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「……ここは」
やたらと大きな扉だ。いつの間にか触れていた繊細な細工の施された取っ手に見覚えがある。これは魔人の国の城の中にある図書館の扉だ。
キンという耳鳴りと一瞬頭痛がしてすぐに、俺は先程毒を飲んだことを思い出した。だというのに胸の内ポケットの小瓶はなぜだか、まだしまったままだ。
俺はあの魔導書の力で本当に蘇った。そのことに気付いた俺はドアの取っ手を放してみた。今ここであの魔導書を見つけなければアンブロシアーナともう少しだけ生きられるんじゃないかと、そう思った。
もう少し、あと少しここでこのままいればあの可愛らしい焔色の髪を揺らしてアンブロシアーナが俺を見つけに来る。
思ったとおり、数回息をしたくらいでアンブロシアーナがいつものように俺の邪魔にならぬようにとコソコソと様子を伺いに来た。本人は気配を消して隠れているつもりのようだが、俺がそれに気づかないわけがない。
俺はあえて気付いていないフリをしながらアンブロシアーナのいる角の方へ歩き出す。それからわざとあっと驚いたかのような顔をして笑って見せた。
「アン、探しに来てくれたのか」
「あ、あのね、一緒におやつでもどうかなって思って……わたし、邪魔しちゃったかな」
「いいや、丁度小腹が空いていたところだよ。お茶を淹れよう、君の好きなローズマリーも入れて」
再び訪れた優しい日々の中、初めのうちはフリードリヒを演じる俺であっても、彼女が望んでくれるのならばそれで良いんじゃないかと思っていた。しかし虚しさはアンブロシアーナへの想いが強くなるたびに激しく胸を揺さぶって独占欲が脳を腐らせていく。
俺は一人で図書室へ行くのをやめた代わりに、彼女と共に温室へ行くようになった。俺から歩み寄る度に距離はみるみる縮まっていき、アンブロシアーナは俺に肩を抱かれてもいちいち驚かなくなった。
やがてアンブロシアーナのとろけるような甘い眼差しを向ける先にいるフリードリヒへの憎しみに抗えきれず、俺はとうとう愚かな選択をした。
「アン、もしも僕が……俺が、アンの理想の王子様でない平民だったらどうする?」
「え? それは、どういう意味?」
「俺がフリードリヒ以外の誰かだったらどうするって話さ」
「フリードはフリードリヒじゃないの?」
「俺がもしアンの婚約者の王子じゃなくて、その偽物……影武者とかだったら……」
こてんと頭を傾げて目をぱちぱちとさせるアンブロシアーナに、俺は馬鹿な自分を叱りつける。アンブロシアーナが望むのならば理想の王子様であるべきだ。それで必要として貰えるのならそうするしかない。
「ごめんなさい、わたしは難しいお話はわからなくて……その……あっ、俺って言うの格好良いね」
「……そうかな」
「うん、フリードは王子様でもそうじゃなくても格好良いから、楽な喋り方をしてほしいな。わたし、ちゃんとフリードのこと知りたいの。あ、人間さんの事も、だよ!」
きっとアンブロシアーナが知りたいのは俺のことではない。フリードリヒのことだ。俺の知らない城壁の向こうを知っているフリードリヒの事だ。海と湖の違いを知っているフリードリヒのことだ。
そう理解していても、それでも俺はまるでアンブロシアーナに俺自身を認めて貰えたかのような気分に浸って、思わずその脆そうな体に手を伸ばした。
哀れで愚かで穢れている俺の力にアンブロシアーナは抵抗すらできない。驚いて硬直している体を抱き寄せて、有無を言わさず唇を重ねた。
毒薬を口に含んでいないことを良いことに、俺は夢中でその唇を貪った。
アンブロシアーナが俺を押し退けて逃げ去った時に後悔をしたが、同時に喜びを感じていた。この時の俺は恋に浮かれきっていた。初めて愛おしいと思った人に愛されるかもしれないという淡い期待に、時間を遡った特別感に。