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この作品は本来続けて執筆すべきですが、労力等の問題があり分けて投稿しています。そのためサブタイトルはありませんのでよろしくお願いします。
肩がゾクゾクする。一日中座り続けて血液の流れが悪くなったのだろうか。
一時間前のことだった。自身の仕事を切り上げ背伸びする塚原秀平に彼の同期の宮山佑が声をかけた。
「悪い、塚原。今日も俺の仕事頼んでいいか?妻が育児に大変そうで」
「今日も……」
仕事から解放された金曜の喜びが一気に沈んでいった。
「嫌だよな?じゃあいいや」
宮山のにこやかな顔は一瞬で冷めた表情になった。
「あっ、いやいいよ。宮山くんも今が大変だもんな」
「本当か。悪いな。それじゃあ先に失礼する」
再び笑顔になった宮山はそそくさと職場を出た。
宮山はここ三ヶ月、当然のように塚原に仕事を託してはきっかり定時に帰るようになった。仕事の遅さは本人に原因があり、彼の残業は本来自分で請け負うべきと塚原は知っていた。
しかし、無事出産した妻のために家事を全力でしていると聞かされると残業の依頼を断り切れなかった。それでも身体は正直に疲れを伝えてくる。
宮山の分の仕事を切り上げると塚原は再度背伸びをした。一週間の疲れを癒してあげよう。
塚原は飲み屋街へ出た。街中には条例で禁止されている客引きが堂々と活動を行っている。
ネットで見つけた評判の食堂はここの狭い飲み屋街を通っていかなければたどり着けない。再度食堂の場所を確認しようとスマホに目を向けた。
「そこのお兄さん、この後飲み放題どうっすか?」
顔を上げると茶髪の若い男が紙の束を抱え、笑顔を見せていた。
「あ、いや」
固まった塚原はそれ以上の言葉が出なかった。
「うちの店、おつまみ付きの飲み放題でなんと三千円。よかったら今一緒に行きましょうよ」
男は塚原に紙を半ば強引に手渡すと店があるであろう方を指さした。
「いいじゃないですか。カウンターもありますよ」
そう言うと男は塚原の背中に手を触れ、ゆっくりと押すように歩いていった。
ダメだ。断りたいのに反応が怖い。
「お兄さん、けっこうかっこいいですね」
突然の褒め言葉に塚原は苦笑いした。ここで断って悪い雰囲気になるよりも穏便に済ませる方がいい。
「三千円ですよね。じゃあ――」
「君、こっち来て」
右を振り向くと一人のひげ面の男が塚原の手をとっていた。
「おい、お前。俺の大事な客に何してんだ」
茶髪の男は人が変わったかのように表情と声を変えた。
「とりあえず行こう」
承諾も聞かずにひげ面の男は塚原の腕を引っ張っていった。後方からは茶髪の男の罵声が響いていた。
男は塚原をコンビニチェーンの前に連れていった。
「ちょっと、何ですか」
いきなり訳のわからない男に連れられ、恐怖が拭えなかった。しかし、男に対する怒りが声を絞り出させた。
「いきなりで悪かったね。あいつは有名な客引きだ」
そう語る男の目は真剣だった。
「……と言いますと?」
「三千円というのは水と安い中国茶、薄めた酒のみの飲み放題。おつまみも枝豆や軟骨といった貧相なものばかりだ。そのくせおかわりを頼もうとすると他の客が待ってると言ってなかなか渡そうとしてこない」
「そんな……。もう少しで連れていかれるところでした」
塚原は拍子抜けして立ち尽くした。何度か他の勧誘に騙されたことがあったのにまた騙されようとしていた。
「過去に何人も騙されている。怒った客が出ようとしても怖い奴ら連れて脅してくるんだ。あいつらにとっては初めて来る客は恰好のカモだ」
先ほどまでのひげ面の男に対する怒りと恐怖はすっと消えていき、自分が客引きに連れていかれた仮の世界を描いていた。
あれだけ人懐っこそうな顔だったのに……。
「そうでしたか。助けてくれてありがとうございました」
塚原は心臓をなで下ろしながら礼を言った。
「君、いかにも断れないという感じだったな」
男の言う通りだった。断りたいと思っていたのにそれができなかった。
塚原はうなずいた。
「君、もし変わりたいと思うんだったら是非」
男は一枚の紙を渡した。その紙を渡された瞬間、塚原は心が沈んだ。
また勧誘か。こういうときにはいつも声をかけられる。
「それじゃあ」
男は飲み屋街の方へ早歩きで向かった。
食堂に行く気分も失せ、紙をポケットにしまった。コンビニで弁当を買うと逃げるように帰った。
自宅に戻り、ポケットの紙を取り出した。すぐにでも捨てようとしたが、一片の興味もないわけではなかった。
どうせ宗教か中身のない講演の宣伝かもしれないが、見るだけ見てみよう。
くしゃくしゃの紙を広げた。
「いい人卒業試験?」
男が渡した紙には次のように書かれていた。
「職場やデートで都合よく利用されていませんか?勧誘等で騙された経験はありませんか?やたら自分ばかり狙われている……そう思ったことはありませんか?世の中のありとあらゆる人間があなたを騙したり都合よく利用しようとしています。それはあなたがいい人だからかもしれません。変に気を遣って生きる人生やめましょう。堂々と言える人間に私と一緒になりましょう。
・注意 諸経費がかかるため、試験には一万円かかります。
詳しい説明は下記の電話番号より いい人卒業試験 鈴木志郎」
いい人卒業試験――聞いたことのない言葉に首をかしげた。この人は何を考えているのだろう。怪しい団体だとしたらどうしよう。そうでなくてもくだらないことを話して金を搾取されるかもしれない。
塚原は先ほどの客引きを思い出した。
紙を机に置くとスマホで飲み屋街の悪評を調べた。すると見事に鈴木の言っていた通りの評判がいくつも上がっていた。中には鈴木の言っていなかった悪評も載っていた。レビューの多さからしてただの偏見などではないだろう。
鈴木は客引きから助けてくれた。だが、時間と金を使ってまで彼に会いに行く価値はあるのだろうか。
別に仕事なんて引き受ければ社内は穏便に済むし、客引きのいない安全な街を通ればいい。何より鈴木が何を考えているかわからない。
塚原は紙を折りたたみ、捨てようとしたところで立ち止まった。
鈴木の元へ行くつもりはない。ただ今日あったことを忘れないために引き出しに入れておこう。
紙を引き出しに入れるとコンビニ弁当を温めた。




