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母と乳母に愛されて大切に育てられたフリードリヒはまるで当然のことのように俺を自分の弟として扱った。
フリードリヒはなんでも俺に分け与えた。本も菓子もその日一日の記憶も。
「僕はずっと何か足りないような、そんな気がして生きていたんだ。君が僕の前に現れてくれた時、それが何なのかわかったよ」
「魂の半分でも足りなかったのか」
「そうかもしれないね。君は僕の半分にも満たないかもしれない。だから僕のものをあげる」
「盗ったのは弟の俺だ」
「僕も盗ったんだ。たくさんのものを」
俺には意味がわからなかった。意味はわからないが、憎いと思った。これほどまでに努力を重ねてあらゆる技能を身に着けて来たというのに、それがあいつの半分にも満たないと言われたことが悔しくて憎くて妬ましかった。
本物のフリードリヒが羨ましくてたまらなかった。彼になりたいと強く思った。
フリードリヒは俺の名を聞きたいと言った。拒否する必要もないと思った俺は母が最期に遺した名を告げた。フリードリヒはその名から、愛称として「ジギ」と俺を呼ぶようになった。
俺はフリードリヒにとって自分とは違う別個体なのだと意識をさせられたように感じた。だがそれがどこか嬉しくもあった。俺の存在を知ってくれている、俺の名を呼んでくれるフリードリヒが憎くてたまらないのに同時にかけがえの無いもののように感じた。
同じ顔を持つ兄。たった一人の兄。一緒に産まれてきた兄。母が遺した兄。
そんな兄、フリードリヒも16歳になって間もなく死んだ。神話、言い伝え通り俺が魂の半分を奪ってしまったとでも言うように。
本当に俺は災いを呼ぶのだろう。そしてホンモノを失ったニセモノもここで死ぬのだろう。生きる目的、理由が無くなったのだから。
俺は自らの処分について告げられるために王の間へと呼ばれた。その王が自分の父であるなんて自覚も無く、ようやく訪れた必然的な死についてぼんやりとどんなものかと考えていた。
だが王は俺に生きろと言った。
何故かと問うこともなく、俺はただ御意と答えて生きることにした。
フリードリヒの葬式はあげられることなく、彼の死は隠蔽された。
俺は正式にフリードリヒになった。
ジギという男の存在を知らないエレアノーラは、俺にある日こう問うた。
「この国の坂道は、上り坂と下り坂ではどちらが多いと思う?」
馬鹿な質問に、俺はただフリードリヒのように笑顔を浮かべたまま答えた。
「どちらも同じ数だよ」
エレアノーラは「そうよ」と言ったが、それからあまりペラペラと喋ったり歌ったり騒ぐことがなくなった。
18になると、俺とエレアノーラのと婚約は破棄された。特に何とも思わなかった。
その代わりに、大人たちは俺に近い将来魔人の国に行くのだと言った。
俺は魔人の種族やら何やらについて学び始めると共に、必ず魔人の姫を手玉に取るのだと強く言われて女の扱い方も学んだ。
ほとんどの女がエレアノーラとは違っていた。エレアノーラのようによくわからない動きで翻弄してきたり、大きな声でゲラゲラ笑って転がったりしない女は扱いやすくて良かった。
好きでもなんでも無い女、地位や名誉に溺れる女、金欲しさに自分を捨てる女。皆俺がフリードリヒのふりをして優しく笑いかけると簡単に手に落ちた。魔人の国へ婿入りするのだというと俺のためと煩わしく泣く者もいた。
魔人の種族について記された図鑑を眺めていると、見た目はどうであれエレアノーラ以上のバケモノはいないだろうと思った。
角や牙があるだけでなく牛やヤギ、犬、猫など獣のような顔を持っていたり、鱗に覆われていたり、眼球や口、手足の数が俺とは違う者もたくさんいるようだった。しかしどいつもきっと落とし穴を掘ったり馬糞を投げてきたりはしないだろう。
炎の魔人である魔王の詳細がわかるものは手元に無かったが、体が大きく角と発達した犬歯を持ち、白目の部分が黒く目付きが鋭いという情報だけがあった。
后については代々宰相や大臣などを輩出する名家の娘としかわからず、婚約を結ぶアンブロシアーナ姫とやらがどんな姿をしているのか想像するがいつも途中でどうでも良くなった。
俺は獣でも虫でも液体でも言語を解せぬ者にでも愛を囁やける。結局のところ、その時何を考え、何を思っていても適当にフリードリヒのような笑顔でいればいいのだ。
王女に取り入って魔人の国の情報を集めて弱点を探り、いずれは属国として支配し使役した魔人らの魔術を軍に取り入れる。
その目的のために俺は顔に笑顔を貼り付けて国を出た。
寂しさや名残惜しさなどなかった。それどころか初めて出た城の外に好奇心が湧いていた。何より自分の力が必要とされたような気がして喜びさえ感じていた。
白く可愛らしい牙ですね、まるで集めた星を織ったような髪ですね、この世のどんなものもその美しい角に比べたら霞んで見えます、宝石のように輝く鱗が可憐ですね、全ての愛らしいその手の指にこの婚約指輪を捧げて僕だけのものにしたい、僕をその全ての瞳で見つめてくれる君が愛おしい、どれかしらが当てはまれば運がいい。
そんな風に思いながら、用意されていた黒い衣服を身にまとう。鏡を見ると、魔人の服の趣味は自分とよく合っていた。
闇の色は目に優しい。眩しい色は恐ろしい。
長い尻尾や羽を持つ魔人の使用人たちは、人間たちと同じように知力があるようでしっかりと愛想笑いを浮かべている。分厚い爪もヤスリで磨いているのか先が丸く、夜明けの雨露のようにも見えた。
魔人は性に素直だとか、野蛮で獣のようだとか書いてあった本とは違い、人間たちと変わらない羨望、俺の外見への好意、静かな嘲笑、時には無関心とそれぞれ思考をしていた。
誰一人として急に匂いを嗅いできたり舐めたり叫んだりなどしない。もちろん落とし穴も無ければ馬糞を手にゲラゲラ笑いもしない。
外は明るいが、晴れの日よりも薄暗い。
空は青や紫を混ぜたような薄灰色だ。
歓声の中、真っ赤な炎のような後頭部がバルコニーに見えた。
ひと目で女とわかる弱々しい背中に羽はなく、黒のウエディングドレスに尻尾を通す穴もない。
振り返った女の顔は魔人の資料の中にあったどれよりも可愛らしく、まるで人形のようでもあった。夜中の焚き火のように、見ているとなんとなく落ち着く炎の髪は柔らかそうでどんな刺繍糸よりもきらびやかだ。俺を見てキラキラと輝いている翡翠色の瞳はこれまで見てきた宝飾品のどれよりも美しく澄んでいる。
「まるで夢でも見ているようだ」
心からそう思った。これほど美しい生き物を見たことがない。
これほど綺麗な姿で産まれ、魔王の子として育てられた女は傲慢で自信過剰で油断が多く扱いやすそうだ。そうも思ったが、アンブロシアーナはもじもじと俯いたり控えめな女だった。
俺の顔を一目で気に入ったような女に俺はただ微笑みかけた。
彼女はただそれだけなのに嬉しそうにして、俺なんかの側にいるだけで幸せそうに表情をほころばせていた。




