山田丼
伊藤 彩月が大学生の頃に付き合っていた彼は、『山田』くんと言った。
彼は高校を卒業すると、料理人を目指して料理の専門学校に入り、その後高級料亭に就職した。
2人がつきあい始めたきっかけを彩月は……よく覚えていなかった。
もしかすると、山田君が働いている料亭で知り合ったのかもしれない。あるいは町で偶然声をかけられたのか……。
山田というよくある名字と同様、彩月の中で山田君は、影が薄い存在だった。
ただ、この山田君との出会いで、彩月が一つだけ忘れられない思い出があった。
それはある暑い夏の夜に始まった。
その夜山田君は、彩月が1人暮らしをしているアパートにやって来て彩月とともに寝ていた。
そして2人は真夜中に同時に目がさめた。
2人は枕元でお互い顔を見合わせたのだった。
時計を見ると、午前2時。
「中途半端な時間に起きちゃったね」
山田君が言う。
起きあがる山田君に、彩月は声をかけた。
「なんかお腹すいてない?」
すると山田君も返事をする。
「うん。僕もそう言おうと思ってたところだ」
だが、深夜営業のファミレスはちょうど閉店した時刻。彩月のアパート近辺には牛丼屋はおろか、コンビニすらなかった。
しょうがないなぁ……と山田君は台所に向かい、冷蔵庫をあけた。
そしてすっきりと片づき、空間ばかりが目立つ冷蔵庫に、唖然とする。
「なんで何もないの?! 彩月は自分で料理とか作らないの?」
「……たまに作ることはあるよ」彩月はお茶を濁すように答える。
「だけどさ、普通バターとかさ、食用油とかさ、コショウとかさ、そういうのはあるだろ?」と山田くん。
「たまたま切れてただけだよ」と彩月。
「いつもは何たべてるんだよ?」と山田くん。
「一人の時はお弁当とかサンドイッチとかおにぎりとか」
「コンビニ弁当?」
「・・・だってさ。自分のご飯つくるのってメンドーなんだもん」
「よくないよ。体に悪いよ」
彩月と話をしながら冷蔵庫を漁っていた山田君は、冷蔵庫にモヤシ一袋と卵とお総菜のコロッケがあるのを見つけた。
山田君は彩月にたずねた。
「お米はある?」
「ないことはないよ」
「じゃ、コレで何か作ろう」
「何作るの?」
「決まってるだろ」
「えっ? 決まってるって何?」
彩月の問いには答えず、台所に立った山田君はお米を水でとぎ、そしてしばらく水につけて置いたあと、炊飯器のスイッチを入れた。
待つこと45分。
ごはんのふっくらと炊きあがるいい匂いが部屋中に立ちこめる頃、山田君は「そろそろかな」と言って立ち上がった。
そして山田君はモヤシと卵とコロッケを持って、再び台所に立ったのだった。
そしてさらに数分。
台所から、卵と醤油のふんわりとしたいい匂いが漂ってくる。待ちきれなくなった彩月が、台所に駆け寄り、山田君に聞いた。
「ねえねえ、何つくってるの? なんだかすごくいい匂いがするんだけど」
「たいしたものじゃないよ。モヤシとコロッケの卵とじ丼だ」
料理の『り』の字も知らない彩月は、目をまん丸くして言った。
「へえー。もやしとコロッケと卵だけで、料理って作れるものなんだ」
「適当だけどね」
ハハッと笑って山田君は、完成した丼2つを、こたつの上に運んだ。
「いただきます」と言うと、彩月は山田君の作った丼のごはんに箸をつけはじめた。
そしてそれを口に運んだ。
次の瞬間、彩月の世界の何かが変わった。
おいしい!!
この世にこんなおいしいものがあるなんて!!
彩月は山田くんに聞いた。
「ねえ、この『もやしとコロッケの卵とじ丼』、どうやって作るの?」
「えっ、普通に作っただけだよ」
「ウソだ!」
彩月は叫ぶ。
「絶対秘訣とか秘伝のタレの作り方とかあるよ! だってそういう味してるもん。ねえ、教えてよ。恋人の為だけに、作り方の秘密、ちょっとだけ教えて」
「うーん」
山田君は困った顔をしていたが、最後には彩月の熱心な説得に負けた。
「まぁいいよ。秘訣っていうほどの秘訣なんてないんだけどね。この丼の作り方はね……」
彩月はうれしかった。
何か自分だけが、特別な秘密を握っているような気分になった。
そして彩月は、友達に会うたびに『モヤシとコロッケの卵とじ丼』の話をした。まるで宗教の勧誘のように、この丼を広めていった。
友達が家にくるたびに『モヤシとコロッケの卵とじ丼』を作ってみせた。
普段料理をしない彩月が作れるのはこの丼だけだったし、山田君のつくった『超おいしい』丼をみんなに広めたかったのだ。
彩月の友達たちは、みな一様に「えー。モヤシとコロッケの卵とじ?!」と言って、イヤそうな顔をしていた。だが現物をみて、食べた瞬間、友達たちも彩月と同様にカルチャーショックを受けた。
「おしいよ。この丼。どうしたの? コレ誰に教わったの?」
「山田くん」
「あの山田?! あの山田がこんな丼を?! 意外だね」
そして友達の一人が言った。
「でもさ、『モヤシとコロッケの卵とじ丼』なんてネーミング、長すぎるよ。クールじゃないよ。もっと短いのがいいよ」
「短い名前? たとえば?」
「たとえばさ……『山田丼』とか」
「『山田丼』?!」
「そうそう。山田が作ったから山田丼。その方がいいよ」
友達にそう言われ、彩月はその名前はクールとは言わないんじゃ……と思いつつも、ちょっと風変わりっぽい料理の名前は気に入った。
さっそく彩月は友達に会うごとに、山田丼の話を伝えていった。
「秘訣はタレよ。タレの調合の仕方は秘密だからね。一流料亭の秘伝の味だから、ぜったいぜったい人に言っちゃダメなんだからね」
山田丼の話を聞いた彩月の友達も、山田丼をおいしいと言って気に入り、友達は友達へ、さらに友達の友達は友達の友達へ……といった具合に『山田丼』はどんどん広められていったのだった。
そして『山田丼』は、みんなの定番メニューになった。
いつしか、『山田丼』は、みんなの合い言葉になり、日常語にまでなっていった。
彩月は『山田丼』を作るうちに、料理が好きになり、自分でも料理を作るようになっていった。
そして自分の為に、台所に立つようになっていった。
作り始めると、料理は楽しかった。
彩月は、様々な料理を覚えていった。
ところが彩月はその数ヶ月後、山田くんと別れてしまった。
よくある話だ。山田君とは時間の都合が合わずにフェイドアウトしていったのだ。自然に会う回数が減り、自然に電話の回数が減り、そして自然にメールの回数が減った。
いつしか2人の距離は遠くなっていく。
しかし、山田君と別れたあとも、相変わらず山田丼は彩月の料理の定番メニューだったし、友達もことあるごとに『山田丼』『山田丼』と料理の名前を連発した。
その後彩月は再び普通に恋をして、普通に新しい恋人と暮らし始めた。
時々新しい恋人にも、『山田丼』をつくってあげた。
だが、彩月は、いつしか名字は思い出せても、山田君の名前を思い出すことはなくなった。
彩月にとって、山田君は完全に過去のものになってしまった。
さらに数年が経ったある日のこと。
彩月は駅で偶然山田くんと再会した。
2人は喫茶店で話をすることにした。だが彩月は山田くんのことを、あまりよく覚えていなかった。そこで彩月は山田くんに、『山田丼』の話をしようと思った。実は、山田君は『山田丼』のことを知らなかったのだ。本人の知らないところで、『山田丼』のレシピだけが一人歩きをしていたのだ。
話を始めようとして、彩月が
「『山田丼』……」と言いかけると、山田君は、
「山田丼? 何それ?」と言って笑った。
山田くんの笑っている顔をみているうちに、彩月はふと、この話は山田くんには内緒にしておこう、という気持ちになった。
そして話すことをやめてしまった。
そのかわり、彩月は山田くんに、こう伝えることにした。
「いい思い出をありがとう。おかげで私は、あなたと付き合って、一つ幸せだったことがあるのよ」
山田くんは、「何それ」と言ってまた笑った。
彩月もふと、昔のことを思い出して笑った。