02
12歳のアンブロシアーナの嫁ぎ先が決まったのは、ほんの偶然の重なり合いからだった。
普段、滅多に領地の外に出ない魔王が、気まぐれで散歩に出かけた。それも、人間や獣人の多く住む崖の上へだ。その先で偶然、転倒した馬車を見つけたことがきっかけであった。
倒れた馬車の中から救い出した相手は、人間の国の伯爵とその夫人。怪我をした彼ら、そして馬を不憫に思った魔王が保護し、城でもてなしてやった。
伯爵夫妻は長く病を患っている我が子のため、東の国でしか手に入らない高額な治療薬を買いに行こうと、自ら馬車に乗り込んだと言う。
危険を伴う旅は召使にでも行かせればいいのだが、彼らはその高額な治療薬のために多くの使用人を解雇せざるをえなかった。
屋敷に残った数少ない使用人に息子の世話を頼んだのは、料理や掃除、介護などの能力が貴族の夫婦には無かったためだ。遠い東の国への道を歩む覚悟を決めた夫婦に、魔王夫妻は感銘を受けた。
獣人と人間が共存する東の国は医療技術が発達している。だがかつては不毛の地と呼ばれ、農作物の出来が悪かった。
現在あの国で開発される薬品の原料となる草木、キノコなどのほとんどは、崖下の魔人の国から輸出したものだ。
彼らをいたく気に入った魔王は、魔人の国に訪れている東の国の医者や薬剤師を城へ呼び寄せ、その薬の原料となる薬草を特定した。
魔人の国ではあちらこちらに、当たり前のように自生しているそれと共に彼らを国へ帰らせると、数ヶ月後には礼服に身を包んだ使節団が書簡を持って訪ねてきた。
魔人の国では腐るほどに取れる薬草やキノコ類は、人間の国との貿易で経済に大きな効果をもたらし発展に繋がるだろう。それを見込んだ后の口添えもあり、国交を結び、互いの信頼を得るためにアンブロシアーナは政略結婚をする運びとなった。
魔人の国からはアンブロシアーナが人間の国の王子へ輿入れをし、人間の国からは若く美しい姫君の一人が、時期魔王として最有力候補に上がっている貴族のもとへ嫁いでくる。
実力社会の魔人の国で政略結婚などは珍しく、幼い頃から当たり前に恋愛をして結婚すると思っていたアンブロシアーナは、好物の甘いものすら喉を通らないほどショックを受けていた。
魔人の国で12歳は決して大人ではない。12歳で家族のもとを離されて知らない環境に身を置くことは不安だったが、火の魔人として生まれた少女が無力な人間如きにねじ伏せられることも無かろうと、誰も意見する者はいなかった。
人間の国に迎えられたアンブロシアーナは、想像していた通り奇異の目を向けられていた。
魔王が助けた伯爵夫妻や、婚姻の話を持ち出した国王、そしてアンブロシアーナの夫となったフリードリヒだけが彼女に優しく接していた。
フリードリヒの継母である現王妃はアンブロシアーナの炎のような髪の色を良しとせず、何度も何度も炭で地味に染めろと言うのだった。
その王妃から産まれた王女たちも一緒になってアンブロシアーナを嘲笑したり、あるいは無視をしたり、サロンやオペラの日時や場所を違う内容で教えたりと嫌がらせが続いた。
毎日、朝晩だけ会えるフリードリヒだけがアンブロシアーナを高く抱き上げてくるくると回ったり、菓子類をプレゼントしたりと可愛がっていた。それだけが彼女にとっての救いとなっていた。
フリードリヒはいつもアンブロシアーナに笑顔で接し、夢にうなされた時も、帰りたくなって泣いてしまった時も、怒ったりせず、優しく抱きしめて落ち着くまで待っていた。
そんなフリードリヒにアンブロシアーナがよく懐くのは当然だったが、彼の態度が妻に対するものではなく、妹や子供を相手にするようなものだと薄々気付いてもいた。
嫁いでから数ヶ月がたったある朝、顔色の悪いフリードリヒの咳き込む姿を心配したアンブロシアーナは、なるべく自分のことで彼に気を遣わせないようにと、泣き言を漏らしたり、甘える事をやめた。
強くなろうと心に決めたアンブロシアーナが泣かなくなると、それを義姉たちは面白くないと感じたようだった。
彼女たちはとうとう染料を小間使いに持たせて、まだアンブロシアーナが入浴をしている最中の浴場に訪れた。
アンブロシアーナは裸のまま湯舟から引きずり出され、髪をひっつかまれてしまった。
散々な目に合わされた後に鏡を見ると、父親譲りの炎のような髪は所々が黒や灰色に染まって斑色になっていた。乾かした後はふわふわと柔らかかったはずの手触りも、ギシギシと軋んで干し草のようだ。
流石に堪えることなどできるはずもなく、涙を流しながら居室に戻ると、長らく放ってあった古いピアノの椅子にフリードリヒの姿があった。
いつものように、ただ抱きしめて背中をぽんぽんと撫でてくれさえすれば、次々と溢れて止まらない涙も止まるだろう。髪を元に戻す方法もあるかも知れない。
そう思っていたアンブロシアーナのか細い呼び声に、フリードリヒはピアノを弾く手を止めて振り返り、その黒曜石のような色の瞳の輪郭がわかるほど目を大きく見開いた。
そしてそのまん丸の瞳は、すぐに細められた瞼によって歪み、鋭い刃物のようにアンブロシアーナの髪を突き刺す。
激しい怒りをそのまま音にしたかのような不協和音が、アンブロシアーナの鼓膜を通って心臓まで届く。フリードリヒが拳を鍵盤に叩きつけ、鋭く醜い音を立てたのだ。
立ち上がったフリードリヒの目は殺気立ってすら感じる。その視線だけで縊り殺されそうだ。
自分のいる方へ向かう一歩一歩が、アンブロシアーナには恐ろしい。
強い足取りでアンブロシアーナの正面に来るフリードリヒの顔は怒りに蝕まれ、眉間には深いしわが刻み込まれている。初めて彼に恐怖を抱き、足が竦んだアンブロシアーナはその場に崩れ落ちた。
「なんだ、その髪は!」
それまでただ優しく包み込んでくれていたフリードリヒ。彼の聞いたこともないような激しい怒号にショックを受け、アンブロシアーナはぎゅっと目を閉じて肩を寄せる。
そんな声は聞きたくない。
逃げるようにアンブロシアーナは両手で自らの耳を塞いだ。
震えと涙の止まらないアンブロシアーナを見て、フリードリヒはようやく我に返ったようにいつもの優しい声をかけた。
彼女を覗き込んでくる顔は、怒りを抑えてなんとか微笑んでいる。だが、今はそれすらが恐ろしくてたまらない。
「アン、言ってごらん、その髪はどうしたんだい?」
汚い色に染められてしまった髪を、アンブロシアーナはこれ以上フリードリヒに見られて責められるのが恐ろしく、耳を放して今度は頭を抱えるように両腕で隠した。
「黙っていてはわからないよ、アン、その髪は、どうしてそんな色になってしまったんだい?」
そんな色、という言葉に悲しみが膨れ上がって胸を押し潰す。好き望んで染められたわけではない。嫌がるアンブロシアーナを数人がかりで押さえつけて髪を染めさせたのは外でもない、フリードリヒの腹違いの姉や妹たちだ。
悲しみと共に湧き上がる怒りに、アンブロシアーナはぎゅっと手のひらに自分の爪を食い込ませた。
フリードリヒの顔に一瞥くれて、再び下を向く。
「なんでもない」
そもそも、彼はいつだって言葉で慰めるだけで、よく思い返してみれば一度も助けようとなどしてくれなかった。アンブロシアーナの中の信頼や憧れのような気持ちが冷めていく。
心の中にあった憧れの王子様の像は、砂塵を巻き上げながらガラガラと崩れて、ただの瓦礫の山と成り果てた。
「アン」
逃げるようにアンブロシアーナは大きな寝台へ駆けて行き、頭まで布を被って一人で涙を流す。それは恐怖と悲しみよりも、悔しさや怒りの方が大きくなっていた。
やがて聞こえてきたコンコンと扉を叩く音に、不機嫌そうなフリードリヒが返事をする。
「入れ」
「失礼致します。フリードリヒ殿下へ、公爵家のご令嬢エレアノーラ様より、お便りが届いております」
「……後で読む。適当に置いておいてくれ」
「かしこまりました……心中、お察し致します」
距離があっても全て聞こえている。魔人であるアンブロシアーナの聴覚は、人間のそれよりも少し優れているのだ。
なぜ彼に公爵家の令嬢から便りが届くのか、どういった心中を使用人が察したのか、アンブロシアーナは布の中で黒い疑念に頭の中を支配された。
嫌な事が一つあると、連鎖するように嫌な事は立て続けに起こる気がして、アンブロシアーナは不安げに布の隙間からフリードリヒを見つめる。
フリードリヒは使用人がデスクの引き出しに便りをしまったのを見届けてから、アンブロシアーナが小さく繭のように丸まっている寝台の方へ歩み寄ってきた。
「おやすみ、アン」
アンブロシアーナは初めて故意にフリードリヒを無視した。本当は同じ寝台にいる事も嫌で嫌でたまらない。だが、魔王の娘として育てられたアンブロシアーナは、ソファーや椅子、ましてや床で眠るなどできるはずもない。
それをしたら、自分だけでなく魔人の全てが人間に負けてしまうような気がした。
フリードリヒの「おやすみ」の言葉に忠実に反応したのは魔導石のランプだけだった。
真っ暗になってから寝台にそっと入ってくるフリードリヒは、夜目がきかないからか、少しの間辺りを触って確かめて、ようやくリネンを被ったのだった。