4 通り魔
その日の学食は、藤原と二人だった。
二人そろって養殖イワシの煮付けと、ふろふき大根に御飯と味噌汁で食べていた。
「…月島、おまえなんかやつれてねえ?」
「…そうか?」
「…なんか美貌に翳りがあるぜ、今日は。」
冴は一瞬、自分の睫を全部抜きたい衝動にかられた。俺の顔なんかどうでもいい、と思った。
「…いま、イラッとしたろ。」
「…少しな。…妹元気か。」
「ああ、うちの親の欲望の末の共同作品な。」
「…お前だってそうだろ。」
「まあな。でもうちの親なんかもう年なんだぜ。いい加減にしろってーの。」
「年でも元気で何よりじゃないか。」
「なに高校生の息子と一つ屋根の下で夫婦の営みの結果みせつけてんだよ。」
「お前がやりたいんだ、親父だってやりたいだろう。」
「枯れろつーのいい加減。」
冴はそれを聞いて笑った。冴も昔、そういうふうに、自分の親に虫酸がはしった時代があった。しかも、けっこう長かったし重症だった。なにしろ郷里では知らぬもののない有名な変態親父だったので。…母を愛するあまり、殺しかけた父だった。冴は、そういう父が理解できてしまうような部分が自分の中にあって、そのことも堪え難く、そして恐ろしかった。
話は簡単で、ネットで知合った美しいM女さんに金を払って2~3回てほどきしてもらったら、すっきりさっぱりなんでもなくなった。要するに、冴の場合は、親父が許せないというより、自分の行く末がこわかっただけなのだ。…今となってはなんとなく、懐かしい気がした。
「…ふふふ、うちの親父も相当元気だったぞ。」
「…あれ、おまえんち親父は田舎にいんだっけ?」
「いや、今年の春に亡くなった。俺は生命保険成り金だ。」
藤原はしまった、という顔になった。
「…すまん月島。俺、無神経か?…遠慮なくののしれ。」
「…なに、親父も高校生の話題に登場できて嬉しかろう。あのへんで聞いてるかもしれんぞ。」
冴は時計の上あたりを適当に指して笑った。そうしながら、いや、来てるとしても多分、俺じゃなく陽さんを見に行ってるな、と思った。
藤原のうちは両親とも健在で、もう一人産む程度には裕福な家庭なのだった。
藤原はバツわるそうに話題を変えた。
「…そういや、きいたぜ、立川の話。てーか、俺は大弓の話もはじめてきいたけどな。お前、去年いなかったろ。きいたか?」
…つまり、誰も、ため息がでるようなエリアの下層階級の悲しい話を、藤原の耳には入れたくなかったのだ、高校生で親が破産して娘が売られたというような話を…。そういえば須藤など、藤原がいると無難な話しかしない。
「ああ、須藤に聞いたよ。」
「…まあ…いろいろあったんだろうけど、でもどうよ、占いって、失せもの・金運・男女仲じゃねーの?いちいち目くじらたてて商売になるのかね。」
藤原はそう言って、奥のほうに今日も群れている一群を見遣った。冴は肩を竦めた。
「…商売じゃないからな。…知合いにきいたら、ちゃんと見てもらいたいなら金を払う相手じゃなきゃ駄目だとさ。」
「…知り合いって未亡人か?」
「…わかったわかった、未亡人でいい、未亡人で。」
否定するのに疲れて冴が肯定すると、藤原は楽しそうに笑った。
「…昨日、ベッドできいたんだな。」
「…お前は本当に想像力豊かだな。」
「…俺の頭の中では、お前と未亡人は黒いダブルベッドに寝ていて、未亡人は猫を飼っている。そいつに餌をやるのもお前の仕事で、猫は最近餌をもらうものだから、未亡人よりお前になついている。ベッドシーンがおわるとニャーンの登場だ。尻尾をたてて、未亡人をふんづけて、まっすぐお前のところに行くものだから、最近は未亡人につまみだされる。」
「…それから?」
「…未亡人はショートヘアの美人だ。指が長くて、色が白い。」
「…なるほど。」
…こいつ、見えてるぞ、と冴は思った。
「…おまえがマニキュアを塗ってやるんだ。」
…それはない。冴は笑った。
「…ちょっとエロいな。」
「わかるか?エロいだろ!」
…冴は藤原が好きだった。藤原は明るくて、健康的で、いつも調子がよかった。
食事を終えて冴が茶を飲みはじめると、藤原は立ち上がった。いちいちお互いの用事にべたべたつきあう習慣もないので、冴はそのまま何の気なしに見送った。すると藤原は、例の人ごみのほうへ近付いていくではないか。
「!」
冴はとめようと思ったが、ここから声をかけたら食堂中に響いてしまう。立ち上がって早足で近付いた。だいぶ向う寄りになってから追いついた。冴は小さな声で言った。
「…藤原、よせ。」
「…大丈夫だって、俺は立川ほどお人好しじゃねーから。」
「かまうな。そっとしておいてやれ。」
「…放せよ、月島。」
藤原は腕をつかんだ冴の手をそっと取ると、丁寧にはずし、くるっと向こうを向いて、占い師に近付いていった。
「よー、占い師さん、当たるんだって?俺のこと占ってよ!」
大弓が顔をあげた。…間違いない、ショッピングセンターにいた、あの制服の女子だった。
「…いいよ。座って。」
…ちらっ、と冴を見た。
…ざわっと嫌な感じがしたので、冴は立ち位置をかえてから足にからみついてきたものをさりげなくほどいた。
「何を占うの?」
「…恋愛運。…俺、片思いの相手がいるんだよね。そいつとどうなるか占ってよ。」
「いいよ。」
大弓はテーブルの上に広げたきれいな布のうえでカードをかき混ぜ始めた。…冴はこのカードがかき混ぜられるときの感じが大嫌いだ。遠目ながら目を背けた。
やがて大弓はふせてカードを10枚ほど並べ、それから一枚ずつめくり始めた。
「…その人、人気のある人みたい。」
「そうだな。」
「…今のところうまくいってる。」
「まあ、そうかもな。」
「…その人もあなたのこと好き。」
人ごみからヒュ-、とはやし声が上がった。藤原は知合いの連中に幸せもの-などと小突かれている。
「…でも恋はうまくいかない。」
「どうして。」
「…その人には恋人がいるみたい。それも、いじわるで嫉妬深くてヒステリーな人物。このカードがここにあるから、多分年上。機嫌のワルイ女みたいな男ってとこ。…横取りするには犠牲が大きすぎだと思う。…今のまま友達でいることね。…おわり。」
しーん、とした。
「…おまえ、このあいだ、立川のこと死ぬって脅したそうだな。」
冴は、言うな藤原、と思った。
大弓は言った。
「死ぬとはいってないわ。…死ねっていったのよ。食堂やら図書館やらで下品な話題でもりあがってる男ども大嫌いなの。…あいつ死ぬわよ。あたしがのろったら、かならずそのとおりになるんだから。…あんたたちの中であいつが一番守りが弱いんだからね。」
…こいつは、と冴は思った。たしかに5人のなかで、一番危ないのは立川だった。須藤や根津などは突き飛ばしてもなかなか怪我はしない。ある意味慣れていて、受け身がしっかりしているのだ。そして藤原には輝くなにかが守りについている。…だが…。
「おまえさ、弱点さらけだして正直に生きてる人間虐めて、恥ずかしくないのかよ。」
「…別に。だって弱肉強食がエリアの掟だもの。弱点みせるほうが悪いのよ。淘汰してくれっていってるのと同じ。」
「そんなこときいてない。お前は平気なのかって聞いてるんだ。」
「正義の味方のつもり?正義なんてエリアにはないわよ。」
「お前の言葉はお前の心に恥じるところははないのか、と聞いてるんだ。」
「ないわよ。ほんとのことだもの。なんなら試しにあんた片思いの人に告ってみたら。…玉砕の上、人生崩壊よ。その相手はあんたには想像もつかない世界で、想像もつかない恋をしているのよ。ほら。」
大弓は一枚の禍々しい絵柄のカードを藤原につきつけた。そして、挑戦的に遠くにいた冴を一瞥した。
「…ごまかすな。」
「ごまかしてなんかいないわ。」
「占い師っていうのは、夜道の街灯みたいなものだろ。…夜道の通り魔じゃないだろ。お前は通り魔だ。」
大弓はわざと大笑いした。
「おめでたいわね! 人生はなんでも幸せづくめじゃないのよ! 夜道には通り魔もいるってわけ。」
「自分が人生で通り魔にあったから、その腹いせに自分も通り魔になるのか。」
やめろ、と冴は思った。
大弓はカードを片付けはじめた。
「…ちがうわ。通り魔もいるんだってことを、あんたたちにおしえてやってるだけよ。」
「そのために通り魔になって、か。」
「…あたしは通り魔じゃないわ。」
「通り魔だろ。俺の友達を呪い殺す通り魔だろ。」
「…」大弓は禍々しい目で藤原をにらんだ。「…お前も死ね。」
冴はふと立ち位置をずらした。
…なにかが掠めて通り過ぎた。
…予礼が鳴った。
+++
「…藤原、かっこよかったぞ。…でももうやめろ。あんな女は放っておくんだ。そっとしておいてやれ。お前の言うとおり、あいつは通り魔の被害者で、そのショックで自分が通り魔になりそうなんだ。…刺されたら痛いぞ。」
「…」
冴の言葉に藤原は少し沈黙した。
「…月島さ、…俺のやってることって、馬鹿みたいだって思うか?」
「…馬鹿だとは言ってない。ただ、おまえがそこまでしてやる必要はないと思う。…世の中にあの類いは尽きることがない。きりがないぞ。」
冴は、藤原をいたわるように撫でてやりたいと思った。…勿論そんなことはできない。
藤原はまるで冴に心の中で撫でられたのがわかったかのように、ちょっと不自然に瞬きをした。
「…俺は、なんだか、…おれたちが、いろんなものを見捨てているようでいやなんだ。」
「…」
「…弱肉強食とか、正直に生きられないって…当り前でいいのか?…って、そう思っちまうんだよ。…どうにもならないのかって。」
「…藤原、お前は立派な人間だ。…その立派な意思を、あんな下等な女の矯正ではなく、もっと別のことに使え。…他人を呪う人間なぞ、クズだ。」
…というより、正直、大弓が藤原の手に負えるとは思えなかった。
藤原は訴えるような目をして冴を見た。
…わかっている、お前の気持ちはわかる、と冴は思った。
だが個人にはどうしても力量が…どうしようもなく限界としてあって…多分、藤原は大弓に、まける。
藤原に、そんな思いをしてほしくなかった。
藤原のいっていることはちゃんと御立派なことなのだ。だから、あんな女で挫折せずに、もっとましな場所で…せめてもう少し可能性のある場所で、その力を発揮してほしいのだ。
「…月島、大弓を見捨てるのか。…あの子は親が破産して、売られた子なんだぞ。あんな絶望の中でこれから生きて行くのか?世界には日溜まりもあるのに?そうして周囲に悪意をふりまきつづけるのか。…あいつは一度だれかにこてんぱんにまかされなきゃいけない。今のうちに、だ。」
「…藤原、同じ目に合っても、屈しない人間もいる。そういう相手と付き合え。」
「強い人間なんかほっといてもいいんだ。」
「…下手に情けをかけたら、責任をとるはめになるぞ。あんな女をカノジョに引き受けたいのか?藤原くん抱いてって言われるぞ。」
藤原はちょっと呆れた。
「…お前その考え方、変だぞ。…てゆーか、いや、そうか、お前の場合は…もしかして万事そうなのか…。おちおち正しいことも言えないんだな…。」
藤原は冴を気の毒そうに見た。
…冴は「しまった」と思い、修正した。
「…日溜まりもあるだろう。だがお前の知らない闇もあるぞ。」
「それを恐れて進むのをやめろっていうのか。…俺を意気地なしにするな。」
藤原は冴の胸をトンとついて退け、立ち去った。
+++
「あらまあまあ、すっかりまっかっかね。」
学校生協で一目みるなり、ユウは冴につかつか歩み寄って なにかをぷつぷつとむしり取った。…もう一方の手にはノート用のチップを持っている。
「…チップどこにあった?」
「あっちの奥。…冴、かまうなっていったでしょ?」
「俺じゃない。友人が。…とめたんだけどな。」
ふーむ、とユウは少し目を細めた。
「…その子のターゲットははじめからあんたよ。…あんたなら自分をすくってくれる手を持ってると直観してるの。…このままだとどんどん周囲を落とされるわ。…お守りでも書いてあげようか。」
「…手後れだな、多分。」
「そんなことないわ。…ああ、そうだ。いま、あんたの親父が得意だったやつ、一つだけ持ってるわよ。コレ、今日落とされた子に持たせなさい。あんたが持っててもいいけど、そっちの友達のほうが重症だから。もうがんじがらめ。あんたとかかわったせいなんだからね。」
「…」
冴は大人しくうけとった。
「…いい、冴、救ってやろうなんて思っちゃ駄目よ。小手先でできることじゃないんだから。共倒れするからね。人間一人の重みは、途方もなく重いわよ。…今のあんたの人生の課題は、関わる相手とかかわり合いにならない相手をきっちりと分けること。あんたは『てきとうにやる』ってことができないタイプなんだからね。ドライに分けていかないと、救済を求める大変な本数の手にむしりつくされるわ。」
「…それはわかってる。」
「…ま、健闘を祈るわ、少年。ヤバくなったら早めにいらっしゃい。」
ユウは冴の制服のネクタイをイタズラにひっぱりだして笑うと、レジに並んだ。
+++
「…藤原の話、きいたよ。なんか食堂で俺の仇をとってくれたとかって。」
「…いや、恋占いの結果が悪くてキレただけだろう。お前はダシにつかわれただけだ。」
このうえ立川に参戦されても困るので、冴はそう言った。
「あーあー、それも聞いたぜ。あの藤原がなあ。悲恋なんてなあ。あいつんち金もあるしさ、別に不細工でもないし、並以上だろ…なんか幸せに生きるものだとばかり。」
冴はふと、そっちにいって価値観崩壊したほうが、大弓に翻弄されるよりは藤原も本望なのではないかと思い、立川に訊ねた。
「…藤原の片思いの女は誰だ。」
「…しらね。」
「…友達の中にいる。年上の男がいる女だ。多分ちょっと変態なカレシかもしれん。」
「…あいつ友達いっぱいいっからな。だいたい、女にカレがいるかどうかなんて鈍い俺にはわかんねーよ。…しってどおすんだよ。」
「価値観が崩壊するのは別にわるいことじゃない。そんなことくらいで人生が崩壊してたまるか。」
「意味わかんねーし。」
「藤原にあたってくだけさせたらどうかと思って。」
「…ともだちのままなら上手くいくんだろ。そっとしといてやれよ。別に砕かなくていいじゃん。」
立川はまったくお前ってやつはよ…という顔で、迷惑そうに頭をかいた。
「…そんなことより、大弓はさ、俺達のことが嫌いなんだろ?…おまえも呪われねーよーに気をつけろよ。」
「ああ、俺は…そういうのは大丈夫なんだ。」
「?また意味わかんねーし。」
「…呪いはかかるやつしかかからん。俺はかからない奴。」
「余計わかんねーよ。…まあ、お前のその顔なら、呪いくらい跳ね返しそうだとは思う。」
「…顔は関係ない。」
+++
休み時間にトイレで藤原を捕まえた。制服の上着の前を開かせて、裏にユウからもらったお守りを安全ピンでつけてやった。
「…なんだよこれ。」
「…呪いよけだ。俺の田舎で流行ってる。」
冴は嘘をついた。流行ってるわけない。U市はたしかに田舎だが、ドームのかかったいまどきの都市だ。
藤原は冴が上着を整えてやるまで、お行儀のよい少年のようにじっとしていた。
「…いいぞ。」
「…サンキュ。」
「…あんなことをいわれれば、いい気はしないからな。」
「…月島、俺にも厄払いしてくれよ、立川にやってやってたじゃん。」
「俺の気休めよりそのお守りのほうがきく。」
「気休めなのかよ。」
「勿論だ。」
藤原はやれやれといった顔で笑った。
「そうそう、昨日は未亡人はどうだった、月島。激しかったか?」
「…お前よく飽きないな、毎日毎日…」
冴が呆れて言うと、藤原は嬉しそうに言った。
「お前のつくった飯、うまそうに食ってたか?」
「…未亡人じゃないが、家主さんは食ってたよ。うまそうでもなかったが、ふつうに食ってた。」
「…豪勢な料理人だぜ、まったく。」
「…俺はふつうの飯しかつくれないぞ。フランス料理は無理だ。せいぜいイタリア料理、それもパスタ類が限度だ。」
「料理が豪勢なんじゃなくて、料理人が豪勢なんだよ。」
藤原はそう言って、冴の肩をぱんぱんと叩いた。
…トイレの外に出ると、何故か何人かがたまっていた。
「…なにたまってんだよ。」
藤原が聞くと、
「いや、邪魔かと思って…」
と一人が言った。
藤原は「べつにスパイの密談じゃねーよ」と吹いていたが、冴は憮然とした。