03
やけに静かな朝。目を覚ましたアンブロシアーナは、自分の見慣れない色の髪に思わず悲鳴を上げそうになった。しかしすぐに昨日の出来事が頭の中に鮮明に思い浮かび、湧き上がる憎しみと悲しみに歯を食いしばる。
――許さない、絶対に許さない。人間なんて大嫌い。
憎しみで体の奥底から沸々と湧き上がるのは、紛れもなく魔力だ。本来ならば人間の一人や二人、簡単に燃やしてしまえるほどの力くらいは持っているのに、殺生や闘争、何かを傷付けることを好まないアンブロシアーナはこれまでその力をあまり使ったことは無かった。
燃え尽きた炭と焦げ付いた何かを混ぜたような髪にまた火が灯る様に、まばらに赤や橙、黄色の光が少しだけ鮮やかに蘇る。
もともとは獣や小鳥と遊ぶ為に。そして今は人間に合わせて短く切り揃えた爪が、体内の魔力の増した勢いからいつの間にか鋭く伸びて手のひらに刺さった。その痛みで冷静さを取り戻したアンブロシアーナは、手のひらから漏れ出たキラキラと光を反射する細かい雲母の混ざったような血液に目を細める。
ずっと遠い昔、まだ崖の上に住んでいた魔人が人間と争っていた頃、人間たちはこの魔人の血を戦利品として持ち帰ったと聞く。骨や歯、爪、角は加工して武器に。血は凝固させて宝飾品に。思わず身震いしてしまうような話だ。
魔人も魔人で、同じように酷いことを繰り返していた。未だにその時代を忘れられず、竜人など寿命の長い者たちの中には、人間の肉が甘くて柔らかく、この世のあらゆる肉の中で最も美味だと話す者が未だにいる。そんな時代はもう終わりにしなければならない。
――和平のため。人間の国と貿易をしたら、きっと民の生活がもっと良くなるとお母様が言ってた。我慢しなくちゃ、我慢、我慢……
「アン、おはよう」
不意に声をかけられ、思わずそちらを睨みつける。まだジャケットを羽織らずにチョッキ姿でいる彼は、アンブロシアーナの眼光に少し怯んで引きつったような笑みを浮かべた。
「支度が終わったら一緒に朝食をとろう」
「……」
「部屋の外で待っているよ」
「先に行ってください」
「わかった」
ドアが閉まるのを見届けてから、ふと昨晩フリードリヒに届いた手紙のことを思い出した。
――公爵令嬢エレアノーラ……まだ一度も会ったことがない。公爵家からのお便りならともかく、どうして令嬢個人からフリードに?
使用人の言葉にも引っかかるものがある。
アンブロシアーナはいけないとわかっていながらも、フリードリヒのデスクの側へ行って引き出しの取っ手に指先で触れた。
――いけない事? フリードはもしかしたらもっといけない事をしているかもしれないのに。
政略結婚と言う名の人質の交換とのことで、その婚約者同士は一夫一妻で妾や愛人などは極力控えるようにという決まりが設けられた。
高貴な血の存続が目的ではなく、争いを避けるための婚姻であるため、恋愛結婚が主流で不倫に対して厳しく、激しい争いにすらも発展することがある魔人側に配慮をしてのことだ。
アンブロシアーナはまだ成人しておらず正式に婚姻を結んだわけではないが、他に恋仲の者がいるなど、とても容認できることではない。
決心して引き出しを開くと、そこにはきらびやかな封筒や便箋が幾重にも束ねられていた。上から順番に軽く目を通すだけでも、全て同じ書き手による文字だとわかる。
――これも、これも、これも……全部エレアノーラさんから……どれも恋文みたい。
秋の訪れに赤くなった紅葉は美味しそうに見えるが、美味しくない。夜食を我慢して寝たらブリオッシュの中で眠る夢を見た。貴族の中で泳ぎの対決をしたら自分が一番に違いない……と思わず笑ってしまうような内容ばかりだが、フリードリヒの健康を気遣う内容にアンブロシアーナは確かに愛情を感じた。
それを大切に引き出しにしまいこんでいるのだから、二人は想い合っているのだろう。
初めからアンブロシアーナに居場所などなかったのだと思うと、ついさっき怪我をしてしまった手のひらがズキズキと痛んでその場にうずくまる。
「……早く、支度をしなくちゃ」
魔人をあまりよく思っていない使用人たちが苦手で、支度は極力自分ですると言ってしまった。そのことを初めて後悔するほどに気だるさを感じてしまう。
アンブロシアーナは渋々着替えると、いつもは肩に垂らしている髪を使用人たちのように、きっちりと全て後ろにまとめて視界に入らないようにした。