誰か。と探していた。
また、今日も子供を、まだ小さいのにぶってしまった。
なんで私はすぐに手が出るのだろう。
だって、子供がスーパーでお菓子が欲しいと泣き出した。
「買って買って!」
一つだけって言ったじゃないの。
「買ってくんなきゃイヤーーッ!!」
何で、なんで言っても分からないの?
「イヤーッ!イヤーッ!いい、やーーーっ!」
声の限りに叫ぶ。
一つは手に持っているじゃない。
ああ、床に寝そべらないで。
「うるさいなぁ。母親ならちゃんと泣き止ませろよ」
通りすがりの男性が吐き捨てるように言う。
分からないの。泣き止ませ方が分からないの。
泣けば、何でも欲しいものが手に入ると思わせたくないの。
でも、どうすればいいの?
泣かないで、転がらないで、もう一つのお菓子に手を出さないで。
あなた、手に持ったらグチャグチャにするじゃないの。
お願い。
お願い。
抱き上げると、のけぞり、暴れた足が胸を蹴る。
痛い。
なんで。なんでこんなに言っても分からないの?
振り上げた手が幼い子供の柔らかい頬を打つ。
「どうしてわからないのっ!」
悲鳴のような叫び声とパシッと子供を打つ音、その後、
「ギャーッ!」
という子供の泣き声。
結局、子供の持ったお菓子だけ買ってスーパーから飛び出した。
周りは私を虐待する母親だと思っている。
子供はまだ泣いている。
なんで、こんなに小さな身体から耳を塞ぎたくなるほど大きな声が出るのかしら?
今日も買い物が出来ない。
また素麺でチャンプルーとか焼きそばになる。
そして、夫に「仕事から帰ってきて、こんなもの食べさせられるとはな」って言われるの。
バス停はすぐそこだけれど、思わず地面に座り込んだ。
3歳になったばかりの、まだぐずっている子供を抱えて座り込んで泣いた。
こんな小さな子供だもの。分からなくて当たり前よね。
欲しいを我慢できなくても当たり前よね。
言っても聞いてくれないのも、お店で転がって泣くのも、仕方のない事なのよね。
でも、お母さん辛いの。どうすれば良いの?
周りは母親失格だと言っている。あんな小さい子供を打つなんてって。
その一方で、うるさい。早く泣き止ませろって言うの。
四本くらいのバスを見送ってから、次のバスで乗ろうと腰を上げて、バス停の椅子に腰かけた。
子供は眠ってしまっている。眠っていると本当にかわいい。
可愛いのに、ぶってしまった。
頬は赤くもなっていない。ああ、良かった。
でも、いつか、この子の傷になるほど殴ってしまうのではないかと怖くなる。
いつも怖いのだ。この子が泣くたびに、口を塞いでしまいたくなる。
周りの目も怖い。
なんでだろう。なんで善いお母さんになれないのだろう。
バスが来て座ることが出来た。
暖かさと疲れでウトウトしてしまう。
気付いたときには、家の近くだった。
ああ、いつもより2時間も遅いのに、何も買えていない。何の準備も出来ていない。
子供のぐにゃぐにゃした身体を抱えながら、最後の坂を登る。
ああ、やっと家だ。
と思ったら、家に明かりが点いている。
なんで?夫かしら?泥棒?
恐る恐る家に入る。
いい香りがした。煮物の匂い。
「あら、お帰りなさい」
出迎えてくれたのは、お義母さまだった。
顔面が蒼白になる。
前に会ったのは、赤ちゃんが生まれた時に数回きてくれたっきり。
「あっ。あ。お義母さま、どうされたんですか」
夫が、言いつけたの?
家のことが出来ていないって。
あ、お布団そのままでぐちゃぐちゃ。
洗濯もの取り込んで畳んでいない。家の中もぐちゃぐちゃ・・・
ああ、もう、駄目な妻、母親って言われているんだ。
ああ、ああ・・・
「いきなり上がり込んでごめんなさいね」
お義母さまの静かな謝罪が聞こえた。
「うちの子、何にも出来ないでしょう。
きっと、家事も子育ても、あなた一人でやっていると思ったの。
姑がしゃしゃり出るのは良くないと思ったのだけれど、聞けば、イヤイヤ期に入って長いようね。
お願い。少しだけ手伝わせて。たまには、お孫ちゃんを抱っこしながらご飯を食べさせたいわ」
呆然としながら顔を上げる。私は玄関に座り込んでいた。
「お出かけしたのに、買い物が出来なかったのね」
「はい。スーパーで泣き叫んで、お菓子を握りしめて、他も欲しいと駄々をこねて、床で寝転がったので・・・叩いてしまいました」
「そう」
それは、相槌でしかなく、肯定も否定でもなかった。
「でも、見て。ほっぺはプクプクのぴちぴちよ。大丈夫。
傷にもなっていないし、貴方がちゃんと難し時期だけれど、ご飯を食べさせてあげれているからなのね」
また、涙が出てきた。止まらない。
「あらあら、辛かったのね。頑張ったわね」
息子を腕から取り上げた。
「この子はまだ寝ていてくれるわ。あなたは、ゆっくりお風呂に入ってきなさい」
何も考えられなくなり、ロボットのようにお義母さまの言葉に従った。
湯船にお湯が張ってある。
ゆっくりと湯船に浸かった。どれくらいぶりだろう。
子供が生まれてから湯船には入れなかったな。
身体を浴槽で広げた。ああ、体中のコリがほぐれていく。お湯は黄色くていい香り。
気持ちもふんわりと和らいだ。
ああ、ああ、わたし、辛かったんだ。
湯船の中で、また泣いた。
でも、すっきりする涙だった。
「おい、着替えをここに置いておくぞ」
すりガラスの向こう、いつの間にか帰ってきていた夫が着替えを持ってきてくれた。
「あ、ごめんなさい!今、上がるわ」
「いいよ。いいよ。大変だったんだってな。ゆっくり入っていろ。」
夫の労わる声も久しぶりだ。
ゆっくりお風呂を堪能して出る。
持ってきてくれた着替えは、いつもの部屋着。
ありがとう。ちゃんと分かってくれているのね。
着替えてホカホカしながら台所に行くと、先にお義母さまが子供にご飯を食べさせれくれていた。
良い子で食べてくれている。
お夕飯の香り。
夫は、洗濯物を畳んでいる。おもちゃも片付いている。
「ゆっくり入れた?」
「はい。ありがとうございます」
「見て。お婆ちゃんから、ちゃんとご飯を食べてくれたのよ。本当に良い子。
でも、お母さんを困らせる事が続くと疲れてしまうわよね。
この子のご飯が終わってしばらくしたら、お父さんにお風呂に入れてもらいましょうね」
夫がギョッとした顔で振り返る。
「母さん、俺、そんな怖いことできないよ」
「何が出来ないですか。今まで何もやってこなかったのね。
父親でしょう。子育てを一緒にできなければ、子供の親でも妻を支える夫もでもないわ。
大人しくATMになるのなら、家のご飯がどうのこうの、家が片付いてないなんて、家族の一員みたいな事は言わないことね」
「俺は働いているじゃないか!」
「ええ、随分頑張っている様ね。
朝は決まった時間に出勤して、お昼休みがあって、夜は少し飲んで帰れる。
社会人としては、それで良いでしょう。
でもね。子供の父親に自分からなろうとしなくてどうするの?
子育てを「手伝う」って言うのも変よね。あなたの子供なのに。
母親は、あなたが怖がるお風呂入れもずっと一人でやってきたの。
もう首も座っているから、大丈夫よ。
大きくなって女性の手でお風呂を入れるより、男の人がやった方が良いわ。
そこの冊子にお風呂の入れ方があるから、読んで一人でやりなさい」
「え?でも、最初だから見ているよ。危ないし」
「何を言っているの?母親だって急にはなれないのよ。
首の座らない時期に怖がりながらやっていたの。
あなたが隣で見ていてくれたら、きっと安心だったでしょうね」
「あ、あの・・・」
「ここだけは黙って言わせてね。妻には大人の男の顔をしていても、母親の前では子供に戻るのよ。
後ろめたいときは特にね」
「後ろめたい事なんて何にもしていないぞ」
「私が怒っているのは、何にもしなかったことなのよ。
あなたは仕事を理由に父親をしていない。
私があなたを育てられたのは、お義母さまが手伝ってくれたからよ。
あなたのお父さんだって、料理は出来ないからって、お風呂に入れてくれていたの。
私はその間にゆっくりご飯を食べたり出来たわ。
お父さんとお風呂に入った思いであるでしょう?
あなたは、子供に父親として、どんな思い出を作れているの?
それとも、あなたにとっては自分の子供は可愛くないのかしら?
人生に関わりたくないのかしら?
この子が生まれた時に言っていたわね。
「おれ、良い父親になれるかな。なりたいな」って
あの時の気持ち忘れちゃったの?
だとしたら、仕事が出来たとしても、父親としても人としても失格ね」
お義母さまの言葉は容赦ない。
ずっと自分がしなければ、一人でしなければ。そんな気持ちが理解者が居たのだと知り解れていく。
「さあ、テーブルに着きなさい。ご飯の用意がしてあるわ。
1人でご飯を食べさせることになってごめんなさいね。私は息子と先に済ませてもらったわ」
主人が後ろで、もう何も言えずに子供を抱いてお風呂に行く。
「手は貸さずに、少し見ているわ。ゆっくり食べていてね」
温かいご飯に、野菜と鶏肉の煮物ときんぴらごぼうにだし巻き卵にお味噌汁。
ゆっくりと咀嚼できる。
ご飯を座って食べれるのは何時ぶりか。
夫とお義母様の声がお風呂場から聞こえる。
上手くおだてて、主人の自信につなげる作戦らしい。
その声を聴きながら、再び瞼に熱いものがこみ上げた。
その時気付いた。
ああ、私はいつも探していたんだ。
「誰か」を。
助けて。「誰か助けて」って。
なんで、夫に助けを求めるのを諦めちゃったんだろう。
そう。夫が忙しいのは判っていたから。
仕事を頑張っているのは判っていたから。
そして、何度かの言い合いの後、私が諦めてしまったんだ。
私も何度も「手伝って」って言った。でも、それでは足りなかったんだ。
しばらくして、ビショビショに服を濡らした夫がお義母さまと一緒に戻って来た。
夫は少し誇らしげに。でも疲れた顔をしていた。
「お疲れ様でした。お仕事終わって疲れて帰ってきたのに、ありがとうね」
私の言葉をお義母さんが笑顔で遮る。
「あらあら、これくらいじゃ、お父さんの役割はしていないわ。
さあ、次は寝るようにクリームを塗って寝る時のオムツを履かせてパジャマに着替えよ。
それが終わったら、あなたもお風呂入ってらっしゃい」
夫が大人しく従っている。
オムツの付け方を横で指導されながら着けて、それにパジャマを着せている。
私はそれを聞きながら、お茶碗の片付けしている。
テーブルを片付け、お茶の用意をした。
そして、夫にはすぐに飲めるようにぬるめにした。
しばらくして、夫がキッチンに戻ってきた。
「ありがとう。お茶、直ぐ飲めるわよ」
私が言うと、夫が
「ああ、疲れたよ、大変だった。でも、明日からは多分俺だけで入れられる。
もう少し大きくなったら、俺も一緒に風呂に入りながらやれるかもな。
親父の風呂は長かったから、いつも俺が先に出ていた。
上がる前に、ちゃんと髪を流せ。背中流せ。体の水気切ってから外に出ろって。
上がってからも、風呂の中からちゃんと髪を拭いていないじゃないかとか言われていたな」
一息ついて、お茶を飲み干す。喉が渇いていたのか。
「今まで、全部が全部母親の仕事だと思っていた。
だから、お前が何を言っても、それは弱音だと思っていた。
でも俺は、親父がお風呂に入れていてくれていたんだ。
多分小学校に上がってからもしばらくは。
それを忘れていた。だから、母さんに愚痴ったら逆に怒られた。俺も親なのにすまなかったな」
軽く私に頭を下げて、からお風呂に入りに行った。
お義母さんが笑顔で来た。
お茶を勧める。一緒にテーブルに座った。
お茶を飲みながら言う。
「ああー。可愛かったわ~。もう、ぷにぷにで、どこもピッカピカなのね、ちっちゃい子って。
今日は疲れたのか、頭を乾かしているうちにウトウトしてきたから、布団を敷いて寝かしてきたわ。
あのバカ息子、オムツの場所も分からなかったのね。だけど、ようやく父親にならなければと少し焦っていたわ。遅かったわね。ごめんなさいね。精神年齢の幼い子で」
「今日はありがとうございました。汚い家を見せちゃって申し訳ありません」
「まだ手のかかる時期に、完璧を求めたら心も身体も壊れてしまうわ。でも、息子がそうさせていたのよね」
「今、謝ってくれました。それに、明日からは自分がお風呂に入れると、言ってくれました」
「一年は見張っていないと。なんだかんだで言い訳してお風呂に入れない日が出てくるから。
その日は、お風呂に入れないで、一緒に先に寝ちゃえばいいのよ」
「残業やお仕事先との付き合いもあるかと思います。お風呂全部は無理ですよ」
「まあ、そうね。それで出世に響いても困るわね。
なら、そんな時は埋め合わせに、日曜日のお昼から7時まで息子にお願いして、遊びに行ったら?
そんで、その日の夕飯はテイクアウトとかにするの」
「良いんでしょうか・・・そんなにまでしてもらって・・・」
「あら、あなたは父親との思い出の時間を作らせないの?特に男の子だもの。男同士の時間も大事よ」
「父親にならせるには、まだ時間がかかるから、しばらくは月に二回くらいは来させて。
買い物をして、少し作り置きをしましょう。その時までに洗濯物も洗い物も溜めていて。
掃除だってしなくていいわ。
それくらいじゃないと、あなた、子供を抱え込んだまま倒れちゃう。
こんなに我慢強く、ただ頑張っていたのね」
また涙が出そうになる。
「ありがとうございます。本当に、誰か助けてって・・・思っていました」
「大変だったわね。昔のお母さんは大家族だったから周りに助けられていたのよ。
私も主人のお義母さんにも実母にも。
あなたは、実家にも頼れなかったのね。私もどこまで手を出して良いのか判らなかった。
判らないなら早く連絡すれば良かったわ。
結局何も出来なかったら息子から電話があって、情けない事を言い出して驚いたわ。
何にも出来ないのに文句を言っていた。
親の自覚なんてかけらもなくて、本当に自分の息子だと思ったら悲しくなったのよ。
あなたは、もっと悲しかったのよね」
「何だよ。母さん俺の悪口かよ」
夫が髪を拭きながらお風呂から出てきた。
「悪口って本当の事じゃない。そのタオル、その辺に置くんじゃないわよ」
「うーん。判ったよ。洗濯のカゴで良いんだろ」
「ええ。お願いね」
「そこまで普段やりっ放しだなんて、大人としても情けないわ。子供じゃないんだから、自分の事は自分でする事ね。明日の服の用意から、今からやって置きなさい」
「判ったよ」
素直な夫に驚く。
でも、シャツとネクタイが合わないとか言う日もあったから、自分で用意してもらった方が良いのかもしれない。
「驚いているわね。あの子が帰った時にね、言ったの。
あなたが誰の助けもなしに苦しんで、それはまだ続くから、いずれ壊れてしまう。
その前に子供を施設に入れましょう。って。」
「えっ!そんなっ!」
「そんな事はしないわ。でも、息子に知っていて欲しかったの。
誰も助けのない、そればかりか身近な人までも敵になってしまったら、死んでしまうかも知れない。
母である自分を殺すかもしれない。子供を殺すかもしれない。一緒に死んでしまうかも知れない。
そんな状態にまで追い詰められることが普通にある。
テレビのニュースのじゃなくて、自分の関わらなかった家族に起こるかもしれない事なのだとね」
「あなたを責めているんじゃないの。お風呂で見た身体は、とても健康で傷も何もなかったの。
よく耐えたわね。頑張ったわね。これからは、息子が大人になって父親にもなるわ。
私も遠慮をしないで、お婆ちゃんをさせてもらおうっと」
「さて、やることやって、締めるとこもシメたから、帰るわ。
じゃね!見送りは良いわ。後は夫婦で話し合いなさい」
と、すでに横に用意してあった荷物を持つと、すたすたと出ていき、玄関の鍵を閉める音がした。
止める間もなく、お義母さまは帰られた。
台風のように、目が回り、そして、風が凪いだら、全てが変わっていた。
「あれ?母さんは?」
「止める前に帰られました。もう遅いから泊まってもらおうと思っていたのに・・・」
「母さんが来て、嫌だった?」
「いいえ。とても助かりました。少し安心して泣いちゃいました」
「悪かった。俺がやってもらうのも、子供の全部をやらせるのも当たり前になっていた。
これからは自分の事は自分でするし、朝は自分で食パンを焼いて出るから、起きてこなくていいよ。
それだけで、1時間は長く寝れるだろう」
「ありがとう」
「泣くなよ。そんな事も出来て無かった俺が悪いんだ。ちゃんと父親になるから」
「うん。ずっと「誰か助けてって」思っていたの」
「そんな考えになる前に、俺が自分で気付けば良かったのにな。ごめん。遅くなって」
「もう、良いの。ちゃんと探していたのを見つけたから。私の旦那様でこの子のお父さんを」
2人で子供を見る。
あどけない顔で、ぐっすり眠っていた。
それを手を繋いで見ていた。
母親は安心した柔らかい顔で。
父親は、決意を込めた顔で。
最終のバスに間に合ったお義母さんは、これからのお婆ちゃん業がどこまで手を出して良いものかと少し悩んだが、まあ娘なのだし、少し頼るのが苦手な子だから、こっちから声を掛けないとねぇ。
と答えを出した。
そして呟いた。
「善いお父さんだって、善いお母さんだって、探したって居ないのよ。
でも、二人で悩んで頑張れるなら、近づけるんじゃないかしら?」
夜のバスの窓に自分の顔が映る。
「私も、そりゃーゲンコツ落としたし、お父さんだって間違ったときは殴ったものよ。
でも健康に育ってくれた。私だって善い母親じゃあなかったのよ」
小さな呟きは、誰にも聞こえずに消えた。
あと、3つの停留所を過ぎれば、我が家だ。
きっと、お父さんが、「お疲れ様」って出迎えてくれるわ。
そして、やっぱりその通りだった。