説得
黒狐寺の地下には、瑠璃姫を封じた洞窟が存在する。
ひんやりと冷たいその空間は、瑠璃姫の成せる技であって、けして封じられている者を罰するためではない。
九つのうち、八つの尾が壁に穿たれてはいるが、瑠璃姫が不便だと思ったことは一度もない。
穿たれなかった一本の尾のお陰で、自由に動き回れるのだから。
しかし、今日ほど自分の身の上が呪わしく思ったことはない。
(九つ全ての尾が自由であったのならば、吉昌などには遅れを取らぬものを……)
瑠璃姫は、口惜しげに自由に動かせる尾を振った。
「……! 瑠璃姫さま……?」
瑠璃姫の苛立ちに気づいて、狐丸が不安げな声をあげる。
「どうかしたの? 結界を張った者が誰なのか、分かりましたか?」
言いながら、既に可愛らしいとは言えなくなった巨大な首を、ことりと傾げる。
「あぁ、すまない。心配をかけてしまったな……」
困ったように、瑠璃姫は呟いた。
「何も問題はない。……結界は、澄真の仕業だった」
「澄真……!」
呟いて狐丸はグルルルルと唸り声をあげる。
「あいつは、いつも僕を捕まえようとする。今回もまたそうかも知れない」
唸りながら狐丸は立ち上がる。
黒狐寺に来たばかりの頃は、大人の膝に収まるくらいの大きさだったのに、今や大人四人分くらいの大きさに成長している。
体の大きさで言うならば、もうすぐ瑠璃姫と同じ大きさである。
しかし、それは見た目であって、中身ではない。狐丸自身は、まだまだ幼い。
(……成長が早すぎる)
いくら妖怪と言えども、早すぎる成長は体の負担になりかねない。
瑠璃姫は狐丸が心配だった。
体の成長に伴い、二尾になったその尾は、もうすぐ三尾になろうとしている。何故こんなにも成長が早いのか。
妖怪を食べたからだろうか?
狐丸は以前、人の子どもを救うために宗源火 と言う妖怪を食べてしまった。そこから一尾だった尾が二つに割れ、二尾となった。
(……いや、その前に吾の鬼火を食うたのであった……)
瑠璃姫は思い出す。
夜に寺の敷地に、守りの鬼火を焚いていたのだが、狐丸が何を思ったのか、それを食べてしまったのである。
体が光って困ると言って、泣きついて来た。
妖怪が同族を気にかけるなど、あまりあることではないのだが、自分の身の上と狐丸の未来が重なる予感がし、放り出すことが出来なかった。
表面の光っている部分は、舐め取って消すことが出来たが、それは表面上のことで、体の中の変化までは手が出せない。
(全ては、吾のせい……)
瑠璃姫は、ゆっくりと目をつぶると、狐丸に呼び掛けた。
「狐丸……。少しは落ち着け……」
「……! でも、瑠璃姫さま……!」
非難の声をあげる。
狐丸は澄真が好きではない。
大好きな瑠璃姫を封じた者。
自分を攻撃してきた者。
狐丸は、ちらりと自分の左腕を見る。
未だ捕縛の紐は取れていない。
呪詛を含んだその捕縛紐から受ける攻撃で、一時は腕がもげるかと思った。それどころか、もしかしたら、あれは死にかけていたのかもしれない。
それを助けてくれたのは澄真ではあるが、そもそもの原因もアイツなのだ。絶対に許せない。
捕縛紐も取ってはくれず、未だに狐丸を捕まえている。気持ち悪くて仕方がない。
「狐丸……。おまえの気持ちも分からぬでもない。しかし、アイツなくしては、おまえを救う術がない」
悲しそうに言葉をかける。
狐丸は瑠璃姫が捕縛紐のことを言っているのだと、勘違いをした。
「瑠璃姫さま。僕はアイツの手を借りるくらいなら、救われなくとも平気です。僕の力でどうにかしてみます」
狐丸の言葉に、瑠璃姫は青くなる。
「それはならん。おまえでは厄災には勝つことは出来ぬ……」
瑠璃姫の厄災とは、当然吉昌の事だ。しかし、狐丸は左手の捕縛紐の事だと思っている。
うぐっと息を呑んで、地べたに伏せる。
「……確かに僕は陰陽師の力には勝てない……」
耳を伏せながら呟く言葉に、瑠璃姫は可愛そうで仕方がなかった。
「狐丸……」
耳を伏せながら瑠璃姫は呟いた。
「悪いようにはせぬ。ひとまず、しばらくは澄真の言うことをよく聞くのだぞ?」
「……それは僕に式鬼になれと言っているのですか……?」
くぅんと、鼻をならしながら瑠璃姫を見上げる。
「……。いいや、そうではない」
本来なら澄真の式鬼になるのが、安全なのかもしれないが、それも絶対ではない。
人の心は移ろいまさい。
今は狐丸に執着する澄真も、どうなるか分かったものではない。
今回は吉昌から、逃れられるのであればそれでいい。
「今回だけだ。今回だけ、澄真の言うことを聞いて欲しい……」
悲しげな瑠璃姫の懇願に、狐丸は折れるしかない。
「……分かりました。今回だけならば……」
狐丸は、瑠璃姫の傍らで、静かに座った。
「る、瑠璃姫さま! 澄真が来たニャ!」
転がるようにタマが、洞窟へ降りて来た。
「タマ、僕の後ろに隠れてて……!」
「分かったニャ……!」
素早く狐丸の後ろに下がった。
◆◇◆◇◆
本堂の入り口に差し掛かったとき、澄真は小さな三毛猫を見た気がした。
(……タマか?)
タマはすぐに阿弥陀如来像の裏に消え、見えなくなる。
恐らく瑠璃姫に、澄真の到来を知らせに行ったのだろう。
「……はぁ」
澄真はため息をつく。
あの狐丸の事だ。
瑠璃姫が何を言っても、自分に懐く事はないだろう。
いやむしろ、瑠璃姫に言われて懐かれても、悔しさしか残らない。
「……」
いったい自分はどうしたいのか……。
大きく息を吐く。
……先程から、ため息しかでない。
(考えても仕方がない……)
洞窟へ続く通路を降りていく。
下から冷気が漂う。
黒狐である瑠璃姫の能力は、冷気。
冷気を操り、人にあだなすとされているが、実際は違う。
瑠璃姫が人を襲ったことなど、一度もない。
陰陽師として、国の中枢にいる澄真は知っている。どの文献を見ても、瑠璃姫が暴れた記述は見つからない。
実際、暴れた事などないからだ。
「……」
(考えるだけ、無駄か……)
狭かった通路を降りきってしまうと、開けた空間に出る。
中は鬼火が飛び交い、比較的明るい。
壁に穿たれた黒狐と、その前に鎮座する白狐。
「……!」
(……また、成長した……!?)
しなやかな白銀の体は、大人の四倍程あると思われる。
息をする度に漏れる青い狐火に、澄真が圧倒される。静かに見下ろす金色の目は、何もかもを見通せるのではないだろうか?
狐丸はゆっくりと立ち上がると、澄真に向かってグルルルルと軽く威嚇する。
「!」
思わず気圧され、澄真は懐の捕縛紐をつかむ。
(……っ。怯むな。負けるわけにはいかない)
そう心を叱咤する。
すると頭上から、咎める声が降ってきた。
『……やめよ。狐丸』
低く諌める声。
『……』
瑠璃姫であった。
白狐は少し黒狐の方を見やると、くぅん鼻を鳴らし、地へ伏せる。
伏せると同時に、その金色の目も静かに閉じた。
「……っ」
目の前で伏せられ、澄真の胸が高鳴る。
(……うわっ。ふわふわ……)
思わず、その毛並みに手を這わせる。
『……っ』
撫でられて、狐丸は少し目を開ける。
──くすぐったい……。
ウズウズと体を動かしている。
しかし澄真は気づかない。
思っていた以上に、柔らかい毛並みに、純粋に驚いている。
『……』
体が大きいわりに、毛が細い。
綿毛のようなその毛並みに、澄真は驚く。夢中になって、撫で回していると、白狐が口を開く。
『うわーん……くすぐったいよぅ……』
首をもぞもぞさせて、大きな耳をパタパタと振る。二本の尻尾がくねくねと動いた。
「……!」
見た目と裏腹の幼い声に、澄真は驚いて、手を止める。
『……澄真。狐丸が困っておる。撫で回すのはやめるのだ。……いったい何しに来たのだ』
瑠璃姫が呆れた声を出す。
その声に澄真が、ハッと我に返る。
「す、すまない。つい」
慌ててあやまると、狐丸は金色の目を澄真に寄せて、じっと見つめる。
『で? なんの用なの……?』
結局のところ、予想していたより瑠璃姫にベタベタしているわけでもなく、自分に懐いているようではなかったため、澄真は、ホッと安堵の息を吐いた。
「狐丸……おまえとタマに、藤見の宴への招待が来ている」
澄真は、単刀直入に話を切り出す。
『……藤見の宴……?』
いぶかしげに、首をひねる。
狐丸の後ろからは、自分の名前に反応したタマが、ひょっこり顔を出す。
澄真は、覚悟を決めたように、軽く息を吐いて、頷く。
「そうだ。この前、四条河原で宗源火に襲われていた、子どもを助けただろう……?」
澄真の言葉に、狐丸とタマは顔を見合せ、こくりと頷く。
「その子どもは、現帝の嫡子敦康さまだ」
『……え?』
二人の驚いた声が響く。
「今回の藤見の宴は、敦康さまが、義母である彰子さまと共に過ごせる、最後の宴となる。そこで、彰子さまが、敦康さまと縁の深い者をお呼びになるそうだ」
そこで言葉を切り、二人を見る。
「そこで、敦康さまの命を救った、おまえたち二人が呼ばれる事になった……」
困った顔で、二人に告げる。
『え?』
二人の目が丸くなる。
「……ちなみに、これを断ると、この寺に災いがやって来る……」
言いながら澄真は遠い目をする。
『……』
瑠璃姫も目を反らす。
『……』
「そんなわけで……支度をして欲しい」
『……支度』
狐丸が不安げな声を出す。
その声を哀れに感じたのだろう、澄真が、慌てて声をかける。
「宴の日は、まだ先なのだが、相手は皇族。普段着で伺うわけにはいかないのだ……」
言って、二人を見る。
「なので、今から用意をする」
『!』
急な展開に、狐丸とタマは目を白黒させるしかなかった。