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いい人卒業試験  作者: 山田匡徳
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ルビを振り忘れていたため訂正しました。

鈴木の言う「いい人」とは何か?      

 何言われても断れない人か、人を信じる人か、相手にとって都合のいい人か……。

 それに「いい人」を脱するための試験とは何だろう。

 このままずっと今のように谷澤たちと付き合っていたら若林のようになってしまうのか。いや、それだけは避けたい。彼らとは同じ空間にいたくない。虫唾が走る。

 だが、今の会社は少年時代の思い出の象徴を作るメーカーだ。自分も子どもを笑顔にできる菓子を作りたい。そう思い、就職面接を受けたが、配属されたのは総務部だった。本意ではないもののこの会社に携われること自体が塚原のアイデンティティであった。

 しかし、蓋を開ければなんと内部の醜いことか。

 昔、家に来たあの営業も裏では人を傷つけるか、あるいは傷つけられたのだろう。

 塚原は落胆した。こんなものを求めてたわけじゃないのに。


 鈴木から紙を渡されてからというものの塚原の頭の片隅には鈴木が残留し続け、人間観察も以前より注意して行うことにした。自分は果たして「いい人」なのか。

 これを機会に職場、ひいては社会における自分の立場を見つめ直そうとした。


 今までも気にはなっていたが、改めて見ると谷澤の態度は酷いものだ。身体には一切触れず、ひたすら言葉の暴力で攻めてくる。

 塚原もターゲットにされる日は少なくなかった。

 塚原は資料の確認を谷澤に依頼した。谷澤はじっくり見てたかと思うと獲物を捕らえるかのような目になった。

「塚原くん。あのさあ、誤字くらい気をつけようよ」

 谷澤は誤字を見つけたようだ。

「すみません」

「本当に……。文字を間違えないなんて小学生でもできるのに。もう一回義務教育からやり直す?」

 明らかに余計な発言を谷澤は嬉々としてしている。悔しさなのか呆れなのかはわからないが、反応すらできない。心の中にずっとその言葉が残り続けている。

 谷澤に心をえぐられているのは自分だけではない。同期や後輩も言葉の暴力を浴びている。

 物理的な暴力の一つでもあれば誰かが反撃してくれるだろうに。


 塚原の特異性が目立つのはむしろ谷澤が去った後だ。

 谷澤は定時で帰り、それと少し間を開けて皆帰り支度を始める。入社してしばらくは塚原も皆と同様に帰宅していた。

 しかし、仕事を引き受ける都合のいい人間だと定着すると塚原は仕事が遅い同期から残業を頼まれるようになってしまった。先輩や後輩は気を遣うのか極力残業は頼まないものの一部の同期からは遠慮が感じ取れなかった。

 塚原はまたも宮山から頼まれた。その前日は他の同期である松下(まつした)からも頼まれた。

 人に頼むばかりで自分は残る気などさらさらない。

 不快で仕方なかったが、仕事を断れば同期との距離が離れていくと思うと何も言えない自分がいた。


 塚原と一緒に残業するのはたいてい二人の後輩だった。

 この会社はホワイト経営を売りにしているためほとんどの者は定時に引き上げたが、仕事慣れ、パソコン慣れをしていない二人はいつも人より遅れていた。

 塚原は二人とは言葉を交わさず黙々と頼まれた仕事に取り組んでいた。

 後輩二人はお互いに言葉を交わさず、お世辞にも明るい雰囲気はなく「コミュ障」という言葉がピッタリだった。

 彼らは似たような人間でどちらも飲み会や会社の催しには行ったり行かなかったりと適度にうまい立ち振る舞いをしているように見えた。

 そんな彼らを塚原は嫌いではなく、一緒にいても居心地がよかった。彼らと一緒になること自体は嫌ではない。仕事は面倒だが、できないことはない。

 宮山たちにも事情がある。そう思っていたときは気持ちを抑えられていた。


 塚原が昼休憩にトイレの個室に入っていたときだった。

「おっ、お疲れさん」

 宮山の声だ。

「お疲れ様です」

 宮山とよく話す後輩の声だろう。

「最近仕事どうだ?」

「まあぼちぼちですね」

「そうか。いやあ俺は楽になったね」

「そうなんですか?」

 わずかだが、沈黙の時間ができた。

「大きい声で言うなよ。俺、毎日塚原に頼んでるんだよ」

 自分の名前だ。塚原は息を止めた。

「そういえば、塚原さん毎日残業してますね」

「それがな、俺の仕事を代わりにやらせてるんだ。おかげでパチンコ三昧だ」

 どういうことだ。育児や家事手伝いのはずでは――。

「えっ、それは……」

「絶対に周りに言うなよ。お前も塚原に頼みな。あいつ、マジでお人よしだから」

 宮山の笑い声が聞こえた。

「いや、僕は……」

 後輩の乾いた声で会話は終わった。

 後輩が去る音がしても塚原は立ち上がれなかった。こんなはずではなかった。同情すべき理由もなく、ただ利用されていたことが明白にわかった。


 仕事を引き受け、残業する自分――。

 塚原ははじめそのような自分を肯定していた。忙しい同期を思い、遅くまで仕事する熱心な社員。せめて宮山以外にはそう思われていることを願った。

 その考えが一片したのは飲み会の夜だった。

 ある日の飲み会で、残業組の後輩二人は欠席した。

 塚原は話に加わりながらちびちびと酒を飲んでいた。この日は谷澤とも席が離れ、不快な思いをせずにいられると思っていた。


「今日もみんな参加してくれてうれしいね。今日来ていないのは誰だ?」

今川(いまがわ)神田(かんだ)が来てないですね」

 塚原の周りの最年長と先輩が話していた。

「ああ、あの二人か。彼ら、いっつも残業してるよね。あれどうにかならんのかい?」

 最年長は呆れるように笑った。塚原には笑う理由がわからなかった。

「あの二人はホワイトを売り出すうちには合わないですね。あの仕事の遅さはどうにもならないですよ」

「仕事がそんなにあるわけでもないのに人より遅くちゃ困るなあ。君もそう思うだろ?塚原くん」

 塚原は身体がわずかに震えた。宮山のためとはいえ残業している自分に突きつけるような言葉だ。

「僕は……別に」

 塚原はそれしか言えなかった。何を言ってもいい方に向かうとは思えなかった。

「先輩としてさっさと仕事するように言ってくれよ」

 最年長は塚原の肩を叩いた。

 塚原は立ち上がるとトイレの個室に入った。

 息苦しい。二人は仕事が遅いだけで何も悪いことをしていないのに。

「塚原くんも残業してるんだっけ?あいつも情けないよな」

 塚原はそう言う社員を脳内に思い浮かべた。そう言われてても違和感がないのが怖かった。

 今まで「いい人」を続け、皆から嫌われないよう努めてきた。その自分が陰口の対象にされていると思うと鳥肌が立った。


 塚原は飲みの席に戻った。周囲はまだその場にいない人々の陰口で盛り上がっていた。

 会話をする気力が失せ、ひたすら枝豆をむさぼった。

 宮山の仕事を断りたいという感情はぽつぽつと強まっていった。

 

 

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