03
アンブロシアーナは幸せだった。誰よりも優しく顔立ちの整った人間の国の王子様と結ばれて、毎日可愛いだの愛しているだのと甘い言葉をかけられて、不安や憂いなど全く感じることは無かった。
恋とは、なんて幸せで素敵なことなのだろう。そう毎日頭の中を花畑で満たしていた。
アンブロシアーナはフリードリヒを完全に信頼しきっており、王宮内を自由に出歩かせた。また、魔力を持たず、武器も持たない人間の王子を、そこにいる全ての魔人が弱き者だと完全に見下していた。
やがて月に一度、書簡や調度品を届けに来る人間の国の使者との謁見にも、魔人は立ち会うことがなくなった。アンブロシアーナも、彼女を可愛がる魔王も后も、誰一人としてフリードリヒを警戒する事など無かったのだ。
「君の言っていた図書室のステンドグラスを、僕も見てみたいんだ」
フリードリヒがそう口にしたのは、婚姻の宴から一年ほど経った頃の事だった。
ステンドグラスのある図書室は王家と一部の貴族、許可を得た学者のみが入室を許される。その許可を得るには、原則、議会での審議が必要なのだが、アンブロシアーナの好きなものを見てみたいと願う王子の言葉を誰も疑う事は無かった。誰から見ても、フリードリヒは国の宝であるアンブロシアーナ姫を大切にしている、良き夫の姿をしていた。
例外という特別扱い。それは魔人らが勝手に抱いた信頼感と、何もできない人間である彼を軽んじてもいた結果だ。
一度でも図書室に足を踏み入れればそれは当たり前のことになり、勉強熱心で誠実な王子の趣味が読書になったことを誰も危惧などしなかった。
アンブロシアーナはフリードリヒが自分よりも本に夢中になって視界からいなくなってしまったのが寂しく、ただ一人だけ図書室を気にしていた。
魔王の目の届く王宮内で、姫に護衛はつかない。図書室の扉を開けたアンブロシアーナは一人だった。
外は夕暮れで、燃えるような空の光がステンドグラスを突き破るように照らしている。一年を通して日当たりの悪い魔人の国では滅多にない快晴だ。
どの椅子にもフリードリヒは座っていない。本を探しているか、片付けているかのどちらかだろう。
本棚の間を縫うように歩き回って彼を探すうちに、アンブロシアーナは自分も知らなかった場所を見つけた。
規則正しく並んでいるはずの本棚が不自然に一つだけずれて、床には蓋のような物が付いている。それが完全に開けられていた。
床下の貯蔵庫と思われるその空間からは、人間にはわからないだろう魔力が霧のように漏れ出して、魔人のアンブロシアーナにすらひどく禍々しく感じられた。
恐る恐る中をのぞいて、そこに隠されていた書物が危険な呪術や滅びた古代の巨人族、毒龍の屍を封印したものと気付いたアンブロシアーナは、慌てて子供の頃に暗記した禁忌の目録を順番に読み上げて欠けが無いかを確認をする。
王族や貴族であれば必ず暗記し、それらに未来永劫触れてはならないと学ぶ。まさかこうして実物を目にすることなど無いと思っていたアンブロシアーナの心臓は、痛みすら感じるほど強く脈を打ち、冷や汗がじわりと衣服に染み込んでいった。
「無い……蘇りの魔導書が、無い……」
その小さな呟きを、誰かが聞いていた。
「……へえ、これは蘇りの魔導書って言うのか。この文字は魔力が無いと読めない作りなのか?」
いつの間に背後に立っていたのだろうか。聞き慣れたようで聞き覚えのない声が背中にかけられる。
これまで感じたことのないような悪寒や大きな不安に、アンブロシアーナの体は震え始めていた。
「蘇りってことは、死者が生き返るおまじないの本……といったところか?」
どうしても聞き覚えがあると感じてしまうその声にアンブロシアーナは思わずかぶりを振った。気のせいだと自分に言い聞かせ、その実感が欲しくて振り返る。
「ご機嫌いかがかな、愛らしいアンブロシアーナ姫」
片方の口角を上げて微笑むフリードリヒの顔にアンブロシアーナは脱力して、彼の手にある分厚い魔導書に息も止める。
多量の魔力を付与された特別なモノ……主たるは武器や本などの類。それは人間の国では呪いと呼ばれている。
その呪われた事物を魔力の弱い者、あるいは魔力の無い人間が触れば肉体や精神に大きな負荷がかかる。それゆえかフリードリヒの右腕は服の袖ごとボロボロに傷付き、血で汚れていた。
「危ないよ、フリード、お願い……その本をこっちに」
「危ないのはそっちの方だ、世間知らずでお人好しの純真無垢なお姫様。こんなところまで来なければ、明日からも大好きな王子様とずうっとお花畑で暮らせたのにな」
「う……嘘だよね、フリード。どうしてそんなことを言うの?」
「嘘? ハハッ、俺はずっと、初めからこの魔王城の情報を祖国に送っていたんだが……」
「……わたしのこと、愛しているって」
「本当に脳みそがお花畑なんだな。一年も抱かれず、キスすらされずに虚しくなかったのか? 本当にアンタはお人好しで世間知らずで、他者の悪意を知らなさすぎる……」
フリードリヒがジャケットの内ポケットから、香水のような小さな硝子瓶を取り出した。
余りにも大きすぎる絶望に床に座り込んだままのアンブロシアーナは、初めて他人から殺意を向けられた恐怖に震え、後ずさるのが精一杯だった。
次から次に溢れて止まらない涙。頭痛と吐き気まで感じて、しまいには息苦しくて死んでしまいそうだ。
「お前を騙すのは楽だったよ」
「いやっ、いやぁっ! 聞きたくない!」
フリードリヒは小瓶の栓を抜くと、中の液体をわざと見せつけるように、ステンドグラスを透かす鮮やかな夕日に照らして揺らめかせた。
「最期くらいキスしてやるよ。いつもして欲しそうだっただろ。俺はこれくらい、口に入れただけじゃ死なないんでね」
小瓶の中身を口に含み、フリードリヒが強引にアンブロシアーナの体を抱き寄せる。
恐怖で力の入らないアンブロシアーナの体は容易くその腕の中に収まってしまった。
後頭部をしっかりと掴まれ、性急に唇が重ねられた。ぐっと押し付けられるような口付けかと思えば、それまで強引だった手が、なぜだかまさぐるようにアンブロシアーナの後頭部と背中を撫でた。
ゴクッと喉の鳴る音。その音がしたのはフリードリヒの方からだった。
ゆっくりとフリードリヒの体から力が抜けて行くのをアンブロシアーナはただ感じて、見ていることしかできない。
受け身も取らずに床に倒れたフリードリヒの痙攣している手が、アンブロシアーナの方へ伸びる。まるで助けを求めるような、すがるような手にアンブロシアーナははっとして彼の名を叫んだ。
「フリード! フリード!」
薄っすらと瞼を開けているフリードリヒは、まだかろうじて意識を保っているようだった。
「残念だったな……理想の……王子様じゃなくて」
フリードリヒの目尻から溢れた雫に彼の死を悟り、アンブロシアーナは絶叫する。
彼は目をそらさず、瞼を下ろすこともなく、虚ろにアンブロシアーナを見つめていた。