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白の世界で再び意識を覚醒させると、かすかに温かい魔導書が俺の肩に寄り添うように静かに触れた。
「テディ、アンブロシアーナがあれくらいでは死なないと、あなたは知っているのでしょう?」
「知っている。だがアンに傷を負わせ苦しませた。俺はどうなっても構わないから、アンにはそういう思いはしてほしくない」
「……では、次に蘇らせるのはフリードリヒですね。それだけ戻ればあなたたちの婚約までのお話も変わるかもしれません。でもテディ、その世界でアンブロシアーナが最初に出会うのは兄かもしれませんよ」
「良い。どのみち俺はあいつになれる」
「わかりました。テディ、忘れないで、わたしはいつもあなたの味方ですよ」
喉に僅かな違和感を覚える。背が、手足が縮んでいく。
もう15、16の時の自分など大人と変わらないと思っていたが、思い出してみれば今よりも少し小さく弱かったようにも感じる。
そうだ、あの時の俺は本当にフリードリヒと同じ姿だった。
16になる少し前の世界。俺が目覚めたのは庭師の古い小屋の中だ。
庭師の小屋と言ってもそれは昔の話で、俺が生まれた時すでにこの小屋は恐らく無人だった。
今の庭師は新しく建てられた宿舎で料理人やその他の使用人、騎士見習いたちと寝泊まりしているらしい。
この時の俺は庭師や騎士見習い、使用人のふりをして城の中にいる人間の観察していた。それが趣味であり、そして役目でもあった。
わずかな違いからこの世界線のアンブロシアーナは人間の国に嫁いでくることとなった。魔導書の言うとおりアンブロシアーナが最初に出会った婚約者はフリードリヒだ。
俺は王の命令によりアンブロシアーナの監視をした。フリードリヒの体調が優れない時は王子の格好で側にいた。
俺と過ごした日々の記憶も無く、まだ13歳にもなっていないアンブロシアーナは幼くてあまりにも可愛かった。
ふわふわと髪を揺らして駆けたり、フリードリヒに抱き上げられると右手の小指が触れる鍵盤のような綺麗な声で笑うのだ。
俺に向けていた敬慕の視線をフリードリヒに向ける小さなアンブロシアーナを、思慮が浅く王族として……いいや人間として哀れにさえ思えるような知能しか持ち合わせていない王妃と姉たちは毎日のように叱責し、罵倒した。
優しい理想の王子様であるフリードリヒならばアンブロシアーナを助けるだろうと思っていたにも関わらず、奴は保身からか見てみぬふりをし続けた。されるがまま虐げられて帰ってくるアンブロシアーナのご機嫌取りをして裏ではどうせ治りもしない病の治療に励んでいる。
歯がゆさに俺は何度も何度も祈った。
早くフリードリヒを死なせて欲しい。俺がフリードリヒになればきっとアンブロシアーナを幸せにしてやれる。
俺ならばあの耳カス程度の脳みそしか持たない王妃も姉たちも黙らせることができる。あんなに小さく健気で無害で、本来なら温室で好きな花を見つめて生きていけたはずのアンブロシアーナを傷付ける者全てを消し去りたい。
フリードリヒが死ぬ時、俺は取り残される寂しさを感じなかった。二度目の別れはただの回想と変わらず、むしろこれからは自分がフリードリヒなのだと思うと幸福さえ感じた。フリードリヒは俺にとっては一度通り過ぎたセーニョのマークにすぎないのだ。
俺はアンブロシアーナに触れられる喜びを胸にあいつの弾けないピアノを弾いた。母が俺だけに遺したものだと気が付いた時、ピアノが好きだと思うようになった。
ようやく部屋に戻ってきたアンブロシアーナを今度は俺が慰める番だ。フリードリヒがやっていたように抱き上げたらその眼差しと笑い声を独占できる。そのはずだった。
部屋に入って来たアンブロシアーナはボサボサに乱れた醜い毛に覆われていた。
ゴワついた枯れ木の枝ような毛髪は黒や灰色、緑、紫、橙をまぜたような混沌の斑模様をしている。一瞬、誰だかすらわからないような有様だった。
俺はまた守りたかったものを守れなかった事にピアノの鍵盤を殴りつけ、よりにもよって彼女に向かって怒鳴り声をあげた。沸き立つ怒りに心が抑えられず、ようやく我に返ったのは怯えた顔でその場に小さくなり震えだしたアンブロシアーナに気が付いてからだ。
犯人を暴き出そうと質問をするが答えは得られない。それどころかアンブロシアーナは俺を強く睨みつけてから逃げ出した。
婚約者にベタベタと甘えていたはずのアンブロシアーナは、俺がフリードリヒになったその時から甘えて来ることは無くなった。
名前を呼んでももう駆けてこない。側に来て楽しそうに見上げてこない。手を差し出しても繋いでくるどころか、叩かれるとでも思ったのか身構えて後ずさる。キラキラして可愛いまん丸の瞳を怒った猫のように鋭くさせて警戒するようになった。
例え怒った顔まで可愛いとしても、明らかに俺はアンブロシアーナに嫌われ恨まれていた。
俺は本当のフリードリヒではない。やはり所詮は偽物なのだ。
アンブロシアーナが求めているものはフリードリヒだ。フリードリヒを演じる俺ですらなかった。これまでもこれからも、きっとアンブロシアーナは俺ではなくフリードリヒを愛するのだろう。
悔しくて悔しくてたまらない。どれだけ努力を重ねてアンブロシアーナに命さえ捧げても愛されることはない。
フリードリヒは本当に何でも持っている。俺は奴の半分にも満たない。
アンブロシアーナはフリードリヒに愛されていないことを知って泣いていた。誰にも愛される可愛らしいお姫様が、突然何もかもを失って一人ぼっちになってしまったのだ。
俺だけはアンブロシアーナを愛しているはずなのに、それも彼女は理解できずにエレアノーラの名を出した。
兄宛の手紙など、もっと早く焼いて捨ててしまうべきだった。
アンブロシアーナは俺の存在だけでなく俺の感情さえ否定した。アンブロシアーナの方こそ俺ではなくフリードリヒのことを好きな癖にあまりにも酷い言われようだ。
全ては俺が浅はかだったからだ。
また幸せにしてやれなかった。俺は自分があまりにも情けなくて笑いすら込み上げてくる。
俺は再び魔導書にフリードリヒの名を告げた。魔導書は全てをまるで見通していたかのように俺を白の世界で待っていた。
「次は彼が亡くなってから彼女と出会うかもしれませんね」
「全て知っているなら、アンが最も幸せになれる時間に飛ばせ」
「……それはできません。因果とはそういうものです。順を追わねばなりません。ですがいつか必ずあなたは良いように蘇りますよ」
次は、次こそは理想の王子に近付きたい。アンブロシアーナを幸せにしてやりたい。全ての害から守りたい。誰にも傷付けさせたりなどしない。
愛されてみたい。たとえそれがまがい物であっても。