16
アンブロシアーナはワルツが好きだ。三拍子の音楽は心が弾むようで心地がいい。
フリードリヒはいろいろな音楽をピアノで弾いて聴かせてくれたが、その中でもアンブロシアーナは特にワルツが好きだった。
フリードリヒは誰とも踊らずにまだ何かを探している。エレアノーラと会話をしている様を見て安心したのも束の間、ディディエが先ほど自分がいた場所の方へ指をさしたのを見たアンブロシアーナは、そっとカニ歩きでその場所から離れていく。
花から花へと渡る蜂のように、少しずつその場を離れていくアンブロシアーナをフリードリヒが見つけてしまうまで時間はあまりかからなかった。
「アン!」
もう好きではないはずの声に心臓が跳ね上がる。嫌だからそうなってしまったのだと、計画がまた失敗してしまった罪の重みでそうなるのだと心に言い聞かせても、慣れない胸の疼きが別の感情を呼び覚ましてしまいそうだった。
フリードリヒはアンブロシアーナの正面に立つと、後ろの花瓶ではなく胸ポケットに忍ばせていた花を一輪取り出した。
片膝を床についてそれを差し出す彼に、アンブロシアーナは逃げ場など無いのに一歩後ずさる。
「僕と踊ってほしい」
主役からのダンスを断るわけにはいかない。
「……はい」
――どうしていつも、思い通りにいかないの。
受け取った花を髪に刺す。優しく手を引く彼の姿は何度も見てきた不幸なフリードリヒの形をしている。
――いつもと同じ。同じだから、なんだか変な気がする。これは何と同じなの?
フリードリヒから目線を外して見つめた先のエレアノーラは、悲しくも悔しくもないいつもの笑顔だった。勝利のピースサインをしてお茶目な笑い方をして、自分の兄に呆れられている。
「アン、僕を見て」
「え、あ、はい」
足を踏まないように、彼を困らせないように、恥を欠かせないように、魔人の国の姫として……魔人の代表として失敗をしないように。
「僕だけを見て」
聞き慣れた声だった。好きだった、求めていた声だ。
「君が好きだよ」
欲しかった言葉だ。そして、最も求めてはいけない言葉だ。
――魔導書、魔導書、お願い。またやり直さないといけないの。
フリードリヒの眼差しは優しく、まるで昼間の木漏れ日のように暖かく優しい。そして何よりも熱い気がした。
それがなぜなのか、アンブロシアーナには到底理解ができない。その熱のこもった瞳はエレアノーラに向けられていたはずだ。
音楽が鳴り止んだタイミングで、アンブロシアーナはその場を離れようと顔をそっぽに向ける。しかしフリードリヒの手がそうはさせまいとアンブロシアーナの手をしっかりと握っていた。
次の曲が始まる前にどこかへ逃げなければならない。そう強く思ったアンブロシアーナはフリードリヒの手から自分の手を引っこ抜こうと、顔を向けた方向へ必死になって一歩を踏み出した。
その拍子にフリードリヒの手袋が外れて、アンブロシアーナの手に残ってしまった。
「あ、ご、ごめんなさい!」
「いいや、必死に逃げようとする君が可愛くて意地悪をした僕が悪い」
切なそうなフリードリヒの笑顔に心臓を鋭い刃物で一突きにされたような痛みが走る。心臓がドクドクと鳴って全身の血が素早く巡りだして顔に熱が溜まっていく。
その目を見続けていたらまた逃げるタイミングを失いそうで、アンブロシアーナは手袋を渡すその手に視線を落とした。手袋の抜けたフリードリヒの右手には痛々しい火傷の痕が残っていて、アンブロシアーナは息を止める。
そもそも火傷をさせたのだから、そこに傷跡があって当然だ。火傷を追わせたのはアンブロシアーナ自身で、それはこの世界線であったことだ。
切なげな笑顔のフリードリヒは気付いていないが、アンブロシアーナはその火傷の痕にようやく抱いていた違和感がはっきりと蘇り、背筋にゾクゾクと冷たいものが蠢くような感覚を抱いて顔を蒼くしていく。
アンブロシアーナは、注射を打たれるフリードリヒの右手を確かに見ていた。傷一つ無い、綺麗な右手を。
蒼い顔のアンブロシアーナに、フリードリヒは右手をひらひら振って見せた。
「アン、この通り全く痛みとかも無いんだよ。傷は勲章のようなものだから、これは僕にとっての誇りだ。お願いだよ、そんなに悲しい顔をしないで」
――あの人は……この人は、誰?
「わ、わたし、外の空気を」
「待って、僕も一緒に」
フリードリヒの言葉などには耳も貸さず、アンブロシアーナは夢中で走り出した。景色は目に入らない。入っていても、元の形なんてわからないくらいのスピードで過ぎていく。
銀色に眩しい月が濃紺の雲に覆われて隠れていく。世界は闇に覆われていく。
――誰? 誰なの? あの人は誰?
アンブロシアーナにはもう一つ確かめなければならないことがあった。
茂みを、枝がドレスや髪に引っかかるのも気にせず駆けていく。獣のように光る眼でただ前を見ていた。
人々の忘却の彼方にある庭園。孤独な庭には、朽ちかけの装飾が転がっている。長い歴史を刻んでいる空間は廃棄所のようなものなのだろう。
草や蔦に覆われているものばかりだというのに、そこには一つ新しいものがあった。
――ある……お墓が、ある。
アンブロシアーナが抱いていた違和感はこれだ。ひっそりと、誰にも知られまいとしているかのような墓石に名は刻まれていない。
その墓に眠るのが本当にフリードリヒの母親なのだろうか。その疑問は初めて墓を見た時からあったはずだった。
一国の王妃……例え廃妃となった後に死去したとしても、こんな場所に小さな墓を建てられるだろうか? 名を刻まないのはなぜなのか?
――このお墓は誰のお墓……? 庭師……ジギなら何か知ってる?
しかしジギはもう城にはいない。今、彼は城下街の医者のもとで治療に励んでいるはずだ。
アンブロシアーナは地面に膝を付き、何も持たずに突然訪ねてきてしまったことを墓に眠る誰かに詫びる。髪に飾った花をとり、墓石の前に置いて手を合わせた。
雲が捌けて月明かりがまた地上を照らしていく。瞼を開いたアンブロシアーナは、背後に人の気配を感じて唾を飲み込む。
かつてのどの世界線よりも魔力を持つアンブロシアーナの背後へ、気配を消して近付くには本来相当の鍛錬が必要だっただろう。アンブロシアーナはそれに該当する人物を知っていた。
「……あなたは、誰なの?」
そう零しながら振り返る。
月明かりは白く、眩しく世界を包み込んだ。