「あら~花ちゃん、テレビの電源切ってあったわ~アハハハハ、でもう帰るの?」
少し息を切らしながら若葉が言うと
「うん、ちょっと胸がね・・・」と花子は胸を押さえていた。
「大丈夫?帰りましょうか」と風太も様子から見て部屋に戻ることを促し、4人は部屋に戻った。
◇
◇
部屋の入り口で剣太朗は「ではまた」と話、またロビーで風太と若葉を待つことにした。
何か要らぬことを話してしまったのか、何かまずかったのか、と色々頭の中で考えて待っていると、風太と若葉が部屋から出て来た。
「ごめんね、剣君。花ちゃん大丈夫よ」
若葉がニコニコして剣太朗に近づいてきた。
「胸は?」
「うん、何ともない」
若葉はニコニコからニヤニヤに表情を変えて言う。
「ん?」
◇
花子は若葉が部屋に入って直ぐ「若葉ちゃん、あの男前なに?」と顔を赤らめて言った。
「え?」
「太朗さん?あの人私会ったことない?」
あ、バレてる?若葉はドキッとして「え?」と聞き返す。
「やっぱり違うかなぁ、絶対会ってたら覚えてるよね、私の好きなタイプだもん」
「え?」若葉と風太は顔を見合わせる。そしてアハハハハと大笑いをした。
「そうよね~花ちゃんのタイプかもね、ククク」
若葉は好きっていうのは変わらないんだなと嬉しいようなおかしいような、何だか花子が可愛らしくて笑いが止まらないと同時にちょっと泣けてきた。
「花ちゃん、そんなに好みだったらまた来てもらうわね」
「うん」はにかみながら花子は頷いた。
◇
「ね、てことなのでまた来ましょう」
花子の様子を不安そうに待っていた剣太朗に話して、剣太朗も少しほっとした様子だった。
「好きって変わらないし、忘れないんだね」
3人の胸には少し暖かいものが沸いて駐車場の車に乗り込んだ。
お読みいただきありがとうございます。
私は記憶は頭の中と心と2つの場所にしまわれていると思っています。もしどちらかから消えたとしても、きっとどちらかに残る。あるいはきっかけだけでも残っていれば、また記憶の続きが始められる気がしています。
花子の心の記憶がきっとまだ残っていたのでは・・・。