01
和平条約を結ぶにあたり、確実に相手側の信頼を得るために政略結婚という手段に出ることは、差して珍しいことではない。それまでの長い歴史においても、あらゆる集団と集団の間でそれは行われている。
魔人の国からは、その国で最も美しい貴族の娘が人間の国の王子のもとへと嫁いでいき、そして人間の国からは第6王子フリードリヒが、魔人の王女アンブロシアーナ・アドラメレクの夫として受け入れられることとなった。
表面上はにこやかに両国の繁栄と平和を祈ると言って受け入れたが、アンブロシアーナは内心恐れすら抱いていた。
アンブロシアーナはそれまで両親のいる魔王城で何不自由なく大切に育てられた。人間よりも出産適齢期の長い魔人に産まれた彼女にとって、17歳で異性と恋愛を通り越していきなり婚約するなど、まるで違う世界が舞台のおとぎ話のようだ。
長きに渡って血筋よりも魔力や知力などの実力が優先されてきた魔人の社会では恋愛結婚が主流で、ほとんどの者が尊敬できる相手と愛を深めて婚約を結ぶ。
落ちこぼれた子供から優秀な孫を手に入れるために、金や権力を駆使して才能豊かな嫁や婿をとるという話も稀にある。だが、アンブロシアーナはなんとなく自分も恋愛をするものだと思っていたので、正直、いもしない相手に失恋をしたような、とても悲しい気分になってしまった。ここ数日は食欲も無くなり、3時のおやつも喉を通らないほどだ。
17の誕生祝賀会で紹介された人間の国の王子たちは、アンブロシアーナを奇異の目でジロジロと見たり、魔人の耳にははっきりと聞こえるひそひそ声で嘲り笑ったり、あるいは目も合わさずどこか遠くばかり見ていたりとあまり印象が良くない。
その中から選べと言われても、王子達はあからさまに嫌だと目が訴えていて、とても候補など選べなかった。
結局、アンブロシアーナはどの王子が自分の夫となるかもわからないまま、魔人の国では最も高貴で、祝福の色とされる黒のウェディングドレスを身に纏った。代々魔王が婚姻や懐妊などの祝い事を国民に知らせる時に使ってきたバルコニーに立ち、不安を隠すように笑って民衆に手を振った。
祝辞を述べる係に任命されていた貴族がようやく慌てた様子でバルコニーに姿を現すと、それまでアンブロシアーナに声を届けようと騒いでいた観衆が一斉に静まり返る。
貴族の男はアンブロシアーナに一礼してバルコニーの最前に立つと、婚約に関する契約書を掲げて開式の言葉を述べた。
大きな拍手は公爵が話し出すとすぐに止み、一つ話が終わる度に民衆は答えるように拍手を繰り返す。
「それでは、アンブロシアーナ妃殿下の伴侶となりますは、フリードリヒ殿下。ささ、どうぞ前へ」
公爵が笑顔で振り向いたのに、アンブロシアーナもつられて後ろを向く。
王子を隠すように並んでいた使用人が、屋内からバルコニーへ続く道を開けると、この日のために仕立てられた黒の礼服を完璧に着こなす艶麗な男が、優雅な足取りで姿を現した。その美青年に、ブロシアーナは思わず息をするのも忘れて見つめてしまう。
誕生祝賀会で挨拶をした王子たちも皆容姿は整っていたが、彼はその誰よりも純粋な黒髪と黒い瞳を持っていた。
魔人の中で存在する数少ない黒髪は、青や紫、緑といった、水に浮いた油のような色で光を反射して、黒というよりも玉虫色だ。しかしフリードリヒという男の髪はただ純粋な黒で、浴びた光を鮮やかな色味で反射することはない。
人間の国ではそこまで珍しいものと言うわけではないが、その場にいた魔人たちのほとんどが、高貴な黒髪を見て思わず感嘆の声を漏らしてしまう。
煌めく炎のような髪を持ってはいるが、手足も眼球も二つずつ、角も大きな耳も牙も持たず、よく目にする人間とあまり変わらない容姿を持つアンブロシアーナ。魔人の中でも比較的小さい方であるアンブロシアーナから見ると彼の身長は高い。脚だけでなくまつ毛まで長い。
流石にオーク族やオーガ族ほど長身で逞しくはないが、少なくともアンブロシアーナの身の回りの者たちと比べても、決してひ弱そうには見えず、ほどよく鍛えられた美しい身体を持っている。
「まるで夢でも見ているようだ」
低いが、穏やかにも聞こえる声に、アンブロシアーナはやっと呼吸の仕方を思い出して、大きく息を吸い込む。
夢を見ているような気分なのはアンブロシアーナの方だった。彼女は迂闊にもその高貴な黒を持つ人間の男に、一目で恋をしてしまったのだ。
スラスラと流れるような手付きで契約書にサインするフリードリヒの隣で、アンブロシアーナは必死に魔王の娘としての威厳を保とうと、とろけてしまいそうなのを堪え、眉もひそめて難しい顔をしていた。
そんなアンブロシアーナにサインを終えたフリードリヒが視線を向けて、なんとも穏やかに笑うので、恥ずかしいのと照れくさいのと嬉しいのが混ざって顔を真っ赤に染めた。
それからはフリードリヒを直視することができず、腕が痛くなるほどに民衆に手を振り続けて式は無事に幕を閉じた。
あちこちで祭りが行われ、国中が賑やかな祝福のムードに包まれる中、アンブロシアーナはまた違うムードに悩まされていた。
湯浴みを終えて部屋に戻ると、フリードリヒは既に男性用の大浴場から帰ってきており、薄いシャツのボタンを、上から三つほど開けた状態で寝台に座っていた。
「おかえりなさい、妃殿下」
アンブロシアーナに気付いたフリードリヒの優しげな微笑みと、そよ風のように爽やかな声にあわあわと返事もできずに戸惑ってしまう。
「ああ、ごめんね。僕としたことが、だらしの無い姿を見せてしまったね」
フリードリヒが少し急いだ様子でシャツのボタンを閉める。アンブロシアーナは無知な自分を気遣ってくれる彼の優しさにときめいて、思わずぴょんぴょんと飛び跳ねたくなった。
しかしなんとかそれを堪えて「あ」や「えっと」を繰り返しながら、少しずつ寝台の近くに寄っていく。
まだ決心がつかないうえに心の準備もできていないが、婚姻したらまずは夜を共にするのだと何度も教育係に言われていた。
寝台の近くに立ったまま俯いて、もじもじと自分の指と指を押し合っていると、フリードリヒが心配そうな面持ちでアンブロシアーナの顔を仰ぎ見る。
「どこか痛むのかい?」
「ち、違うの……緊張しちゃって……その……わたしまだ……あれで……」
「あれ?」
「えっと……お、男の人とあんまり、たくさん喋ったことも……なくて……」
アンブロシアーナは羞恥から、髪の毛よりも顔の方が赤いのではないかというくらい頬を真っ赤に染めていた。
その情けない気持ちと恥ずかしい気持ちで、だんだんと目に涙まで溜まってしまう。鼓動が太鼓のようにズン、ズンと全身を叩いているような気さえしていた。
「実は僕も緊張しているんだ。良かった、同じだね」
全く緊張などしているようには見えない。優しくされるとどんどん好きになってしまう。
アンブロシアーナがやっと彼の目を見つめると、瞳孔もよく見えないような黒い瞳に弱々しい自分の姿が映っていた。
「アンブロシアーナ姫、今日は眠くなるまで話をしないかい? 君のことをもっと知りたいんだ」
寝台から降りて床に片膝をつき、まるでダンスを申し込むように見上げてくるフリードリヒにアンブロシアーナは頷いた。
「わたしのことは、アンと呼んでください」
「わかった。アン、僕のことはフリードと呼んで」
ふにゃふにゃに蕩けそうになりながら、導かれるように隣に座って微笑み合う。
アンブロシアーナはフリードリヒに聞かれる事には全て答えた。好きな色や好きな食べ物、城の中では図書室のステンドグラスが好きな事、海が怖いこと、犬も猫も大好きなこと、好きな本のこと、夕焼けよりも朝焼けが好きな事……話しているうちに、いつの間にかフリードリヒの側が心地よくて眠りについてしまったことにも気付かず、夢の中でもフリードリヒとお喋りをしていた。
翌朝アンブロシアーナが目覚めると、寝台にフリードリヒはいなかった。重たい瞼を擦りながら大理石の冷たい床に足をつけると、ひんやりした感覚に徐々に頭が冴えていく。
「おはよう、アン」
すでに身支度を終えたフリードリヒがソファーで本を閉じた。
「あ……おはよう」
「ここに座って。今君のお茶を淹れるよ」
美しい所作に見蕩れているうちに、あっという間に可愛いティーカップに紅茶が注がれていた。初めて見たティーカップを見つめていると、フリードリヒもその視線に気付いて笑みを溢す。
「僕の国から持ってきたんだ。君とこうやってお茶を飲みたいと思って」
容姿も身のこなしも声も喋り方も、何から何まで、アンブロシアーナにとってフリードリヒは童話に登場する理想の王子そのものだった。
口にした紅茶はほのかに甘く、芳醇でほろ苦い。鼻を抜ける香りはローズマリーだ。
「わたしローズマリーの匂い、好き」
「これはローズマリーというんだね。本当に良い香りだ」
茶葉のようにふわりと舞い上がる心に、トクトクと鳴る胸。アンブロシアーナはフリードリヒに夢中だった。眩しい姿に目が眩んで、直視するのも難しい。
アンブロシアーナは恋に溺れて、どこまでもただ沈んでいくのだった。