方位結界
(今日は、どうしても狐丸に会わなくては……)
澄真は、黒孤寺の入り口で、山を見上げる。
普通ならここで、気配を消して山を登るのだが、今日はいつもとは、わけが違う。絶対に狐丸を捕まえる。
ばっと袖を翻し、護符を八枚取り出す。
「急急如律令! 方位結界」
言いながら、札を投げる。
──びゅおっ!
札が物凄い速さで、山の四方八方を塞いでいく。
(……狐丸が出掛けている気配はない。ひとまずこれで、ここからは逃げられない)
ふふふと不敵に笑いながら、澄真は山を登り始める。
ついでに手には捕縛用の護符を持ち、抜かりはない。
いつ狐丸を見つけても、手加減なしで捕縛するつもりだ。
(絶対に捕まえるぞ……)
澄真は本気だった。
(私から、逃げられると思うなよ……)
かわいさ余って憎さ百倍とは、この事を言うのかもしれない。
今まで、さんざん逃げ去ってくれた恨みを、ここで晴らす……! どんな気配も逃すものか。
澄真は心に決めて、山道を行く。
しばらく山を登って行くと、途中に女が立っていた。
漆黒の長く美しい髪を後ろに束ね、今日は黒色の着物を来ている。みごとな刺繍が金糸で刺してある。
女は形の整った眉を寄せ、黒髪をかきあげながら、非難めいた言葉を澄真に投げ掛けた。
「誰かと思えば、おまえか。澄真!」
ぎっと切れ長の目を細め、睨む。
「四方に結界を張るなど、何の真似だ? ついに帝の犬に成り下がったかっ!」
グルルルと威嚇をあらわにする。
なんだ瑠璃姫か、と澄真は瑠璃姫を一瞥する。
「……おまえには用がない」
瑠璃姫を見とり、興味なさげなため息をついた。
「……」
あんまりなその態度に、瑠璃姫はムッとする。
「なんだ、その態度は……」
「おまえに会いに来たのではない。……狐丸はどこだ?」
澄真の言葉に、瑠璃姫は呆れた声を出す。
「また、『狐丸』か? おまえは他にする事はないのか?」
「……ならば、タマでもいい。とにかくおまえには用がない」
ひどい言いぐさに、瑠璃姫が不快を示す。
「何故、タマまで探す? 今まで興味も示さなかったくせに……」
事実、澄真は、タマに興味を示すことなど一度もなかった。
タマは澄真を目の敵にしていたが、さして気にするような妖怪でもなかった。
たまに威嚇する事はあるが、悪さをするわけでもない。むしろ、寺の片付けや洗濯など、目の見えない弦月和尚の手助けをしてくれる。
ここの寺をいつの間にか根城にしている他は、いたって無害な妖怪なのである。
瑠璃姫を一心に慕い、役に立とうと頑張っている。
無害な妖怪まで狩る趣味は、澄真にはなかった。
そんなタマを澄真が探す日が来るとは、瑠璃姫は思いもしなかった。
にわかに不安が心をよぎる。
「……何を企んでおる?」
不安げなその声に、気が立っていた澄真心がいくぶん和らぐ。
小さくため息をついて、澄真は口を開いた。
「彰子さまの宮で、藤の花を見る宴が開かれるのだが……」
言いながら、心が重くなる。
普通ならば、澄真が呼ばれる筈もない、やんごとなき方々の宴である。場違いも甚だしい。
頭を抱えながら、深いため息をついた。
「それに……呼ばれてしまった……」
吐き出すように呟く。
「はぁ? なんでそんなことになるのだ?」
「敦康さまだ……。白狐の件で、敦康さまに関わった為に、こんな大事に……」
ずどーんと、気分が落ち込む。
「し、しかし、何故あの二人が関わってくる? 二人の正体はバレてはいないのであろう?」
オロオロと瑠璃姫が声を出す。
国中を脅かした九尾の狐とは思えないほどの、狼狽えぶりに、澄真の顔に、少し微笑みが戻ってくる。
「バレていないはずだったが、何故だか吉昌さまがご存知のようで……」
「吉昌!!」
また大物が出てきた! と言わんばかりの瑠璃姫の様子に、澄真は苦笑するしかない。
「……そうだ。よりにもよって、吉昌さまなのだ……」
瑠璃姫は青くなる。
冗談で澄真には、『狐丸を式鬼にするのは吉昌でもいいのでは』と嘯いてみたが、そんなことは微塵も望んでいない。
かの人物は、見た目も物腰も柔らかく、優しい人物に見えるが、妖怪相手にはひどく厳しい。
「……」
「狐丸を連れて行かねば、この寺に今度は吉昌さまが来るのではと、心配している……」
ぽそりと呟く。
「!」
なんてことだ、と瑠璃姫は頭を抱えた。
「……確かあいつは妖怪と見れば、無害な者までも、遊び倒して調伏していたヤツではなかったか?」
瑠璃姫が唸る。
その言い方に、こめかみを抑えながら澄真は頷く。
「そうだ。吉昌さまは、その非情さで、陰陽頭まで登りつめた……」
実のところ、吉昌には兄がいる。
占いで物事をズバリと言い当て、地震を予知する逸話まであるのにも関わらず、陰陽頭になったのは、弟の吉昌であった。
二人の父親も、誰もが認める力の持ち主ではあったが、こちらもそこまでの地位を手に入れることは出来なかった。
何が違うのか……。
それはひとえに、妖怪寄りであったか、人間寄りであったかに尽きる。
「……」
吉昌は幼い頃から、二人の優秀な陰陽師に囲まれ育った。
父も兄も、妖怪が好きで、よく傍に侍らせ遊んでいた。しかし、吉昌は違う。
大好きな父と兄を妖怪に奪われた……とでも思ったのだろう。吉昌には、それが面白くなかったのである。
次第に妖怪への関わり方が、おかしな方向へと傾いていった。
「……で、その吉昌に何故かバレた、と……?」
「おそらく……。吉昌さまにも、優秀な式鬼がいるからな。市中の事などお見通しなのかも知れん……」
はぁ。と瑠璃姫がため息を漏らす。
「連れて行かねば、おそらくここへ来るな……?」
瑠璃姫の言葉に、あぁ、と頷く。
「確実に来る。……嬉しそうにされていたからな……。あの方が、面白そうな妖怪を見逃すはずはない……」
「……」
これでは澄真の比ではない。
式鬼になることを勧めはしないが、吉昌に捕まるくらいなら、いっそ澄真の式鬼になる方が、何百倍もましである。
「……どうすればいいと思う?」
瑠璃姫が泣きそうな声を出した。
澄真は眉を寄せ言葉を発する。
「一番いいのは、私の式鬼にすることだが……」
しかし、と続ける。
「狐丸が、それを望まない」
瑠璃姫は軽く目をつぶる。
もはや、そのようなことを言ってる場合ではない。
しかし、澄真の心は決まっている。
「敦康さまが、ああ仰せになったからではないが、無理に式鬼にしようとは思わないのだ……」
目を伏せながら、澄真が呟く。
無理矢理ではなく、自ら選んでこちらに来て欲しい……。
「しかし、あいつが宴に行くだろうか……?」
瑠璃姫が顔を曇らせる。
その言葉に、澄真は軽く首を振る。
「……行かないだろうな」
言いながら、息をつく。
「それどころか、どうせ私から逃げるだろうと思って、この結界を張ったのだ」
瑠璃姫を見る。
瑠璃姫にも合点がいったようだ。
「本当なら、ゆっくり関わっていこうと思っていた。が、事情が事情だからな……。多少嫌われても、今日だけはあいつを捕まえなくてはならない」
澄真の目がキラリと光る。
「……」
そう言われれば、瑠璃姫も納得するしかない。
はぁ、と大きなため息をつくと、口を開いた。
「狐丸は吾の所におる……。おまえが来るまでに、説得をしておこう」
言いながら霞みのように、かき消えた。
「……」
瑠璃姫がこうも協力的なのは初めてだった。
澄真は、少々面食らって、空を仰ぎ見る。
晴れやかな春。……春というより既に初夏に近い。
木々の萌木色の若葉が、眩しく揺れる。流れる風が心地いい。
心も何故か、晴れやかになる。
他のものの力を借りるのも少し癪だが、今日は狐丸に会えそうだ。
心なしか、澄真の進める歩が、軽くなったような気がした。