藤棚
春の薫風に誘われて、鈴なりに垂れた藤の花が揺らぐ。
藤棚から降るように咲く、青紫の藤の色を見ていると、自然と心が安らぐ。守られているような気持ちに、なるからだろうか?
藤の花は、『不死』につながる。
鬼や邪を祓う、神聖な花だ。
藤の花を見ながら、彰子は傍に控えている、幼い敦康に声をかける。
「……月日が過ぎるのは、早いものですね」
言いながら、振り返る。
たおやかな漆黒に輝く長い髪が、さらりと肩から溢れる。
「あなたも、もう十二。元服を終えたからには、もうここで共に過ごすことも、許されないのですね……」
彰子は、悲しげに笑う。
「義母上……」
「私が我が儘を言ったのですよ。せめて、十二になるまでは、傍に置いて下さいと」
藤の花が咲くまで、共にいることが出来て良かった。と小さく笑う。
「……次の帝となるべき貴方を、私の力が足りないばかりに、追い出す事になってしまって……。どうか。……どうか、この義母を許して下さい」
頭を下げる彰子に、敦康は慌てる。
「何を仰せになるのです。私は、義母上と共に過ごせ、幸せでありました」
ふわりと笑う。
「それに、私には帝の立場は重すぎます。ちょうど良かったのですよ」
言いながら、庭の藤棚に目をやる。
「今年は、いつにも増して、見事に咲き誇りましたね。また、花見会を開かれるのですか?」
「ええ……。今年は、貴方に所縁のあるものだけを呼ぼうと思うのですよ」
自分の所縁のあるものと言われ、敦康は少し困る。それほど、人と繋がりがあるわけではない。
「……」
少し悩み、ふとある人物が思い浮かぶ。
「それは、陰陽師でもかまいませんか?」
「陰陽師……?」
彰子は、不思議に思う。
「ええ。……この前、私がこっそ抜け出した時に、世話になったのですよ」
苦笑ぎみに、そういうと、彰子は袖の端で口許を隠し、ホホホと笑う。
「そうでありましたね。……本当に敦康さまは、子どもなのですから」
「義母上……っ」
赤くなりながら、敦康は唸る。
「私はもう、大人なのですよ! 市中を歩き回って、何が悪いのです」
言うと、彰子は少し悲しそうな瞳を向けながら、敦康を見る。
「飛香舎にいる間くらいは、私に守られていればよろしいのに、……わざわざ抜け出すなど……」
軽く睨む。
「ほんの少し、ここで待っていれば、嫌でも外へ行かねばならないというのに……」
「義母……」
目を伏せた彰子が、泣いているのではないかと、敦康は心配する。
しかし、彰子は顔を上げると、小さく笑った。
「たまには、遊びに来てくださいね……」
「……はい」
ここを出れば、いよいよ臣下となる。
こうして、顔を合わせることも少なくなるだろう。……会っても、そのときは御簾ごし。顔を見られるのも、あと僅かである。
「……もう、危ない真似は出来ませんよ? 貴方は『大人』なのですから……!」
悪戯っぽく睨む彰子に、敦康は少し目を丸くしたが、すぐに微笑み返す。
「ふふ。……それは分かりませんよ。心配なら、見張っていて下さいね」
「まぁ。ふふふふ……」
飛香舎に楽しげな笑い声が響いた。
◆◇◆◇◆
「……ここは、もう少し分かりやすく。後で誰が見ても分かるように書いてください」
中務省の一角にある陰陽寮で、澄真は仕事をしていた。
「分かりました。……あと、こちらもお願いします」
陰陽生が書く書類の添削をしながら、澄真は心の中でため息をつく。
前回の白狐騒ぎの事後処理が、思っていたよりも進まない。
結局のところ、騒ぎの原因である宗源火は白狐に喰われ、白狐は陰陽師たちの手をすり抜けて、逃げてしまった。
(襲われた子どもである敦康さまの事は、公に出来ない上に、町を焼く恐れのあった大火事の発生。しかも居合わせたのは、陰陽師でも未熟なものばかり……)
いくら報告書を書き上げても、上が納得しないのである。
(せめて、狐丸が私の式鬼であったら……)
式鬼であったならば、どうとでも言えた。
市中で暴れている宗源火を、自分の式鬼で倒したと言えばいいだけである。
白狐が火事の原因でないと、つらつら説明する必要も証明する必要もなかったのだ。
「……はぁ」
「お疲れですか?」
思わず口から出たため息に、蒼人が気遣わしげな声をかける。
「あ、あぁ、すまない。……なかなか進まなくて、気が滅入っていた」
思わず本音を漏らす。
正直、ここ最近は机にかじりついていて、体がなまっている。
(……ああ、狐丸に会いたい)
もう、随分と会っていない。
仕事が滞っているせいもあるが、あれだけ式鬼になりたくないと拒まれては、こちらも立つ瀬がない。実のところ、自信を失くしている。
(私のどこがダメだと言うのだ……)
再びため息をつく。
何故だか狐丸は、澄真から逃げようとする。
妖怪が陰陽師から逃げようとするのは、当たり前なのだが、あれは異常である。
(封印した瑠璃姫ですら、普通に会話してくれるというのに……)
狐丸は、初めて出会ったその日から、ちっとも懐いてくれない。
確かに、あの白狐事件で痛手を負わせたのは澄真本人ではあるが、あの後キズを治す手助けをしている。少しは、懐いてくれてもいいハズだ。
(……それなのに、あいつは……っ)
澄真は、イライラと筆を持つ。
狐丸は、どうやって澄真の到来を察知しているのか、澄真が会いに行くと、必ずいないのである。
(瑠璃姫ですら、気配を消した私に気づかぬのに……)
ギリっと筆を握り締める。
例えいたとしても、澄真の姿がチラリとでも見えようものならば、すぐに気配を消して、逃げてしまう。あれでは捕まえようがない。
式鬼にしたくとも、全く隙を見せないのである。
「これこれ……」
不意に頭上から柔らかな声が響き、澄真はハッとする。
「吉昌さま……っ」
慌てて礼をとる。
そんな澄真を見て、吉昌は苦笑する。笑いながら、ひらひらと手を振った。
「構わないよ。君も色々大変そうだからね……」
「いえ……」
中務省にある陰陽寮は、いくつかの建物からなっている。
ここ、雑務をする場所と、吉昌の仕事をする場所とは、そもそも別々の棟である。
(何故、ここへ……)
いぶかしむ澄真に苦笑しながら、吉昌は座りながら、用件を伝える。
「飛香舎の彰子さまからお前へ、藤見の宴へのお誘いが来ている」
吉昌の言葉に、澄真は息を呑んだ。
「え……? 何を言っているのですか? 何故彰子さまが……?」
激しく動揺を見せる。
その様子に、吉昌は口許に手を当て、ふふと笑う。
「今回の宴は、敦康さまの知人から選ばれるそうだ。敦康さまがお前をご所望でな」
澄真が青くなる。
「じ、辞……」
「辞退など出来ないよ? 私も呼ばれたから、そう気負う必要はない」
ふわりと微笑む。
「おまえは、私の傍で黙っていればいい」
「……」
吉昌の何を考えているか分からない、落ち着きのある笑顔が怖い。
笑ってはいるが、決して反論を許さない笑顔……。
吉昌は用件のみ伝えると、静かに立ち上がる。
「あ、そうそう」
言いながら、吉昌は澄真を振り返る。
「かの寺。黒孤寺に子どもがいるとか……?」
澄真の肩が跳ねる。
「……そ、それが何か……?」
澄真の反応に満足したのか、吉昌は愉しそうに笑う。
「その子らも連れてくるがいいよ。おそらく年が近いのではと思うのだよ。敦康さまも、お喜びになるだろうから……」
「!」
ふふふ……と意味ありげに笑いながら、吉昌は帰っていった。
「……くそっ」
澄真は呻く。
吉昌は、何も知らないようでいて、実は全てを見通している……。
そう言いたいのかも知れない。
澄真の苛立ちに、蒼人は少し心配になった。
「……澄真さま……」
呟きが、小さく消えていった。