止まった時間
「推しと愛犬とフィナンシェと」の最終話は実はもうひとパターン考えていました。ファンタジーな終わり方に結果したのですが、現実的な方も書いておきたくなり スピンオフ的に書くことにしました。
お読みでない方に少しあらすじを・・・高島花子は独身の50歳。トリミングサロンを細々と営み、友人の娘、瀬田若葉と交流する中アイドルの推し活を始めました。そのアイドルKNIGHTの3人組メンバーの一人が花子の姉の友人の息子だと判明。またその祖父、晴治が愛犬のトリミングに花子の店を利用していた。その縁で孫、KNIGHTの剣と名乗る新橋剣太朗と知り合い、心の揺れを感じながらも年齢差も住む距離も超え、心のつながりを感じる。いつかの夢を見ながら・・・好きなものを好きでいる花子のお話です。宜しかったら読んでみてください。
で、その後、時が流れて色々と現実が迫ります。その中で花子の心の拠り所にやっぱり好きなものは変わらない、そんな強い思いを書きたいと思っています。
蝉が鳴く声が朝から煩い夏の日。
緑の木々が茂り、日差しがキラキラ照らしている神社境内。時折吹く風に枝葉が揺れザワザワ音を立てる。
しかし朝の6時の気温にしては暑い。
「何なのこの暑さ・・・」
と若葉は愛犬を連れて首筋ににじみ出る汗を拭いた。愛犬のトイプードル、ナツは少し舌を出しながら若葉の顔を見上げた。
「とっとと帰ろう」苦笑いしながら、境内を通り抜け帰宅した。
猛暑の犬の散歩は早朝か日が暮れてからと愛犬家は心得ている。トリマーの若葉は勿論、分かっているのだがどれだけ早く起きても暑いここ数年の夏の異常さには負けてしまう。
若葉が花子の店を継いでもう何年経つだろうか。今ではしっかり店を切り盛りし30代になってベテラントリマーとして働いている。
高校時代、花子の店に入り浸っていた若葉も今では一人娘の母親だ。安土風太と結婚し、母親の瀬田菖蒲の援助もあり育児をしながらトリマーを続けている。
「ただいま」
若葉は家に戻り急いで娘、ふたばの保育園への準備をする。風太は介護士をしていて若葉が散歩から帰る前に朝食を作ってくれていた。
「おかえり、今日面会に行くの?」
「うん、定休日だし行ってくる」
「ママ~、このリボンつけて~」
「はいはい」
バタバタと朝の時間は過ぎて行くものだ。
◇
◇
◇
昼12時のチャイムが館内に流れた。食堂で食事をしようと各自の部屋から出てくる者。部屋で食事をとる者への配膳準備をする介護士。人の足音と配膳台車の車輪の音が廊下を走って行く。
「あらあら賑やか」
テレビ画面を見入っていた花子がポツリと呟く。
トントン♪
「花子さん、お昼お持ちしましたよ」
50代くらいの恰幅の良い女性の介護士がノックして扉を開けた。花子はテレビ画面から視線をこちらには向けず「はい」と返事をする。
「あら~今日も熱心に見てるわねぇ。このドラマお好きですね、花子さん」
「えぇ大好きなの。剣太郎くん」
「へ~」
ベッドの横のテーブルに配膳しながら介護士は適当に返事をしていた。
「身長も高くてイケメンで、でも本当に優しくていい子なの」
花子はずっとテレビ画面を見つめたままだ。まるで少女が憧れのアイドルに見惚れるような眼差しで。
「へぇ~」
介護士はまた適当に返事をして「はい、花子さんこちらの椅子に座りましょう」といいながらベッドに腰かけていた花子を介助しながら移動させようとした。
「あぁ、また続きは後で見ようかしら」
そう言って名残惜しそうに視線をテレビ画面に残しながら体を動かした。
「花子さん、このドラマもう10年以上前のでしょ。飽きないの?何回も見て」
「あらそんな昔だったかしら」
「確かこの主役の俳優さん結婚してお子さんもいるでしょ」
「まさか~そんな冗談」ハハハハと花子は笑いながら介助され椅子に腰かけた。
介護士は微笑みながら「じゃぁ花子さん一人でご飯食べられる?」と声をかけ「はい」と頷く花子にお箸を渡して「また時間見て来ますね」と言い残して部屋を出て行った。
トレーにご飯と豆腐の味噌汁、ジャガイモの入ったオムレツにブロッコリーが添えられ、リンゴのゼリーが乗っていた。
「いただきます」花子はお箸を持った手を合わせた。
高島花子は自宅でトリミングサロンを60歳頃まで開いていた。50歳の頃、気が付いたらまだ独身だった。ただ友人の娘、若葉が近所の学校に通っていたこともあり、いつも遊びに来ていた。15歳の若葉に巻き込まれる形で、当時デビューしたてのKNIGHTというアイドルグループにハマって一緒に推し活をしていた。もう10年以上経つ。あの頃本当に楽しかった。幾つになっても恋をする気持ちがあること、トキメキがある毎日がこんなに楽しいのか、親子ほど違う男の子に、手の届かない男の子に、胸が苦しくなるなんて思いもしなかった。
トントン♪
ノックをして入って来たのは「花ちゃん♪」いつもの笑顔の若葉だった。
「いらっしゃい」
花子も微笑み返し、食事を続ける。
「ご飯時に来てごめんね」と言いながら若葉は荷物を小さなソファーへ置いた。
花子の部屋はベッドの他、一人かけのソファーとテーブルとイスがひとセット、衣類用の小さなタンス、角部屋で窓がふたつ、トイレとシャワーが付いている。
そしてテレビとちょっとした書棚があった。書棚にはKNIGHTのCDやDVDが並んでいる。テレビの前に丁度ドラマのDVDのパッケージが置いてあった。
「花ちゃん、またこのドラマ見てたの?」
「お気に入りだから」
花子はご飯を口に入れたまま微笑んで口元からご飯粒かぽろっと落ちた。あらあらと若葉がティッシュで口元を拭いてやる。
「ごめんね、菖蒲ちゃん」花子はそう言って舌を少しだしてそのまま口元を舐めた。
若葉は眉をハの字にしたまま「いいえ」と微笑み花子を見守る。
花子は仕事から徐々に離れるにつれ物忘れの自覚があった。60歳を過ぎて直ぐだった。
推しのKNIGHT剣は花子の姉の友人新橋桃枝の一人息子、新橋剣太朗だった為、単なる推しとは違い、心を通じ合わせていた。毎年誕生日に花子の好物のフィナンシェを贈ってくれ、花子を慕っていた。しかし、花子はいつしか自身の誕生日も忘れていたり、日常の約束事もうっかりすることが増えていた。若葉と出かける約束もよくすっぽかすこともあり、病院を受診したのがその頃。若年性認知症と診断されたのだった。
花子は剣太朗には知らせないよう若葉にも菖蒲にもお願いしていた。そしてもっと症状が進んだ時には、ひっそり施設に入ることを決めて、剣太朗とは距離を置くようにした。それから更に月日が流れ、花子は65歳になる。3年前から施設に入り、若葉が時々様子を見てくれている。
今はただ剣太朗がドラマで一世を風靡したその作品を毎日何度も見返している。あの日のトキメキを忘れないようにか、自分でも分からない。剣太朗を見ている時だけ、自分の老いの姿や変わってしまった日常を忘れられる。もう色んな事が思い出せないのに、現実は忘れたい。そんな思いがあるのかもしれない。
花子はオムレツをお箸で上手く掴めなく、お皿にぽろぽろと落とした。
お読みいただきありがとうございました。
花子の現状が変わってきて、ちょっとドキドキしてしまいますが、少々お付き合いを頂ければ幸いです。