42.望んではないでしょう!?
自室に入るとホールでの緊張が解き放たれて、どっと疲れが出てきた。また別の緊張が襲っていたが。
アリシアはミルクティーを入れるため、簡易キッチンに向かおうとする。しかし。
「アリシア」
背後から伸びてきた手が、アリシアの肩と腰に優しく絡められた。
「……ッ、ジャン……」
ジャンはなにも言わずに、ただアリシアを抱き締め続けている。その手が徐々に強く絡みつき、アリシアの心臓はバクンバクンと耳のそばで鳴り響く。
「ちょっと、待って……ミルクティーは!?」
「いらない。そんなの、この部屋に来るための口実だよ」
「待ちなさい! まだ私はなにも言ってないでしょう!」
「言われた後だと、なにもできなくなるかもしれない」
ジャンの手が移動するのを察知して、アリシアは強引にその拘束から抜け出す。腕を弾かれたジャンは、くるりと対峙したアリシアを見て、苦笑いを浮かべた。
「強すぎるよ、あなたは」
「鍛えてあるもの」
「知ってる」
そう言われたアリシアは息を整え、にっこりと笑った。
「とにかくミルクティーを淹れてあげるから。そこに座ってなさい」
「そうするよ。収まり悪くなったから」
「なんの話?」
「子ども一人産んでおいて、そのセリフはないだろ」
ジャンが目を伏しながら椅子にもたれかかる。その言葉の意味を考え、ハッと気付いたアリシアはジャンから視線を逸らした。
「ジャン……」
「なに?」
「いつから、なの?」
アリシアは不思議だった。ジャンがいつから自分をそういう目で見ていたのか、まったくわからなかったのだ。アリシアはジャンが六歳の時からずっと知っている。弟のような存在で、ジャンもまた姉のような存在だと思ってくれていただろう。それがなぜ、こんな思いにまで発展したのか。
「十五の時だったな。オルト軍学校にいた頃だ」
「そんなに昔から? どうして、いきなり?」
アリシアはカップを手に取りながら、ジャンの話に耳を傾ける。
「俺も色々経験した後だったんだよ。その年、アリシアに会いに行った時に唐突に思ったんだ。『あ、抱ける』って」
ジャンは十五歳ですでにアリシアを性の対象として見ていたのだ。しかしそれは性に目覚めたばかりの少年にとって、不思議なことではないかもしれない。
「でもそれ、恋とは別の話よね」
「あなたを女として意識しだしたのは、確実にそこだよ。その直後だったな。マックスに目から怪光線出てるって指摘されたのは」
アリシアが心の中でエロビームと呼んでいるものだ。そのエロビームがずっと自分に向けられていたものと知って、アリシアはなにも言えなくなってしまった。
「確かに恋慕し始めたのはもっと後かもしれないけど、今問題なのはそこじゃない」
アリシアは淹れ終わったミルクティーを、ジャンの前にそっと差し出す。しかし下げようとする手を、ジャンに握られてしまった。
「ジャン……」
「ロクロウを諦めるまで待つ気ではいたんだ。でも正直……キツくなってきた」
「そう……よね……」
ジャンは、アリシアが予想するより遥かに長い年月を待ってくれているのだ。この気持ちに応えないと、罪悪感に押し潰されるかもしれない。
「で、答えは」
ここではぐらかすわけにはいかないとわかっている。実際、はぐらかす気はアリシアになかった。だが、答えが決まっているかと言えばそうではないのだ。
アリシアの性格では、一番好きな者以外とは付き合えなかった。
アリシアの中には雷神がいる。それはもう、揺るぎないほどの存在で。
けれどジャンが嫌いなわけではなかった。むしろ、好きだ。大好きだ。
彼という存在がなければ、逆にアリシアは雷神をとっくに諦めていたかもしれない。ジャンがいてくれたからこそ、アリシアは雷神を忘れずに想い続けられた。
彼という支えがいたことで。我慢できなくなったら、代わりにしていいと言ってもらえていたことで。皮肉なことに、それが雷神への想いをより強固にしてしまっていた。
「いいの? なにも言わないなら、都合のいい方に解釈するけど」
長く沈黙しているアリシアに、ジャンはそう告げた。アリシアは素直に胸の内をさらけ出す。
「わからないのよ、どうしていいのか。ロクロウを待ちたい気持ちは変わらない。でもそうすることであなたという存在が離れていくのは嫌なの。どちらかに決めなきゃいけないと理解はしてるのよ。でも、それでもどうすべきかわからないの」
「じゃあ、答えは……」
「決められない。それが私の答えよ。……わがままで、ごめんなさい」
まっすぐ目を見て伝え、そして許しを乞うため頭を下げる。ジャンはそんなアリシアの姿を見て、ゆっくりと立ち上がった。
「謝らなくていいよ。負け戦は慣れてるから」
ジャンはアリシアの手を外し、視線を右下方に逸らす。そんな姿に居た堪れなくなったアリシアは、再度謝罪の言葉を紡いだ。
「本当に、勝手ばかり言ってごめ」
「いい。やっぱり負け続けるのはごめんだ」
「え?」
ジャンは諦めモードの態度を一変し、その妖しい瞳をアリシアに投げかける。
「もう引かない。ロクロウと五分なら押しに行く」
「ジャン!?」
アリシアはジャンに唐突に抱き寄せられた。そして再び彼の腕に収まってしまう。その唐突の変化に、そしてジャンがこんな行動に出ると想像していなかったアリシアは身をよじる。
「ジャン……あなたはこんな形ですることを望んではないでしょう!?」
「望んでるんだよ。あなたの心はロクロウにあることを知ってて……それでもなお、ずっとあなたを奪いたかった」
アリシアの顔は、火が点いたように熱く燃えた。そんなセリフを、雷神にも誰にも言われたことはない。自分も好いている相手に求められて、アリシアの胸は激しく波打った。
そんなアリシアとは対照的に、余裕の伺えるジャンの呼吸が、規則正しくアリシアの耳に届く。
「俺から止める気はないよ。本当に嫌なら俺を投げ飛ばしてでも止められるだろ。それでロクロウか俺か、どっちか決着がつく」
そういうとジャンはアリシアをひょいと抱き上げた。初めてされるお姫様抱っこに、アリシアは拒めず素直にベッドまで運ばれてしまう。
「本当に……かわいいよ、アリシア……」
「ジャン……」
ジャンの今まで見たこともない優しい瞳。アリシアは少女のように鼓動を打ち鳴らしながら、そっと目を閉じた。




