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セーニョの先で見ている  作者: トシヲ
フェルマータ
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坂道のリドル

フリードリヒの話です。最後の世界線でのふざけていない話です。

『この国の坂道は、上り坂と下り坂ではどちらが多いと思う?』


 そのなぞなぞには答えがまだない。





 フリードリヒにはごく当たり前のように幸福が用意されていた。


 優しい乳母に美しい母親、決して言葉数は多くはないが、春のひだまりのような穏やかな眼差しを向けてくれる父親。そして誰よりも明るく、愛くるしいオリーブ色の瞳で見つめてくれる許嫁。


 そのことに疑問を持つことなどあるわけもない。朝食にブリオッシュが運ばれてくるのと同じくらい、彼らに囲まれて生きるのが当たり前のことだと思っていたからだ。


 唯一、フリードリヒには足りないと感じるものがあった。


 それに名を付けることはできない。何が足りないのか、はっきりとはわからなかった。



 フリードリヒは物心が付いたときから、何度か同じ夢を見ることがあった。


 夢の中ではいつも決まって彼は体を小さく縮こまらせて、自分の膝を抱くようにしてどこか心地よい寝台のような場所にいる。


 夜明け前なのか、それとも分厚い天蓋が覆っているのかもわからないが、薄暗いその空間でフリードリヒはいつも幸せな気持ちでいるのだ。なぜならそこにはもう一人誰かがいて、その誰かのことをフリードリヒはとても好いているからだ。


 自分が守ってあげないと。そういった責任感と無条件に抱いてしまう愛情。ずっと一緒にいたくて、触れてみたくて、フリードリヒは笑って手を伸ばしてみる。



 夢はいつもそこで終わってしまう。覚醒するたび、その誰かだけがすっぽり抜け落ちている世界にフリードリヒは首をひねった。


 どうして何かが足りていないのに、誰もそのことに気付かないのだろう?


 当たり前のように過ぎていく時間は幸せなものであるのに、時々見せる母の笑顔に苦しみのようなものが入り混じっていることにもフリードリヒは気付いている。



 自分を抱き上げて笑う母親は、いつもフリードリヒをフリードと呼んだ。


 一年に数回だけ、季節の行事やフリードリヒの誕生日を祝うパーティーで会える許嫁のエレアノーラは、彼の母親をよく慕っていた。そのためか、同じようにフリードリヒをフリッツとは呼ばない。



 何故自分に呼び名が2つも用意されているのかを知ったのは、6歳の頃だった。


 罹患し、療養のため城の離宮へ寝室を移してから三ヶ月ほど会えなかった母親が戻ってきた。最後に会った時よりも少しだけふっくらと肉付きが良くなり、骨ばってガサついていた手も、つるりと滑らかで撫でられると心地が良かった。


「フリッツ、よく聞いて。あなたには弟がいます」


 初めてフリッツと呼ばれたフリードリヒは、何かずれていたパズルのピースのようなものが正しい位置に戻ったような気持ちになった。母親に呼ばれる時、本当に自分を呼んでいるのかわからない時があったのは、彼女が自分の向こう側にその弟を見ていたからだ。


 とくに戸惑わず、初めから知っていたというような気持ちで母親から弟の話を聞く。


 魔に近いからと忌み嫌われた双子が、今城下ではむしろ持て囃されていることはフリードリヒの耳にも届いていた。だから双子の下の子を捨てた者がいると噂がたつと、その人の家に石が投げ込まれたり、玄関に水や泥を撒かれる事件が多く起きているという。


 その、急にありがたいものとなってしまった双子の弟がいるのだと言う母親に、フリードリヒは何度も見ている夢のことを思い出した。あの誰かが、その双子の弟なのだという根拠のない確信に胸に手を当てる。


 会いたい。早く会わせて欲しいと願うと、母親は緊張した面持ちで一度フリードリヒの前から消えた。



 少しして、再び部屋の扉を叩く音がした。入ってきた母親は唇を噛んで、少し怯えているようにも見えた。いつも凛と冷たい印象を抱かせるような顔で王の横にいる母親が、そんな顔をするのをフリードリヒは初めて見た。


 母親の後ろに続くように部屋に入ってきたのは黒髪の少年だった。


 まるで鏡を見ているかのようだった。


 上に着る窮屈ものはとっくに脱いで、絹のシャツにクラヴァットだけを身に着けた楽な格好のフリードリヒと違い、弟は質素な白いシャツに暗色のチョッキをきっちり着ており服装は全く違っていた。それでも顔は全く同じで、すぐにこの上ない親しみを感じる。


 自分と同じ顔をしている少年は眉を顰めてフリードリヒを見ている。


 フリードリヒは笑った。ずっとずっと会いたくて仕方がなかった気がした。その存在を知ったのはほんの少し前のはずなのに、母から産まれてすぐに引き離されてしまった弟が愛おしくて堪らない。


 フリードリヒが手を伸ばすと、不機嫌そうな弟はそっぽを向いてしまった。


 不機嫌になって当たり前だ。フリードリヒは当たり前の幸福を彼から奪ってぬくぬく生きてきたのだ。当たり前のものが当たり前でなかったと気付いたのはこの時だった。


「母上のお腹の中で、ずっと一緒だったのに……一人にしてごめんなさい」


 いろいろな人に愛されて育ったフリードリヒは、彼にも分け与えられるべきだった全てを独り占めにして生きてきたことに気が付くと、急に恥ずかしい気持ちになった。


 肩を落とすフリードリヒを、弟は軽く顎を上げて睥睨した。


 黙ったままの弟の背中に母親が手を伸ばす。


「ジークフリード、このこはあなたの兄、フリードリヒですよ」


「見ればわかります」


「……悪いのは母と、大人たちです。フリードリヒは何も知らなかったのです」


 涙を浮かべた母親の顔に、フリードリヒは息を飲んだ。彼から何もかもを奪ったのは自分だというのに、どうして6年も心を痛めてきた母親が自分のことを庇うのかわからない。


「ジークフリード……さん、盗ったのは僕なんだ。母上はいつも僕をフリードと呼んでいたんだよ。君から母上を僕は盗ってしまった。母上からも、君といたかった時間を盗ってしまった。ごめんなさい。君から盗ってしまったものを、僕は返したい」


 数ヶ月前に父から貰った胸がドキドキするような冒険者の本も、憧れの騎士の形をした木製の人形も、祖父の形見である銀のカフスボタンも自分だけが貰ってしまった。


 それを眺めて嬉しいと思った時間を彼にもあげたい。


 彼が望むならば、フリードリヒは自分の大切なものを何でもあげたいと思った。


「ジークフリードさんなんて、長たらしいな。ジギで良い」


「……ジギ」


「それにアンタのものなんかいらない。本は自分で好きなものを勝手に読むし、服も食べ物も好きなものを自分で選ぶ。もう俺はアンタの影武者じゃないんだ。俺には俺だけのものがある。だから、それでいい」


 それまで固く口を閉ざしていたジークフリードの口元が柔らかく綻んで、冷たかった目元も優しげに細められた。


 その温かい表情に、フリードリヒに小さい頃の楽しい記憶があるように、ジークフリードにも何か大切なものがあるのだと気が付いた。


 すると肩の荷が降りたような気持ちになる。彼がこれまでの貧しかっただろう暮らしの中で見つけた大切なものが知りたくなって、フリードリヒは弟の側に歩み寄った。


「弟なのに、僕よりよっぽどお兄さんみたい。君のことをたくさん教えて。もっと君のことを知りたいんだ」


「……別に話しても面白くない。でも、まあ、話し相手にならなっても構わない」



 一つ分増えた幸せは、母親にもたくさんの笑顔を与えた。以前のような寂しげな横顔は消えて、いつの間にかどこかに行くこともない。


 楽しいと笑い、ちょっとしたことでも嬉しいと言って泣くようにもなった。


 ジークフリードが弓の稽古に熱中して帰りが遅くなってしまった日はとても怒った。それ以外でもジークフリードはよく母親のお小言に何かを言い返したりして、しょっちゅう叱られていた。


 そよ風のように落ち着いて凛と冷たかった母親が、まるで慰問に行った孤児院の修道女がいたずらをする子供を叱る時と同じ顔で、同じような声を出して彼を追い回す時、フリードリヒはいつも何か可笑しい気がして笑ってしまった。


 その笑い声につられて一緒に笑いだしてしまう両親と、ばつの悪そうなジークフリード、乳母、爺や……たくさんの人々に囲まれて、新しい当たり前となった日々はあっという間に過ぎ、そして数年がたった。




 16歳。


 許嫁のエレアノーラに、フリードリヒは自分と弟の生誕を祝うパーティーで、正式にプロポーズをした。


 わざわざ魔人の国から足を運んでくれた親友で魔王の少女、アンブロシアーナが一番に泣いて喜ぶものだから、エレアノーラの養父である公爵は泣くタイミングを失って、泣くどころか始終笑っていた。


 まだ13歳の魔王にジークフリードの方は求婚できないが、虎視眈々と彼女の傍らを狙う彼の眼光は日に日に鋭さを増している。


 会う度に、元からの可憐さに加えて美しさを増していくアンブロシアーナを誰かに横取りされないかと不安なようだ。



 皆の注目を浴びながら、エレアノーラは頬を赤らめてはにかんだ。


「皆様、祝の言葉をありがとうございます。ところでお集まり頂いた皆様は、この国の坂道は、上り坂と下り坂ではどちらが多いかご存知ですか? 答えはどちらも同じ数、なのですが、フリードリヒ殿下はおっしゃったのです。数えてないからわからないと」


 和やかな笑いに包まれるホール。それまで泣いているアンブロシアーナの顔にチーフをあてていたジークフリードが顔を上げ、フリードリヒの方を見た。


 もちろんフリードリヒは坂道は上り坂であり下り坂でもあると知っているし、同じ数というのが正しい答えだと知っている。


 それをわからないと言った兄を訝しむでもなければ嘲笑うわけでもなく、単純に好奇心を抱いたような顔だ。


「それから、殿下はこうもおっしゃいました。一緒に数えに行こうと。国内の坂道全てを数えに行こうだなんで、どれくらいの時間がかかりましょう。それでは死ぬまでお側にいるしかないのでは、と」


 フリードリヒは一度、目を瞬かせてから視線をまっすぐにエレアノーラに向ける。エレアノーラもまた、ホールを見渡していた瞳をまっすぐこちらに向けた。


「だから、私はどれほど険しい坂道でもフリッツと一緒にいます。ずっとずっと離れないわ。大好きよ、フリッツ」




 フリードリヒには当たり前の幸福が用意されている。幸福になるために産まれてきたのだと誰もが疑わない。


 フリードリヒもまた、そんな幸福がいつまでも続くと信じている。


 いずれ、心配性な親友に元気に産まれるであろう赤子を見せる時、また泣いて喜んでくれるだろうと用意したハンカチーフ。それに彼女の一番好きだと言った白い花の刺繍をする妻の、珍しく静かで真剣そうな横顔を見つめると、ついフリードリヒは耐えられなくなって笑ってしまう。


 口を尖らせた妻に笑ったことへの文句を言われながら、楽しい気分のままペンをとる。


 遠方に住む弟に手紙を書く時間に寂しさはない。


 たとえ遠く離れていても、それぞれに自分だけの幸せな時間があると教えてくれた弟から返事は少ないが、時々母の出した手紙への返事と一枚にまとめたぶっきらぼうな手紙が届く。


 そこに綴られた彼の日常を知れる日が楽しみで、幸せなフリードリヒはまた何度も笑ってしまうのだ。


(おわり)

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