契約成立
次の日は有給休暇を取って会社を休んだ。母には仕事へ行ってくると嘘をついた。
まさか最後の別れだなんて思ってもみなかったから、普段通りの挨拶だった。
「行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
向かった先は駅ではなくレンタカー店だ。一応、運転免許は持っている。ペーパードライバーに近いが、何度か田舎と東京を往復したこともある。一番安い軽自動車を借りると、首都高速へと乗った。
ビュンビュン追い越していくトラックに怯えながら、数時間かけて田舎へと向かった。こんな遠くまで来なくても、もっと人気の少ない神社はあるのだろうけれど、私の生まれ育った田舎を選んだのにはそれなりの理由があった。
昔、学生時代を過ごした田舎。
二度と帰ってきたくなかった田舎。
母とのたくさんの思い出が詰まった……ふるさと。
せめて……。せめて母との思い出が詰まった近くの小さな神社の賽銭箱に、投函しようと決意したのだ。
もし、私が母を殺そうとしていたことがバレてしまったとしても……もう構わない……。
高速から降りてさらに一時間山沿いの道を走り、ようやく目的の神社の前に車を止めた。
周りには人っ子一人見当たらない。田畑は荒れ果て、神社の木々は倒れて放置されたままだ。狛犬も階段に転がっている。どちらが「あ」でどちらが「うん」だったか覚えていないが、一人で担げるような重さではない。
耳が痛くなるような静けさ。虫の声もカエルの鳴き声も聞こえない。この村にはもう何年も前から人の姿はない。荒れ果てた境内。古い神社の拝殿は見るも無残な姿になっていたが、その前の鉄製の賽銭箱は錆びてはいるがしっかりと残っていた。
辺りを見渡し誰もいないのを確認すると、ポケットから手早く四角い白色の紙を取り出した。そこに筆ペンで字を書く。
表側に「死神様」を書き、裏側に母の名を書こうとした時……涙がポタリ、ポタリ、と紙に落ちた。喉の奥が詰まりそうになり指が震える。
「……っく……っく……おかあ……さん……」
あの日、コースターに書いた鉛筆の字が水で滲んで上手く書けなかった光景が思い浮かぶ。同じように字は涙で滲み、じっと見ていられないくらいに歪む。何度も鼻をすすって上を向いた。
今ならまだ止められる。取り返しがつく……それなのに……今、やってしまわなければ、一生後悔すると――見えない大きな重みが体中にのしかかってくる――。
震える手で、必死に最後の一文字まで書き終えると、大きな泣き声を上げながら、その紙を賽銭箱に入れようとした。
この手を放せば……私は自由になれる。そして……母さんは……大好きだったお母さんが……。
「誰にも見つかるなと言っただろ――!」
――!
「――キャ! キイヤアアアアアアアー!」
賽銭箱の真横からランニングシャツを着た痩せ男が、手に鎌を持ってじっとこちらを見ていたのだ! 驚きのあまり手から紙が滑り落ち、賽銭箱に飲み込まれてしまった。
――ットン。
紙が賽銭箱の底に落ちる音さえもが、境内に響き渡った――。
「嘘でしょ! なんでこんなところにいるのよ!」
ここで何をしているのよ――! まるで私を待ち伏せしていたみたいじゃないの――!
持っている鎌にはビニールのケースが付けれれていない。それはこれからここで繰り広げられることを予期しての事なのか――。
「何をしているのかって……荒れて伸び放題になった草を刈っているんじゃないか」
わざとらしくしゃがんで草を刈り始める。でも、私が紙を賽銭箱に入れているところを見られてしまった事実は変えられない。
ってことは、私は……。
顎がガクガクと震えて、足からフッと力が抜けていく。思わずしゃがみ込んでしまい、涙が止めどなく溢れた……。
鎌を持ったまま痩せ男の死神が近付いてくる。もう逃げも隠れもしない。できない……。
「真由美さん。あなたが生き残る方法はたった一つだ。それは、どんな試練にも負けずに死ぬまで生きること」
「……死ぬまで生きる?」
「ああ。そうすれば、俺もあなたの順番が来るまで体と魂を切り放したりはしない」
「……」
ランニングシャツ姿の痩せ男は、手の平で血を吸う蚊をパチンと叩いた。
「俺にだって血くらいは通っているんだ」
少し笑って見せてくれたが、私の気持ちは落ち着かなかった。
「――じゃあ、これからわたしはどうすればいいのよ……わたしの人生は……」
母を殺そうと思った。その気持ちを抱き続けて生きていかなくてはいけない――。
「真由美さん。あなたは一度、俺に命を助けられている」
――!
私はまだ、誰にも何も助けられていない。
「本来ならば、あなたは今日、この場所で手に鎌を持った痩せ男の変質者に殺されてしまう運命だった。なので、一度死んでしまった命だと考えれば、なんとか他の方法も考えられるだろ。死ぬ気になれば、もう少しやりようがあるんじゃないか」
昨日、失敗すれば殺す対象が自分に跳ね返ってくる。そう言っていた。
「……死神は嘘をつかないんでしょ」
「それこそが嘘だ。神が嘘をつかないなんて信じているのは育ちのいい人達だけだ。あの賽銭箱にいくらお金を入れたって願い事なんか一つも叶わないのは知っているだろ」
「じゃあ、どうすればいいのよ。これからわたしは……」
私の方こそ、殺人未遂犯だわ……。
「相談しなさい。死神にではなく周りの人に。力にはなれなくても話を聞いて貰うだけで救いになる」
「誰によ」
「おや?」
急に男は目を細めて話を遮った。
「どうしたのよ」
「どうやら、相談する必要は無くなったかもしれない」
「――!」
それっていったいどういうことなの……。
「早く帰った方がいい」
「え、い、嫌よ。怖いわ。一緒に来てよ」
「それはできない。俺には……ここの除草作業が残っているんだ。それに、自分の蒔いた種は自分で責任をもって見届けなければいけない。早く行くんだ」
しゃがんでまた草刈りを再開する姿に、どうしようもない怒りを覚えた。
こんなに私が苦労しているのに……なぜ死神は……。
「もういいわ――!」
走って車へと戻った。死神なんかに頼ろうとした私が……バカだった――。
アパートに帰ると、すっかり辺りは暗くなっていた。
結論から言うと、母は生きていた。
思わず抱き着いて泣き出してしまった――。
「お母さん――ごめんなさい――。本当にごめんなさい――」
「祐美恵、どうしたのよ。小学校の頃から一度も泣いた事のない祐美恵が泣くなんて」
「わたし……わたし……」
「いいのよ。お母さんはもう怒ってないよ。祐美恵が何をしたって、それは祐美恵の意思でやっていることなんだから、お母さんは怒ったりなんかしないわ」
頭を優しく撫でてくれる手の温もりは……子供の頃と少しも変わらなかった。
「それよりも祐美恵、お母さんの郵便局の通帳を知らない? 探しても探しても見つからないんだけれど」
「……ごめんね。わたしが預かっているのよ。……ちょっとお金が欲しかったの」
「なんだ、そうだったの。だったら正直に言いなさいよ」
お金が欲しかったなんて、嘘だ。私が預かっていると言い続けるよりも、母に甘えている方が母も気にならないのかもしれない。
「……ごめんね」
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