乳母
「まぁ!」
自宅に戻ると案の定、乳母の絢子が驚きの声をあげて、目を丸くした。
「……」
澄真は、居心地が悪い。
絢子が驚くのも無理はない。
今までさんざん、人を毛嫌いしていた澄真が、人を……しかも子どもをつれて帰ったのである。
口許を手で隠してはいるが、そこから微かに見える口角が、ニヤリと笑っているのを澄真は見逃さない。
「……絢子。なにか、勘違いしてるだろ……」
澄真は頭を抱えながら、絢子を見る。
「あらあらあら? 勘違いとは? 私はただ『澄真さまが、可愛らしい稚児をお迎えになられたのだな』……と思っただけですのに……?」
絢子は、ホホホと笑う。
「……」
澄真は青くなる。
絢子の後ろでは、侍女たちが何事かと覗き込んでは、ヒソヒソと話しているのが見えた。
ここで立ち話をしていると、いい餌食だ。
澄真は、低く指示を出す。
「彼は、帝の客人だ。妙な勘繰りはするな。……それと、詳しいことは上がってから話す」
言いながら、縁にどかりと座る。
他の侍女が持ってきた盥を受け取ると、絢子は澄真の足を洗い始めた。隣では狐丸が、他の侍女に洗ってもらっている。
「……まぁ、冗談はさておき、……なかなかの『上物』……ですわね……」
絢子は、狐丸に聞こえないように囁く。
「……そうだな」
ひどい火傷の跡のある絢子の白い手を見ながら、澄真は、軽く答えた。
絢子は乳母と言えども、澄真とそれほど年が離れているわけではない。
もともと武官の流れである澄真の家では、年を経るごとに見鬼の力を大きくさせていく幼い澄真に、手を焼いていた。
人との関わりを嫌がり、常に妖を傍におき、遊びに夢中になる我が子……。それをどうしたものかと、家族は悩んでいた。
そして、ちょうどその時、母方の遠縁である絢子が離縁され、里に戻ったという情報が入る。
なんでも嫁ぎ先の納屋を、絢子が焼いたと言うのだ。
幸いにも小火で済んだのだが、本人は大きな火傷を手に受け、寝込んでいるという。
紛れもない放火の証拠に、離縁を迫られ、絢子の実家では、それを承諾するより他はなかったのである。
実はこの絢子も、幼い頃から『鬼を見る』と言われ、肩身の狭い生活を送っていた。
しかし人当たりがよく、世話好きな性格のため、幼い頃より澄真の母が妹のように可愛がっていた人物である。
嫁いでからも、時々文のやり取りをしていたようだ。
澄真の力に、手こまねいていた母親は、これはちょうどいいと、絢子を乳母にして欲しいと、夫に頼み込んだ。
けれど、澄真の父が、うんと言うわけがない。
納屋を焼くような者を入れる訳にはいかぬと、烈火の如く怒った。
それはもっともだと、澄真の母はいったん諦めたのだが、状況が変わる。
澄真の父が管理する荘園に、大量のイナゴが発生したのだ。
度重なる長雨と、類を見ない温暖な気候に、徐々にイナゴは数を増やし変異を遂げる。あっという間に、荘園内の広大な田畑は、イナゴに覆い尽くされ、澄真の父は頭を抱えた。
──このままだと、一家は路頭に迷ってしまう。
武官の仕事だけでは、家族をまかなうことは出来ない。代々続く荘園の農地があってこその、今の地位であった。
誰もが、自分の不幸を呪ったその時。奇しくもそれを救ったのが、絢子であった。
澄真の母に呼ばれ、喜び勇んでやって来た絢子であったのだが、その夫に突き返され、途方にくれていた。
哀しむ絢子を哀れにと思い、澄真の母は、絢子をしばらく荘園の屋敷に、とどめいたのである。
その屋敷で、ぼんやりと外を眺めていた絢子は、たわわに実る稲穂に付いてる虫……イナゴを見つける。
「……美味しそう」
ぽつりと呟くと、早速実行に移した。
ピョンピョン……と言うより、もはやバタバタバタ……と飛ぶイナゴを手で捕まえるのは、至難の技……絢子は思案する。
(いっそ、炒りながら捕ってみては……?)
じゅるり……と、よだれをすする。
幸い絢子には、生まれながらにして持ち合わせた、見鬼の才がある。そのお陰で、先日嫁ぎ先の納屋で火鼠の子どもを捕まえた。
あまりの珍しさに、我を忘れ捕り物に夢中になり、人に見られてしまった。それどころか、手には大火傷を負ってしまった。
離縁騒ぎにもなったのも、当然と言えば、至極当然なのだが。
(それでも、それなりの価値があった……)
離縁されてしまったが、絢子は後悔していない。
捕まえた火鼠の子どもが、驚くほど美しいのだ!
いつもは厨にある釜戸の中にいるのだが、炎の中にいるときは、真っ赤な色に染まり、火の外に出ると、雪のように白くなる。
絹のように細いその体毛のためか、日の光を反射し、まるで朧月のように淡く輝く。
(捕まえるのに、夢中になるのも、当たり前ですわ……っ)
当然、捕まえてすぐに式鬼の契約を済ませた。
ただ一つ、言葉を理解しないのが残念なところだ。
しかし今、この火鼠が役に立つ。
(火を操る火鼠ならば、虫如き造作もない……)
ふふふと薄く笑って、火鼠に命じる。
「イナゴを焼き尽くせ……!」
──ごおぉぉおぉぉぉ!!!
火鼠の放った炎は、イナゴを襲った!
赤い炎が荘園を包む。
人々は驚き、目を見張る。
自分の命が、これで消えるのか……と人々は覚悟したが、その炎はイナゴだけを焼き、他に被害はなかった。
「あ……熱く……な、い?」
順調かに見えた、イナゴ炒り……。
しかし、火力が強すぎた。
イナゴは、焦げるのを通り越し、この世から跡形もなく消え去ってしまったのだった……。
「……やり過ぎましたわ……」
思ったが、後の祭り。
おそらく『焼き尽くせ』と命じたのが間違えだった。
ここは『炒めよ』であった……。
絢子は人知れず、後悔する。
(イナゴを食べ損なってしまった……)
この絢子の所業は、すぐさま澄真の父の知るところとなった。
危機を救ってくれた絢子は、その見返りとして、そのまま乳母の地位におさまった。
そして、今日に至る。
その絢子が言う『上物』とは、狐丸の見た目のことではない。
内面に秘めた力のことである。
すでに絢子は、狐丸が妖怪だということに気づいている。
少し前までの狐丸であったなら気づかなかっただろうが、今の狐丸からは妖力が微かに漏れている。
おそらく急激な成長の反動のため、自分では隠しきれないのだろう。
幼い容姿とは裏腹に、うちに秘める力のそれは、絢子でも見たことがない。しかも、まだまだ成長の余地があるようにも見える。
(でも……何故かしら……?)
絢子は思う。
澄真は、式鬼の契約をしていないのである。
(仮契約ですらしていない……)
あのように無防備な狐丸だ。
したたかな陰陽師であれば、簡単にねじ伏せてしまうに違いない。
狐丸の妖力を思うと、下手な陰陽師では話にならないかも知れないが、力の強い陰陽師が相手となると、抗うことは難しいだろう。
(……なんと、危なっかしいこと……)
絢子は澄真を仰ぎ見る。
「……」
幼い頃から側近くに控えていた絢子には分かる。
澄真は狐丸を気に入っている。
(気に入っている……では、済まないかも知れませんわ……)
絢子は思う。
屋敷の使用人たちの反応に、戸惑いを見せはしているが、澄真の表情は、狐丸を自宅に連れて来られて、喜んでいる顔だ。
式鬼にしていないとは、よほど大切に思っているのだろう。
(でも……)
絢子は眉をひそめる。
(せめて、仮契約だけでもしてもらわねば……)
嫌な予感がする。
絢子は愉しげな二人を見ながら、今後のことについて思案を巡らせた。
虫……。
夏になると子どもたちが捕るのですが、
美味しそうなのですよ。丸々太って。
きっと……いや、絶対、海老っぽい味に違いない。
子どもの頃、父がイナゴの佃煮を買ってきて
食べてましたが、つまみ食いするの忘れてまして
食べ損ねてしまいました。
でも、多分、イナゴは平気。
ダメなのは、姉が旅行のお土産にくれた、
『芋虫入りの飴』
……あれだけは、ダメだわ。
芋虫……美味しいらしいけどね。。。
ムリ。