01
12歳のアンブロシアーナの目が覚めたのは、世界一寝心地のいい自分の寝台の上。しかし暗くて深い憎しみの中だった。 昨日までアンブロシアーナは、優しい父親が母と自分のために用意してくれた、ありとあらゆる種類の花が咲き乱れる屋内庭園で幸せな空想ばかりしていた。
炎を意のままに扱う魔王の力が込められた大きな魔導石を中央に配置した温室。魔導石を太陽の代わりにして育つ花々のほとんどが、魔人の国に自生しているものではない。東の国の商人が春になると売りに来る種や球根、苗を買い取り、使用人に植えてもらっているのだ。
昨日まで、アンブロシアーナは赤色や黄色、紫色といった魔人たちの髪や瞳のように色鮮やかな花を愛でていたというのに、今頭に浮かんでくるのは白くて小さく、あまり派手とは言えないアンモビウムの花のことだった。
アンモビウムの花を見る度にいつも何か大切な事を忘れているような気持ちになったり、ひどく悲しい気持ちになったりする理由。それをようやく、今、アンブロシアーナは理解した。
「どういうこと……? わたし、時間を遡ってるみたい……」
アンブロシアーナは『昨日』と認識している幸せな時間とは別に、恐怖や悲しみ、憎悪に満ちた凄惨な日常の記憶が頭の中にあると気が付いて口元を手で覆う。それは次々浮かび上がって、思わず吐き気までした。
頭の中で、魔人の国には無い冷たいピアノの音と、それをよく演奏していた男の嘲笑ばかりがひどく大きく反響して、頭蓋骨を内側から叩いているような気がした。
ドクドクと血が騒いで、いつの間にか大きく膨れ上がっていた体内の魔力を深呼吸で抑え込む。
――魔力が湧いてくる……遡る前の時間からそのまま、まるで重なって、合わさったみたい……
恋しくて、帰りたくてたまらなかった自分だけの部屋に、忌々しい男の姿も古びたピアノもちろん無い。その当たり前のことに安心し、そして俯いていた顔を上げる。
――これだけ魔力があるんだもの。上手くコントロールできれば人間たちなんてもう怖くなんてない。
寝台を離れて鏡を見つめると、醜い色に染められていた髪は元の鮮やかな炎の色をしていた。増大した魔力と憎しみで遡る前よりも強い輝きを持っている。
まだ断片的にしか蘇ってこない記憶は全て嫌なものばかりだ。深く、深くまで記憶を探ると吐き気だけでなく、鈍く頭まで痛んだ。
――蘇りの魔導書を見つけた時がきっと一番最初の正しい時間。時間を遡ったのは、あの時フリードに死なないでって思ってしまったから?
しかしその後の時間逆行がなぜ起きたのかアンブロシアーナは上手く思い出せずにいた。
断片的で、記憶の欠片が足らずに今は仮定することしかできなかったが、何らかの理由でその後フリードリヒが死んだのならば魔導書との契約がまだ続いているのだろう。
アンブロシアーナはフリードリヒの事を恨み、強く憎しんではいたが、殺生はやはり好まず、明確に殺意があるわけではない。
フリードリヒのいう「お人好し」はそこに確かにあてはまってしまっているのだと自覚して、憂鬱に薄暗い窓の外を見つめる。
魔人の国は、魔人の始祖のエドワードが、母である女神によってあらゆる災いから守るために大地の割れ目に隠されて出来たと言い伝えられている。
日照時間は短く夜が長いが、住む民たちが皆魔族であるため、空気中に漏れ出た魔力が濃い日は空に鮮やかな色の雲や帯状のものが見える。
もともと暗い時に発光するキノコや草花が多く自生しているため明かりが必要なく、また夜目のきく魔族は闇を恐れない。今城下町を美しく照らしている街灯は、炎を司る現魔王が即位してから彼を讃えるようにあちこちに設置されたものだった。
街灯の設置により東の国や親交のある国々から商人が気軽に訪れるようになり、各国の芸術品などが盛んに売買され始めた。
ネジを回すだけで音楽の鳴るオルゴール、片手で持てる小さな弦楽器、金属で出来た笛のようなものは魔人の国にやってきたが、憎らしくも美しい音色だと思ったピアノはまだ無い。
アンブロシアーナの見つめる窓の外は濃紺の空にコーラルピンクや紫色のふわふわとした雲が風に攫われ横へ横へと流れている。
朝の訪れに、使用人たちの楽しげな声も少しだけ聞こえてきていた。
――この国を守るためだから、わたしは輿入れを拒むことはできない。でも傷付けられてばかりはもう嫌。この世界で嫁ぐか婿を取るかはわからないけれど、とにかく力を身につけよう……。
思えば、この世界線上でアンブロシアーナが魔力のコントロールがよくできるのは、一つ前の世界での就寝中に髪を発光させないよう練習していたからだ。
アンブロシアーナは周りの同世代よりも有利に、魔術を学ぶ機会を得たのだ。