スライムは本当に服だけを溶かすことができるのか?
スケベというほどスケベでもない、ふざけたお話です。
「魔王の仕事は他の国や集団における首領のやるものとはかなり違う。おかしい。アンタが魔王で本当に大丈夫なのか?」
そうジークフリードに言われたアンブロシアーナは、今回ばかりは彼のその言葉に同意をせざるを得なかった。
東の国の医師、研究者たちと魔人の国のスライム飼いがチームを組み、なんと肉体を傷つけずに衣服だけを溶かすスライムを市場に出したいと言うのだ。
魔王であるアンブロシアーナの今回の仕事は、そのスライムを倒す……のではなく、実際に試して安全性の確認をした上で、医療の現場で扱う事を後押ししてほしいというものだ。
もちろん、魔人の国で最も強い魔王が知能もなく温厚なスライムに蹂躙されるわけがない。だがわざわざ服を溶かされに行くことには大きな抵抗感がある。だからアンブロシアーナはスライムに立ち向かうため、恥を晒さぬ為に準備を整えてきた。
「このスライムは、どう活用するんですか?」
「はい、魔王陛下。このスライムは衣服のみ溶かし、傷は保護します。ですから、外傷を負った者の応急処置をする際にこれを患部に貼り付けますと、これまでのように服を全て脱がす必要もなく、出血を抑えることができるのです」
東の国の医師の言葉に、スライム飼いはいまいちわからないがとりあえず頷いているという様子だ。恐らく魔人であるスライム飼いは少し血が出るくらいの外傷で死に至るなんて想像すらしていないだろう。
医師もその様子に「あっ」と気がついて、魔人であるアンブロシアーナとスライム飼いに解説を続けた。
「人間と獣人は、魔人と比べて治癒力がかなり劣ります。出血が多いというだけで死んでしまうのです」
「ええ、それは知っています……知っていますが……」
恐る恐るアンブロシアーナが振り返ると、その依頼が来てからというもの悪魔の形相で、魔力も無いのに禍々しいオーラのようなものを放っているジークフリードが顎を引いた。
顎を引いたことで更に鋭さを増した眼光に、医師らがぶるりと震え上がる。
「ジギ、そんなふうに人を睨みつけちゃだめだよ」
「アン、こんなものが本当に魔王の仕事なのか?」
「……お父様も魔王だった頃はよくわからない食べ物の試食とかもしていたし、食べるのに比べたらスライムさんを触るだけで大したことないよ?」
「義父上とアンタは違うだろ。だめだ。絶対にだめだ」
魔王が良いと言っても一見魔王よりも悍ましい顔をしているジークフリードに、誰もが説得を試みることすらできない。
世のため人のため重ねた研究が、今ここで無かったことになるのか。そう重たく暗い空気が立ち込める中、ジークフリードだけが堂々と顔を上げた。
「どのみち魔人には必要ないものなんだろ。なら俺で試せ」
予想外の言葉にアンブロシアーナは口元を手で覆った。しかし彼の判断は少し良くないことだと気が付いて、ぶんぶんと首を横に振ってジークフリードの手を握る。
「落ち着いてジギ、あのね、このスライムさんはお洋服を溶かすというよりも」
「大丈夫だ。こんなことに、一国の主を使う必要は無いということを教えてやる」
「違うの、あのね、このスライムさんは」
「服しか溶かさないという条件で売り出すことに許可を出すんだ。人間の俺に何かあったら、それこそ許可は出せない。どう考えても俺で試すべきだ。早くしろ!」
凄まじい剣幕のジークフリードにアンブロシアーナは思わず怯んでしまう。
医師たちは互いに頷き合って、蠢く知能の無いそれがなみなみと入れられた盥をジークフリードに手渡した。
「ふん、これを被れば良いのか?」
余裕綽々というように鼻で笑い、盥を見下ろすジークフリードが言うと、その言葉に医師らが驚いて顔を蒼くした。
「お、お待ち下さいませジークフリード様」
「今更止めるな」
少しくらい人の話を聞いてくれても良いというのに、ジークフリードは落ち着いているように見えて、内心では必死の様子だ。体を張ってでもアンブロシアーナにスライムを使わせないという使命に燃える彼の深い愛情に、こんな時だというのにうっかり惚れ惚れしてしまう。
「アン、あっちに行くんだ」
「あっ、待って待って、お願い待って! 被らないで! 少し話を」
いつも優しく引き寄せ、抱きしめてくれるジークフリードの手が少し乱暴にアンブロシアーナの肩を押し退けた。
その荒々しい手付きとは裏腹に、瞳は優しくアンブロシアーナを見つめている。
ジークフリードが高く掲げた盥からスライムがどろりと溢れ落ちるのに、アンブロシアーナはすぐさま軸足に力を込めて飛び出した。
ほんの一瞬でジークフリードの正面に立ち、自分より逞しく大きなその体を抱き締めて、医師らに彼を見せないように庇った。
ネバつきのある草食スライムは、普段は柑橘の葉などを与えられているのだろう。ほんのりと甘酸っぱい爽やかな香りが、この状況でなければきっと癒やしとなっているはずだ。
知能が無いためペットに向かず、これまであまり活躍の場が無かった彼らは、研究者らの力によって数を増やし、立派にジークフリードのシャツだった麻布を食べている。
「アン、どうしてこんなことをするんだ!」
強く両肩を掴まれ引き剥がされたアンブロシアーナの体から、ジークフリードの体へと伸びて糸を引くスライムには痛覚もない。アンブロシアーナの服の上のスライムは活動をやめて、大人しく留まっている。
ジークフリードはその様子に眉を顰めて、自分の体とアンブロシアーナの体を見比べた。
「……どうしてアンの服は溶けてないんだ」
盥に手袋をした手や靴下を履いた足だけ入れれば良かったものを、頭からスライムを被った粘っこいジークフリードは、麻や綿、魔人の国で一般的に普及している蔦植物の繊維などで出来た服を溶かされて、穴だらけの布切れを体に貼り付けている。
少しそれを扇情的だと思い、つい頬を染めてしまったアンブロシアーナだったが、慌ててかぶりを振り乱して不埒な思考を吹き飛ばして口を開いた。
「ジギ、あのね、このスライムさんは草食性だから……だからわたし、今日はちゃんと蜘蛛とか羊毛の服を」
スライムを貼り付けた顔から表情が消える。それは虚無の顔だ。
「もっと早く言えば良かったのに、本当にごめんなさい……」
ジークフリードがだめだの一点張りで話を聞かなかった事にも問題はあったが、襤褸を纏う彼の姿を目にして責めることなどできない。
何よりアンブロシアーナは、自分を庇ってその身を捧げてくれた彼の自己犠牲に心を痛めていたし、同時にその色っぽい姿に消しきれないときめきを感じていた。
「ジギ、わたしのためにいつも頑張ってくれてありがとう」
「……アンタのためなら、別に、俺は尻くらい出しても構わない」
笑ってはいけない。医師たちは必死に堪えて表情を変えずにいたが、アンブロシアーナはいつか彼のズボンを引っ張ってしまった羞恥が蘇り、ときめきが遠くへ飛んでいく。
今はただ、両手で顔を抑えて泣きたい気持ちになっていた。
結局、動物性の繊維が溶かせないのではほとんど意味が無いではないかという意見で、医療用スライムが日の目を見ることは無かった。
だが、ジークフリードが頭から被ったスライムが可哀想になり、持ち帰って花を食べさせ天寿を全うさせたアンブロシアーナの提案から、アロマスライムという名で薫香ペットとして市場に出回ることになった。
餌によって香りの変わる透き通ったスライムは盥の中から美しい硝子の容器に移され、花やハーブなどを食べて多くの人々に愛された。
売上の1割はスライム保護の活動に使われているが、思考を持たない草食スライムには特別ありがたい話ではない。
(おわり)