51.嘘よっ!!
「ロク……ロウ……」
「……筆頭」
写真のようなその雷神の絵を見た瞬間、胸に強い痛みが走る。そして次の瞬間、目からは勝手に涙が溢れていた。
まさかこんなところで、また雷神の顔を見られるとは思っていなかった。喜びと切なさで、アリシアの胸がいっぱいになる。
「アリシア様!? どうしたんですか!?」
ミダの慌て声に、アリシアは首を横に振った。
「いえ、あまりに素晴らしくて……感動しちゃったのよ」
「え、マジですか!? えへへー」
アリシアは涙を止めようと、手の甲で拭い取った。しかし次から次へと涙が溢れ出して、止まりそうにはない。
絵の中の雷神はほんの少し笑っていて、こちらのアリシアを見るように目を流している。若いままの彼は、アリシアが愛した雷神そのものだった。
雷神と過ごした日々が、絵を通じて身体中を駆け巡る。あの幸せの瞬間瞬間を思い出し、体が痺れるように震えた。
「筆頭……欲しいなら買ってあげるよ」
囁くように言われた言葉に、ピクリと体が反応する。
欲しい。欲しい。欲しい。
体の細胞ひとつひとつが、そう叫んでいる。
この絵があれば、毎日毎日雷神の顔を見ることができる。
毎日毎日、雷神に会える。
しかし。
アリシアははらはらと涙を流しながら、ジャンを見上げた。ジャンは伏し目になりながらも、優しく穏やかな顔をしていた。そんなジャンを見て、アリシアはさらに涙が込み上げる。
ここで甘えてはだめだ、と直感的に悟った。
ジャンは耐えてくれている。いつも、いつでも、アリシアの負担にならないようにと。
彼は嫉妬していないのか? 違う。いつも負け戦を強いられ、悔しい思いをしながらも、それを露骨に表に出すことなどしない。
アリシアはようやくわかった。ジャンが今までどんな気持ちでいたのかが。
ジャンとセリカが寄り添って話していた時、アリシアは怒ることも笑うこともできずに、ただじっと耐えていた。ジャンも同じだ。彼はそんな思いをいつも抱えていたのだ。恐らくは十五歳の頃から十八年間、ずっと。
長い、長すぎるほどの時を、ただひたすら耐えてくれていたのだ。
「買うよ。ミダ、いくら……」
そう言って財布を取り出そうとするジャンを、アリシアは止めた。急に腕を強く掴まれたジャンは、驚いたようにアリシアを見る。
「筆頭……?」
「いらないわ、ジャン……この絵は……」
ジャンはなにも言わず、眉を顰めながらアリシアの瞳を覗く。アリシアはジャンを不安にさせるまいと、懸命に微笑んでみせる。……涙を流しながら。
もうジャンを悲しませたくない。いつかは彼を受け入れるつもりでいるのだから、悲しませる必要などない。
それ以上溢れぬように、アリシアはぐっと涙を飲み込んだ。
「やっぱ美男美女は絵になるねぇ! あ、そのままそのまま! 動かないで!!」
ふと見ると、ミダは一心不乱にスケッチしていた。あまりにその姿が真剣なので、アリシアとジャンはそのまま言われる通りに固まって顔を見合わせる。
しばらくそのまま。ミダにそう言い続けられ、二人は見つめ合ったまま時を過ごす。互いになにかを言うでもなかった。ただこうしてジャンを見ていると、その瞳が切なくていじらしくて、それでいて愛おしくて。自分に向けられる愛情を、一身に感じ取ることができる。ずっと動かずにいることも、まったく苦痛ではない。
それは恐らく、ジャンも同じだろう。きっと、今アリシアがジャンに対して向けている感情を、ジャンは受け取ってくれているに違いなかった。それでもおそらくは、どこか不安の種を抱えながら。
「よし、もういいよ! これ完成したら買ってくれないか? あたし、着色は遅いんだけどさ」
「商売上手だな。見せてよ」
「まだダメー! 出来上がってからのお楽しみってね!」
そう言ってミダは、キャンバスをさっさと片付けてしまった。仕上がった暁には必ず買うことを約束し、アリシアとジャンはその場を離れる。最後にチラリと雷神の絵を盗み見、アリシアは断腸の思いで歩を進めた。
「……筆頭」
しばらくしてジャンが立ち止まり、アリシアも数歩進んで足を止める。そして彼を振り返らずに問いかけた。
「……なに?」
「やっぱりあの絵、買おう」
背中からそんな提案をされ、アリシアはぶんぶんと首を横に振る。
「何度も言わせないで。いらないのよ」
「筆頭……そんな顔をするくらいなら、買った方がいい」
アリシアは、ゆっくりとジャンに向いた。グッと唇を噛み締めて、耐えて耐えて、それは酷い顔をしているのだろう。
「じゃあ、買うわ……」
そう言うと、ジャンは当然のように首肯した。
「わかった。買ってくるから待ってて」
すぐに踵を返すジャンに、アリシアはありったけの声で叫ぶ。
「嘘よっ!!」
ジャンの動きはピタリと止まり、しかし振り返ることはしない。そんなジャンに、アリシアは二歩三歩と近付いた。
「こっちを向いて、ジャン」
そう言っても動こうとしないジャンに、アリシアは強く促す。
「こっちを向きなさい! ジャン!!」
そうしてゆっくりと振り向いたジャンの端正な顔は、ほんの少し歪んでいる。眉間に皺を寄せ、悲しげな瞳をたたえて。
アリシアはそんなジャンの腕を取って、大きく揺さぶった。
「どうしてそんな顔をしているのに、絵を買おうだなんて言うの? 本当は嫌なんでしょう? まったく傷ついていないフリをして、ロクロウの絵を渡してくれるつもりだったんでしょう!!」
そう問い詰めると、ジャンはその顔にそっと笑みを上乗せする。
「……いいんだよ。あなたが、それで笑ってくれるなら」
そんなジャンの悲しい笑顔を見せられ、アリシアはまた涙が溢れてきた。
「私は……あなたに何度、そんな顔をさせてしまっていたのかしらね……」
「筆頭……」
恐らく、数え切れないくらいの回数。
アリシアが雷神を思い出すたび。
雷神の話をするたび。
娘に雷神の影を見るたび。
ジャンは、ずっと苦しんでいたのだ。ジャンを、苦しませていたのだ。他ならぬ、アリシア自身が。
「あの絵は本当にいいのよ……もうあなたにそんな顔をさせたくないの」
「俺も、あなたにそんな顔をさせたくない。諦め切れないんだろ? あの絵も、ロクロウも」
「……っ」
ここまで言っておいて、雷神を諦めたと言えない自分が腹立たしい。この態度がジャンを傷付けるだけだとわかっているのに。
情けないことに、言葉が出てこなかった。
ジャンがアリシアの笑顔を見たいと言ってくれたように、アリシアだってジャンの笑顔が見たい。
しかし彼が笑顔を見せてくれるような言葉を、アリシアはまだ言えなかった。
「ごめんなさい、ジャン……今日はもう帰るわ……私の馬をお願い」
「うん……わかった」
アリシアはそれだけ言うと、逃げるように王宮に走って帰った。
苦しくて息ができないほどの、全速力で。今の自分の顔を、誰にも見られないように。
そして自室に滑り込むように入り、ぜぇぜぇと肩で息をする。
(またジャンを傷付けちゃったわ……)
傷付けたくないと思っているのに。彼を受け入れなければいけないとわかっているのに。そしてアリシアも、それを望んでいるはずなのに。
そう思うと同時に出てくるのが、いつも雷神の存在だった。
「ロクロウ……ロクロウ……!!」
彼は今どうしているのだろうか。
雷神がこの地を去って、もう二十二年が経とうとしている。いつかこの地に帰ってくるのだろうか。それともそんな気はないのだろうか。
会いたかった。待ちたかった。もう一度、雷神と同じ時を過ごしたかった。
でもそうすることで、悲しむ人物がいるとアリシアは理解した。
これ以上、ジャンを苦しませてはいけないと。
自分のせいで、あんな悲しい顔をさせたくはない、と。
(私は、ロクロウを忘れなきゃいけないんだわ……)
雷神を忘れる。キッパリと。
そう考えると、アリシアの目から大粒の涙が溢れる。
初めて愛した男を。初めて自分を受け入れてくれた男を。そして今でもずっと心の中にいる男を。
もう、諦めなければいけない段階にきている。
「ふ……うううっ、ロクロウ……!!」
アリシアは叫ぶ。その心の内を、誰に言うでもなく。でも、誰かに知っていてもらいたくて。
「会いたかった……あなたに、もう一度……っ」
漏れ出る心の叫びを嗚咽に変え、アリシアはその場で天を仰ぐように涙を流し続けた。