65.ジャンの気持ちに従うわ
「イヴリーン、あなたは」
冷ややかなアリシアの声に、イヴリーンは息を止めて涙を拭った。
「馬鹿なことをしたと……オルト軍学校の宿舎でジャンに拒絶された時、そこで初めてかけがえのない大切なものを失ってしまったと、ようやく気付いたの。そこからは地獄のような日々だったわ……もう二度とあなたに会えないのかと……」
イヴリーンはその時から、一日とてジャンを想わない日はなかったであろう。そんなことが、その表情から伺える。
「だから……どんな理由かわからないけれど、ジャンが私たちに会ってくれて嬉しいの。大きくなったジャンを……この目で見られるなんて……っ」
泣くまいと口元を押さえて嗚咽をこらえているイヴリーンを、ジャンはちらりと流し見た。そしてそのまま視線を逸らすのかと思いきや、ジャンはそんな母親の姿を見たまま固まってしまっている。
「意外?」
アリシアは聞いた。ジャンは、自分の母親がよもやこんな発言をするとは思っていなかったのだろう。
ジャンは少し口を開き、しかしなにを言おうか考えあぐねたあげく、口を閉じた。そしてわずかにコクッと頷きを見せる。
そんなジャンを見て、アリシアは微かに笑った。素直なジャンがかわいく、愛おしかった。
「まだ許せない気持ちはあるでしょう。でも、今から少しずつでもやり直せないかしら? あなたのご両親は、こんなにもあなたを想っているわ。もし嫌だと言うなら、今すぐここを去りましょう。私はジャンの気持ちに従うわ」
ジャンを覗き込むように言うと、ジャンは困ったように眉を下げて口元を引きつらせた。そして「極端なんだよ、あなたは」と苦笑いし、顔をすっと自身の両親に向ける。
「ここには報告に来たんだ。………聞いて」
なにを言われるのかと、ジェラルドとイヴリーンは身を硬直させた。それをジョルジュ夫妻が固唾を飲んで見守っている。
そんな彼らにジャンはさらりと言ってのけた。
「俺、結婚するんだ。ここにいるアリシアと」
予想外の言葉を言われたであろうジャンの家族は大きく目を見張り、互いに視線を交わした。
「け、っこん……?」
「あ、アリシア様と?」
「やるなぁ、兄貴! おめでとう!!」
いち早く祝いの言葉を言ったジョルジュに対し、ジャンは少しニヤリと笑った。
「結婚……。そう……そう……! アリシア様のようなお方と………!」
「私らに報告に来てくれたのか………ありがとう、ジャン。心から祝福するよ」
ずっと涙を見せずにいたジェラルドが、そう言った瞬間ポロリと雫を零した。その透明な球体が床で弾けて形をなくすのを見て、ジャンの唇が自然と動いていく。
「……父さん」
全員がハッとし、ジャンの顔を凝視した。ジャンは自身の発言に驚いたように狼狽え、居心地悪そうに視線をアリシアによこした。アリシアはそんな彼に微笑んでみせる。そして、背中を押した。
「ほら、もう一人」
背中をグッと強く押してあげると、ジャンは己の意思とは関係なく立ってしまったようだ。それに続いてアリシアが起立し、全員がつられるようにして立ち上がった。
「ジャン……」
母親が期待の眼差しを向け、ジャンは困ったように視線を逸らす。
「ほら、ジャン!」
「……言いにくい」
「今言わないと、もうこんな機会は巡ってこないわよ」
すっぱりと突き放すように言うと、ジャンは困惑顔で眉をひそめた。するとイヴリーンが慌てて止めに入る。
「い、いいんです! アリシア様! ……私に母さんなんて呼ばれる資格はないんですから……いいんです、こうやってジャンが結婚の報告に来てくれただけで……幸せそうなジャンの顔を見られただけで……!」
イヴリーンは涙を瞳いっぱいに溜めながらも、嬉しそうにそう言った。そう、とても幸せそうに。
ジャンと再会でき、そしてその息子が愛する者と結婚することを知り、本当に嬉しそうに。
「……母さん」
ジャンの言葉は、とても自然だった。
彼は一体何年間、その言葉を封印していたのだろうか。
しかしその唇から出てきたその言葉は、とても優しい響きを持ち、そして馴染んでいた。
イヴリーンは我慢していた涙を一挙に雪崩れさせ、その顔までもが崩れていく。
「ジャン、ありがとう……ごめんね……おめでとう……」
感謝と、謝罪と、祝福と。
簡単で、しかし重い言葉を受けたジャンの顔も、少しだけ崩れた。
その言葉でイヴリーンがどれだけ反省しているかを知り、そして心から喜んでくれているのかを知ったのだ。
ジャンは込み上げるものを必死に抑えつけようとしている。
「結婚式、呼ぶでしょう? ご両親」
そう言ってジャンを目だけで見上げると、ジャンは少しした後「うん」と小声で呟いた。その目にうっすらと涙を讃え、笑みを零しながら。
アリシアとジャンがジョルジュの家を出ると、もう夜も更けていた。月が高く上がり、美しい星々が瞬きを見せている。
ジョルジュの家で、ジャンは両親と和解した。近いうちにジェラルド宅へ遊びに行くことも約束した。二人で住む家を探しているというと、大張り切りで家を探す役を買って出てくれた。
ジャンと両親の間にあった亀裂が、みるみるうちに修復されていく。アリシアにはそう見えた。長く会っていないというから少し心配ではあったが、やはり来させて正解だったようだ。
アリシアは、ジャンの隣を歩ながら気分よく鼻歌を歌った。闊歩する周りの家々には、優しい明かりが灯されている。
その明かりが地面を照らし、アリシアたちの行く道を誘ってくれているかのように。
「ふんふんふふ~ん。ふふふふ~~ん」
「上機嫌だね、アリシア」
「そりゃそうよ! こんなに気分のいい日はないわ! 最高よ!」
そういうアリシアの腕を、ジャンはグッと掴んできた。アリシアの鼻歌は終わりを告げ、真っ直ぐに瞳を覗いてくるジャンを見つめる。
「その感想はまだ早いよ。こっちだ」
力強く手を引っ張られるままについて行くと、その先には。
「ここって……」
「予約しておいた。……いいだろ」
一級のホテルの前で、いくらか断定的に問われる。断る理由など、どこにもなかった。
ほんの少し雷神の顔が頭をよぎったが、それも一瞬だ。
髪を掻き上げたその奥で妖しげに光る深い緑色の瞳に、アリシアは初めて落ちた。
「ええ、いいわ」
男らしく答えられたジャンは、少しだけ苦笑いを見せ。
「行こう」
アリシアの手を取ったまま、そのホテルに入っていった。




