40.天秤はその掌に
翌朝の光が目を刺すように差し込んだ。
寝苦しさで目を覚まし、昨夜の出来事が鮮明に頭に甦る。
クシェルの紅潮や賑わう光景、剥き出しに開いた感覚へ触れる、彼女の言葉が深く心に焼き付いていた。
酒の残る身を起こし、隣に横たわるクシェルがまだ眠りについていることを確認する。
陽光で透ける薄い絹、どちらが服かと錯覚する程にきめ細やかな肌。瑞々しい太腿が大胆に曝されていた。
「しばらく休ませておく方がいいか」呟き、そっと毛布を掛け彼女の髪を撫でつける。静かな空間は彼女の安らかな寝息に浸る。
お互いが眠りについたのは空が薄明に染まった時間帯、手頃に済ますつもりが朝帰りとは……クシェルに不健全な事をさせてしまった。
頭を振り払うようにして、剣を持って部屋を出る。
向かうのは中庭だった。廊下に足音を響かせながら、昨日のバルガスの言葉からアセルシアの《奇跡》について考える。会話の流れから大まかな予測はついていた。にわかには信じ難いが、クシェルの治癒とて尋常ならざる力だ。
史実であれば王国に在って然るべき《奇跡》。
クシェルはその出生を知れば理解出来るが、どういう絡繰でアセルシアには宿っているのか。
簡単に考えれば彼女もまた王国の血を継ぐのか……だが現実は常に想像を越えるものとも知っていた。
あとは剣聖やキャスタリンの動向、役割を果たすために何をすべきか——寝不足で重たい頭の中は戦略で溢れていた。
「おはようございます、ヴォルフ様」
向かった中庭で待ち構えていたのはバルガスの従者の一人、ミネルバだ。
忠実な彼女はいつものように整然とした態度で俺を迎え、いつものように水気を抜き取る為の布を拵えてくれていた。
目の前で剣を抜くと彼女が身構えた。
流し目で警戒の必要はないと伝えると、警戒の色を消して彼女は距離を取る。
「少し稽古をね」
「左様でございますか」
暫くは手抜きをしていたがここ何度か不覚を取る事態があり、今一度初心に返る必要を感じていた。
定められた型、手順通りに剣を振るう。幾万とこなした動き。
先ず相対するのはアミュガットにて手傷を負わされた《鷹》だ。予測不能な身のこなし、爆発的な攻勢、剣技に於いての全ての能力値、総合的にも遥かに劣るであろう奴は確かに互角以上の勝負に持ち込んできた。
重要なのは己の土俵に引き摺り込む技術。
知っていたが、慢心が勝っていたと認めざるを得ない。そして剣聖……ランスロットも比類なき強者だ。
どう崩すかを考える。思いついた動きを実践する。その想定に自身の能力が追い付くかを確かめる。
繰り返すうちに、想像上の相手に一筋の光が見える。軌跡に合わせて切っ先を這わせれば、想像は霧散する。
実際はこんなに簡単ではない。
所詮は想像、現実ではない、だがこの感覚を積み重ねることで確固たる勝ちの感触を掴む。
「ふぅ」何通りかの勝ち筋を辿り稽古を終える。背後に控えたミネルバが拍手を鳴らしていた。彼女は汗を掻いた俺に濡らした布を渡すと「お見事でした」と称賛する。
「ヴォルフ様は御前試合に出られるのですよね」
「ん? そうだよ、耳が早いな。閣下から聞いたのか」
「兄から伺いました」
誰の事かと一瞬考え込むが思い至り、口にだす。
「もしかして、ミゲルド?」
「はい、驚きましたか」
「なんていうか、気配が似てるなとは思っていた。でも、あまり見かけは似ていないから」ミネルバとミゲルドの顔つきを頭の中で比較しながら話す。名前は似通っているが、外見はそこまでだ。
「私の外見は母に寄っています。一族の風習で、より多くの子を為す者が族長と認められるのです。兄と私は腹違いの兄妹ですので」
彼女が説明した。瞳にはどこか遠くを見るような光が宿っている。
「じゃあ、君の母は」思わず聞き返してしまった。彼女の言葉から一族の複雑な家庭事情が見えてくる。とても軽々と踏み込んでいい領域ではなかった。
「はい、私は妾の子です」
「すまない、無神経だったよな」
「いいえ、仕方の無いこと。妻が孕む内は、子を増やせませんから」
淡々と事実を伝えるミネルバ。その言葉の背景にある物語を考え、もう一つだけ問いをする。
「他にも兄妹が沢山いるのか」
「皆討ち死にしました。戦の絶えない土地ですから」
彼女は静かに告げた。
あくまでも予想だが、両親も既にこの世に生きていないのだろう。
年頃の女性が兄と二人、バルガスの下に身を寄せている状況に共感を覚える。
しかし語る彼女の声には過去の痛みが微塵も残っていないようだった。それが、かえって恐ろしい。
言葉を失い、彼女の表情を見つめる。空気が重くなった。彼女の微笑みにはよく知る感情が滲んでいる。
「聖堂騎士、私たちの兄妹を襲った者たちです」
「……!」
「ヴォルフ様、兄を————ミゲルドをよろしくお願いいたします」
ミネルバが深々と頭を下げた。
微笑みで偽装した表情だが、過去を話す彼女の淀んだ瞳。
あれは誰よりも知っている……まさしく復讐者のそれだった。
ミゲルドもバルガスも教会へ憎しみを抱いていた。
争いを止める為に派遣されたが、戦いの予感は増している。起こるのはどちらかに染める為の血戦、犠牲は計り知れない。
彼女はその時、何を選ぶのだろうか。
※◇※第40話 天秤はその掌に ※◇※
稽古を終え、そろそろクシェルを起こそうと戻ると部屋の扉が開放されていた。
確かに閉めて出た筈だが……クシェルが出ていったのだろうか。不審がって慎重に中を覗く。「あ、おかえりなさい!」中に入ると出迎えたのはクシェルではなく、黒髪を靡かせる修道服の女性。
「ヴォルフ、お待ちしていました」もはや当然のようにベッドに横になる彼女の姿に視線がつられてしまう。無防備に仰向けになっている肢体が甘く誘っているようだった。
「——目がいやらしくなっていますよ」
背後から不意にクシェルの声がした。開いた扉の影に隠れていたのだ。「驚かすなよ」と振り返ると、彼女は「私に気付かないくらい夢中だったんですね」と皮肉を言った。
「昨日は私にあんな事言ったクセに、兄さんの嘘つき」
「悪かったって」
謝った手前、何に対しての謝罪なのかよく解らなかった。
クシェルの鋭い眼光が俺の左耳に真っ直ぐ向けられている。彼女はアセルシアと俺を交互に確認すると、その目つきはさらに鋭くなった。
不味いと思い咄嗟に顔を背けて耳飾りを隠したが、その態度が余計に彼女の機嫌を逆撫でしてしまう。とんでもない形相だ。これが妹の顔かと戦慄する。
「クシェルはヴォルフの事が大好きなのね!」というアセルシアの言葉がきっかけで、緊迫した雰囲気が一気に変わった。先程までは張り詰めた空気だったが、今度は家庭内の小競り合いのような場面となる。
「当たり前です。私の兄さんなんですから」クシェルは即答してすかさず問い質す「貴女は……その、兄さんの何なんですか」
クシェルの声は若干震えていた。
彼女は普段冷静で聡明だが、状況に戸惑っているようだった。
「ヴォルフは私の騎士ですよ!」アセルシアはにこやかに微笑みながら答えた。その笑顔は純真だが、どこか挑発的でもあった。いや、気のせいだろうか。
「それは聞きました。そうでは無くて、ですから、えっと……」
クシェルはまごついて言葉を探している。
「ふふ、可愛らしい。私、クシェルの事も好きですよ」
アセルシアは一層笑顔を深め、クシェルに向けて優しく言った。その言葉は緊張を解こうとするかのようだった。
「か、可愛らし……こ、子供だって言いたいんですか?」
クシェルはすぐに反論した。その言葉には少し苛立ちが混じっている。
大人はわざわざ自分を大人だって主張しないんだよ、と思いつつ、二人の温度差に若干の憐れみを感じた。
クシェルは一方的にアセルシアに敵対心を抱いていた。アセルシアは少し困ったような顔をしてから、言葉を続ける「いいえ、素直です。ヴォルフに似ています」
クシェルは返答が気に食わなかったのか睨みつけるようにアセルシアを見つめ、「私、貴方の事が嫌いです」と感情を抑えた声で言い放つ。その言葉は真剣で、全く揺るぎないもの。クウェンにてイリスと俺が共にいる際に発するのと同じ声質だった。
「まあ、残念!」アセルシアは肩をすくめ、微笑みを絶やさなかった。その無邪気な表情を余裕ととったかクシェルはさらに苛立ちを募らせる。
「兄さん! 何なんですかこの人は!」
「何って……ええと」
遂に白羽の矢が立ったか……否、最初から俺に向けられていたな。
ありのままを説明するしかあるまい。クシェルが納得するかどうかは別問題だが……。
「————事情は分かりましたけど……複雑な気分です」
一応、あらかたの状況を理解したクシェルは矛を収めてくれた。
そもそも最初から説明をしていれば衝突は無かっただろうか、いや、そんなことは無いな。今も頬を膨らませ不満を訴えるクシェルの姿を見てこの衝突が必然であったと確信できた。怒る姿も日に日に母上に似てくるので結構怖かったりする。
本音を語るならば、アセルシアをクシェルに紹介するのは気が進まなかった。クシェルがではなく、俺個人の問題として。彼女に話すことで何かがこじれてしまうと思ったから。
「安心してください、ヴォルフが騎士となるのは此度のお役目までです。その後はお返ししますから」
「返すって……兄さんはアセルシア様の物ではありませんよ」
「その通りです。でも、貴女の物でもありませんね」
アセルシアが俺の隙を突いて腕を掴んだ。
しっとりとした熱が喰い込む。クシェルは驚愕に言葉を失った。
不味い、とアセルシアの腕を振り解こうとしたが手遅れだった。
「もう、兄さんの馬鹿!」
怒号が廊下に反響する。
クシェルは扉の前に居た俺を押し退けて駆け出した。捕まえようとしたが寄ったアセルシアの肉体がそれを阻む。
「お、おい。待てって!」
クシェルは意外と足が速い。あっという間に曲がり角に逃げ込むと姿を見失ってしまう。「あら、今のは少し意地悪でしたかね」アセルシアが涼し気にそう言った。不服を込めて睨み付けたが、彼女はてんで怯みもしない。
「今回は怒っていますね」
「当たり前だろ。どういうつもりなんだ、あいつ、何処かに行ってしまったぞ」
「心配症ですね。でも屋敷の中に居る限りは大丈夫です」
「そういう話じゃなくてだなあ」
アセルシアは、彼女は天真爛漫なうえ、一見は純真無垢なように思えた。
だが実際は言葉巧みに状況を操る賢さを持ち合わせる人物でもあると評価している。わずかな付き合いだが彼女の言葉や振る舞いには強さと知恵が散りばめられていた。
今のやり取りもクシェルをあえて苛立たせているようにも感じる。おかげでクシェルは怒って去ってしまったし……多分、彼女の思惑通りなんだろうけど。
「ごめんなさい、本当は貴方の妹に会う気はありませんでした。まさか部屋にいるなんて思わなかったの。ちゃんと確認したのよ」
「扉を叩いて?」
「ううん、ヴォルフが部屋に居ないのは分かっていたから部屋の前で待っていたの。そしたら中からクシェルが出てきて「貴女は何者ですか」って!」
「まあ、あいつは人の気配には敏感みたいだからな……」
ミゲルドも簡単に見つかっていたしな。
アセルシアとしてもクシェルとの出会いは意図していなかったようだ。
しかし、クシェルの存在を彼女に話しただろうか……どうにも覚えがない。それに彼女の口振り、やはり気になる箇所があった。
「それで今日はどんな用なんだ」
「用が無ければ会いに来ては、駄目?」
あざとく首を傾かせる。つられて靡く髪、耳飾りが凛と揺れる。
「あまり揶揄うなよ」
「あえて言うなら、そうですね。話し相手を探していました!」
「……バルガス、閣下がいるだろう。昨晩も二人で話をしていたじゃないか」
「あれはお役目の話ですよ?」
「まあ、なんでもいいけどさ」
意図せず嫌な言い方になってしまった。
アセルシアは俺の機嫌を窺っているのか、探る様な視線を這わせ表情を読み解く。そうして何に思い至ったのか、「あっ」と素早く瞬きした。
「はっはーん。ヴォルフ、私に会いたかったと言わせたいのですね!」
「馬鹿が」顔を近づけてきたアセルシアの額を思い切り指で弾いてやる。「あうっ!」と仰け反ったアセルシアだが、すぐに持ち直して接近した。ほんの少し赤くなった額に申し訳なさを感じつつ、突き放す。
「ほら、もう少し離れろって」
「何で! 冷たい!! 実際、ヴォルフに会いたくて堪らなかったのに!」
「だからそういうことは」これ以上の揶揄いを制そうと口を開いたが、彼女はさらに言葉を被せてくる。「本当ですよ————ここに信頼できる人は多くありませんから」
「……」
途端に弱った声を出すアセルシア。
上辺の台詞でなく本音だと解るからこそ、返す言葉に困ってしまう。
「分かったよ。でも、とにかく、俺はクシェルを探しに行くからな」
「ヴォルフ、あの娘をとても大切にしてるのね」
「? 当たり前だろ、俺の妹なんだから」
「ふぅん?」アセルシアが怪訝に眉を寄せた。「では、私は待っていますね」
何を今更気遣っているのか、彼女がそのような提案をした。
「別に、一緒に傍に居ればいい。ただ、さっきみたいのは止してくれ」
「でもクシェルはいいのですか?」
「いいだろ、まあ、クシェルは気難しいところもあるから、また怒らせちゃうかもだけど……」
クシェルはアセルシアを良く思っていない。正確には、俺とアセルシアが近しくいることを。
イリスの時もそうだった、普段は何処の誰といても気にしない。小言はあっても、心からあの子が嘆くことは無かったと思う。でも、俺がイリスと二人で食事をするのは酷く嫌がった。
きっとアセルシアを連れていけばクシェルは嫌な顔をするだろうな……だけど、アセルシアにあんな顔をされたらほっておけないじゃないか。
役目もある、誓いもある、情もある。彼女を拒めるだけの理由が手元に無かった。
クシェルを探そうと二人で屋敷を見回る。
とはいえ屋敷は広く、それなりに時を費やす。気配を辿ればいいのではないかとも思うが、中途半端な感覚でどこかにいると解るわけでもない。
廊下の角を曲がり、幾つかの部屋を覗き込んだがその姿は見当たらない。心の中で焦りを覚えながらも冷静さを保つ。
なんか、こんな風に彼女を追い掛けてばかりだな。
ややあって、ようやく彼女が庭の隅で物思いにふける姿が見えた。
片膝を抱えて石畳の端に座って、待っていた。大人びた普段の姿とはまるで違う、幼い頃のように。逃げれど隠れはせず陽光の下で……いつの日か、追い付くことが出来ない日が来るのだろうか。
「クシェル!」
アセルシアを下がらせ、先に俺が近づくと彼女は顔を上げたが、目は合わさず空気が張り詰めていた。
「……何しに来たんですか」
不貞腐れているのか冷たい声が返ってきた。
あるいは、これこそが本来あるべき年相応の振る舞いなのかもしれない。
諭すように言葉を選びながら話しかける。
「お前と話さなきゃいけないことが沢山あったし、沢山あると思って」
「私には話があるとは思えませんけど」
クシェルの目がようやくこちらに向けられる。一瞬、その視線が後ろで待機するアセルシアにも流れた。瞳には警戒と、微かな侮蔑。
「あの人も連れてきたんですね」
「ああ」
「兄さん、すごく嫌なことなしてるの、分かっていますか」
「……話した通りアセルシアはアミュガットの未来を左右する存在だ。彼女を守り抜くのが俺の役目なんだよ」
「お役目、ウァルウィリス様からの?」
「ああ。お前はあまりいい気はしないだろうけど、大切な事だと思ってる」
「兄さんはそんなに今の立場が大切ですか。私、最近兄さんがよく分かりません」
「今の立場は勿論、大切だよ。出来るなら手放したくない」
「それは、何の為ですか」
「お前の為だ」間髪入れず即答する「俺はそう思ってる。これからも、そう信じて剣を振るう。父上と母上に誓って……違える時が在ったなら、これをお前にやるよ」
背負った剣を外し、右腕と共にクシェルへと差し出す。
賢い彼女はすぐにその所作の意図に気付いたようで、目を見開いてこちらを見つめた。
「兄さん、それは」
「俺は父上とは違うから。これくらい失くしても構わない。だけど俺は、誇りを手放すつもりは無い」
「もう、いいです。兄さんはそういうのばっかり。嘘つきな兄さんなんて、クシェルは知りません。どうせ兄さんは他の女性にも同じような台詞を言って誑かすんです」
「……俺、あんまり信用無いな」
「だって、いつも色んな女性を侍らしてるんだもん……皆さん素敵で、その、女性的な人ばかり」
「そうかな」
「そうですよ! イリス様もアリアも、ミネルバさんもアセルシア様だって! お店だって、私に内緒でアルガス様と行っちゃうし」
「ん、んん……」
クシェルが捲し立てる。
が、不思議と怒りを向けられている感覚はなくなっていた。
違うな、彼女が心から俺に対して怒気を向けた事など無かった気がする。些細な衝突や行き違いも、彼女の根底には悲しみだけが在って。そこにはきっと、嫉妬心や孤独感が含まれているのだろう。
クシェルから僅かに視線を外し、彼女の座る右側を見る。
意図して開けられた右側の余剰。
言葉でなく行動で。それは彼女が好む、いつも通りの要求だった。
隣に腰を下ろすと彼女の口角が僅かに上がるのが分かった。
「兄さん、クシェルの事は大事ですか」寄り掛かる彼女からの問い。
「お前が大事だよ」不毛な問答に迷い無く答える。クシェルはあたかも不満足な様子で「今そんなこと言っても、信じてあげないもん」と呟いた。
「でも、追い掛けてきてくれたので、今日は許してあげます」
「寛大なことで」
「はい。優しい妹に感謝してください」
寄り掛かる薄い体は、目方よりずっと重たく感じた。
俺に体を預け完全に脱力しているのが解る。
警戒心の強いクシェルが無防備になる瞬間はほとんどない。
恐らくは与えられた自室ですら……クウェンでも俺と別々の部屋に移動した初めは、あまり眠ることが出来ていなかった。
不満も蟠りも滅多に表に出すことが無い彼女が唯一、素の感情を差し出してくれる。
そういう存在で居られることを嬉しく思うが、やはり一抹の不安もあった。
不安……一体何の不安なんだ?
「——クシェル」
控えていたアセルシアがクシェルの名を呼んだ。
クシェルは砕けていた表情をや引き締めて立ち上がると、アセルシアへと一礼する。
「アセルシア様、謝ります。今までの態度、気に入らなければどうにでも」
「いいえ、こちらこそ失礼な振る舞いをしました。ごめんなさい」
アセルシアは柔らかく微笑みながら返す。その笑顔に少しだけ安堵を覚えるクシェルだが、まだ不安は残っている。
「そうですよ、何であんな事を……その、兄さんの事どう思ってるんですか?」
「ちょ、クシェル何を」
「大事なことなんです!」
クシェルの真剣な声に、アセルシアも憂いを帯びた表情で答える。
「ヴォルフのことは大好きですよ。だから、クシェルには意地悪なことをしました。」
「……?」
「だってヴォルフ、貴女の事をとても大切にしているんだもの」
クシェルは一瞬驚き、次いで戸惑いを見せる。
「そんなことありません。さっきも、兄さん間抜けに鼻の下を伸ばして……」
「殿方は皆そんなものです」アセルシアの穏やかな声が響く「でも本当に大事なものは、壊れないよう丁寧に扱うものですよ」
クシェルはその言葉の意味をかみ締めながら俺の顔を見た。その目には愛情と信頼が色濃く映っている。次ぐ彼女の声は震えていた。
「兄さん、私のこと……」
「大切に思ってるよ。いつも、言ってるだろ」
その言葉に、クシェルの心は溶けていくようだった。
彼女は目を伏せ、憂いを払われた顔は紅潮して小さく微笑む。
「へへ、えへへ」
だらしなく表情を緩める彼女の声音に安堵が混じる。
アセルシアが手を差し出すとクシェルも応じて握手を交わす。さっきまでの敵意は何処へやら、すっかり上機嫌だ。最後の台詞が効いたようだった、狙ったのだとしたら彼女も策士だな。
いやまあ、アセルシアが発端みたいなところはあるのだけれど。
「ヴォルフ様、よろしいですか」
声を掛けたのはまたもや何処かに潜んでいたミネルバであった。
よもやずっと中庭に居たわけでは無いと思うが……。
「ああ、なにかな」
「朝食の準備が出来ていますが、いかがでしょうか」
失念していた。
思えば腹も空いている、いつもならとうにご馳走を目の前にしている時間だ。
「もしかして、待たせていたかな」
「いいえ」ミネルバが首を振る。「ですが、閣下がヴォルフ様はまだかと癇癪を起こしそうです」
「閣下が? それは不味い」
怒った場面は幸いにしてまだ見てないが、あのバルガスだ。
熊のような体躯で大暴れする姿が容易に想像できる。誰も止められなさそうだ。
心当たりを挙げるならアルガスか……彼の膂力であれば接戦しそうだ。
「首を刎ねられてしまうかな?」
「ヴォルフ様の事は大変気に掛けておられますので、飛ぶのは私の首かもしれません」
「はは、君も冗談を言うんだな」
「あまり面白くは無いと兄には言われます」
「いいや、気に入ったよ。じゃあ、一緒に食事に行こう」
ミネルバともだいぶ打ち解けてきた。
軽いじゃれ合いをこなして彼女の先導に従うが、背後にただならぬ圧を感じた。
これは、殺気!?
……じゃないな、クシェルの視線だ。「兄さん……」背後でクシェルが虚ろな目をして俺の事を呼んでいる。恐ろしくて振り返れない。
「今のはいいだろ」
「そんなだからアリアに獣だと言われるんです」
「そうだ。アリアは昨日も酒場には居なかったよな」
「色々と忙しいみたいですよ、閣下の手伝いや、アミュガットの地系や天候も調べているみたいです」
「そうなのか? 体を壊さなきゃいいが」
アリアは俺とは別に用件を頼まれているようだ。
バルガスからかウァルウィリスからかは定かでは無いが、どのような企みか。
気にはなるが、先ずは目先の御前試合に集中しなければなるまい————。




