05
その夜。髪の染色を免れたアンブロシアーナは、王妃に無礼な口をきいた罪で懲罰房での反省を命じられたフリードリヒに会うため、居室を抜け出した。
夜目のきかない人間ならば燭台を持ち歩くのだろうが、魔人のアンブロシアーナは窓から差し込むかすかな月の光だけで充分周りの様子がわかる。しかし以前の世界線での霞みかかった記憶を頼りに地下牢へと続く階段を降り始めると、そこには窓が無く月の光は届かなくなってしまった。
どうせこの場所にはフリードリヒしかいない。そう思うと人の目を気にするのも馬鹿らしく、体の力を抜いて抑え込んでいた魔力の枷を解いた。
発光しだした髪が一瞬ふわりと舞い上がる。やがて元の位置へ落ち着くと、手で軽く乱れた部分をさっと整えた。
――髪を美しいって褒めてくれたのも、嘘なのかな。それとも……
染められたアンブロシアーナ髪を見て、フリードリヒが激昂したことを思い出す。
あの時のアンブロシアーナは、ただでさえ外見が人間と少し違う自分が更に醜い斑色になってしまったことが気に食わずに怒鳴られたのだと思っていた。しかし今日、彼が王妃に対して言ったことが理由であるのならば、認識を改めねばならない。
――フリードはただ自分の国のために行動していて、わたしのことをどう思っているとかそういうのは関係ないのかもしれない。わたしが一人で勝手に好きになったり怒ったりしているだけ……
用途は不明だが鉄格子だけの牢が続いていた奥に、しっかりとドアがついている部屋がある。ドアには丁度大人の顔が来る辺りに、飾り格子の覗き窓が取り付けられていた。
アンブロシアーナが背をピンと伸ばし、つま先立ちで中を覗くと、本当に反省しているのだろうか、脚を組んで椅子の背もたれにだらしなく上半身を預け、読書をするフリードリヒの姿があった。
彼の言う「理想の王子様」の姿をしている時は脚を組んで座ったりなどしないが、あれが本性と知っているアンブロシアーナは今回ばかりは少しそれが可笑しい。
「フリード」
アンブロシアーナの声にビクッと肩を跳ねさせ、まるで何ごともなかったかのようにゆっくりと姿勢を正しながらこちらに顔を向けてくる。それが余計に可笑しくなってしまう。堪えきれずに声に出して笑っていると、フリードリヒはいつもの王子様の笑顔でアンブロシアーナの名を呼んだ。
「アン……こんな時間に一人で出歩いたら危ないよ」
「ねえフリード、さっきの格好」
「……あれは……そう。この本に書いてあって、試していたんだ。それよりアン、僕に何か用があって来たんだろう」
話を逸らすフリードリヒに、アンブロシアーナはまたくすりと笑う。
「うん……そうなんだけど、あの座り方は」
「これは街で暮らす人々の生活について書かれている本で、興味深いと思って真似をしてみたんだ。とにかく、本当に恥ずかしいから忘れてくれないか? 頼むよ」
「うーん……」
「そうだ、アン、暗いのに君がやたらとはっきり見えると思ったらその髪は光るんだね。まるで天使みたいだよ」
本をそっとテーブルに置き、フリードリヒがドアを挟んで正面まで歩み寄った。一生懸命背伸びをして中の様子を見ているアンとは違い、フリードリヒの身長であれば程よい高さのようだった。
「驚かないの? 髪が光るんだよ」
「綺麗だよ、とても」
「怖くない?」
「もちろん……アン、あの時、姉上の友人が怖がっているなんて言ってしまってすまない」
「本当の事だもの」
「僕はアンのことを怖いと思ったことは、一度もない。君は、僕が見てきたもの、全ての中で一番綺麗だよ」
――これも和平のための嘘なんだろうな。きっとフリードリヒはこの国のためなら何でもする人なんだ。もう数年婚姻の話がなかったら、魔人の国に自ら密偵に来るんだもの。
「アン、僕は本当に君の事が……」
――そして、彼は自分で毒を飲んで死んだの。わたしを殺し損ねて……どうしてあの時、わたしに無理矢理毒を飲ませなかったのかな。
「アンは僕の事をどう思っているんだ? 君はいつも、いらない、やりたくないとばかりで僕を避けるけど」
「ど、どうって言われても……ねえ、フリード、わたしのこと好きなふりなんてしなくていいんだよ」
「……どうして今、ここに来たんだい?」
「わたしは、あなたに謝りたくて……わたしなんかのせいでこんな目に合わせてごめんなさい。それと、助けてくれてありがとう」
「……これくらい何でもない。僕は君のためならば何でもするよ。君の理想の夫になりたいんだ」
「あとね、わたしの前でも脚組んで座っていいよ」
「いや待ってくれ、それは違うんだ。頼むから忘れてくれ」
暖かい薄暗闇に、アンブロシアーナの柔らかな笑い声が反響した。