23.一人にしてはおけないもの
王宮の手前の路地まで来ると、ジャンはそこで立ち止まった。その姿を見て、アリシアも同じように立ち止まる。
「じゃあ、筆頭……俺はこれで」
「あら、上がって行きなさいよ。ミルクティーを淹れてあげるわ」
「今日はやめとくよ。筆頭も疲れてるだろうし」
「遠慮するなんて、らしくないわね」
ぐっとジャンの腕を掴むと、彼は悲しげな瞳をこちらに向けてきた。こんな状態のジャンを放っておけるはずもなく、アリシアはその腕を引っ張る。
「いいから来なさい。来ないなら、私が宿舎に行っちゃうわよ」
「……本当に来そうだな、筆頭は」
「行くわ。今のあなたを一人にしてはおけないもの」
過去を思い出したのか、ジャンの顔は深く傷付いているように見えた。そんな時には、誰かが一緒にいてあげることが一番だとアリシアは思っている。しかしジャンは、そんなアリシアを拒むように言った。
「大丈夫。適当に誰かと寝るから」
「……そう」
ジャンにそう言われ、驚くほど動揺している自分がいるのを、アリシアは感じた。
ジャンがモテるのも、それなりに遊んでいることも理解しているつもりだ。しかしこれほどまでにハッキリと目の前で誰かを抱くと宣言されると、妙な怒りが湧いてきた。アリシアはそのまま受け流すことができず、感情のまま言葉を口にする。
「ロクロウは昔、安易に女を抱いて後悔したことがあると言っていたわ。あなたもそんな風にはならないようにね」
アリシアのこの感情は、明らかに嫉妬だった。が、アリシアは語尾をきつく上げてしまい、この言葉を受けたジャンの表情はみるみると変わっていく。そして彼はついに怒りの言葉を吐いた。
「抱きたい女は抱かせてくれない! あなたがそれを言うのは残酷だよ、筆頭……!!」
アリシアの忠告を言葉通りに受け取ってしまったジャンもまた、語気を強めて非難してきたのである。拳を握り締めて。悔しそうに眉を顰めて。
いつもの余裕が、ジャンから消えていた。妖しい笑みはなく、悲しげに顔は歪んでいる。そしてそのまま彼はアリシアに背を向ける。
「……宿舎に来られても、いないから」
そう言い残し、ジャンはどこかに去ってしまった。
アリシアは、自分がしてしまった発言に愕然とした。あんなものは忠告でもなんでもない、ただの嫌味だ。ジャンにあんな顔を、そしてあんな発言をさせてしまったのは、明らかに自分のせいだと認識した。猛烈な後悔がアリシアを襲う。
「ジャン……」
追いかけるべきか、アリシアは迷った。しかし追いかけてどうなるというのだろう。別の女を抱くくらいなら自分を抱けとでも言うつもりかと頭の中で考え、そして否定する。
もしも相手が雷神であれば、一も二もなくそう言っただろう。だが、相手がジャンだと言えなかった。これだけ激しく嫉妬しておきながら、それでもアリシアの中には雷神がいた。
「アリシア様」
呆然とジャンを見送るアリシアの名を、後ろから呼ぶ者がいて、アリシアはゆっくりと振り返る。そこには銀髪の青年が、気配を消してひっそりと立っていた。
「ルーシエ……」
「誰かが来る前に、中へ」
その言葉を理解するのに数秒かけ、それからアリシアはルーシエの指示に従い王宮に入る。長い廊下をコツコツと自室に向かって歩き始めた。その隣をルーシエが長い髪を揺らしながら、足並み揃えてついてくる。
「ルーシエ」
「はい」
「聞きたいことがあるんだけど、いいかしら?」
「もちろんです」
「ありがとう。私の部屋に入って」
アリシアはルーシエを自室へと促し、彼を椅子に座らせる。紅茶を淹れようとすると、結構ですとやんわり断られた。
「アリシア様はお疲れのご様子。私に気を使わないでください」
「いつも悪いわね」
「いいえ、これが私の職務ですから」
「今はあなたも休暇中でしょう? プライベートだわ」
「そうですね。休みを返上するつもりで来たんですが、やはり今日はちゃんと休暇を取ることにします。聞きたいこともお有りのようですし」
ルーシエはすべてを見透かしているかのようにアリシアを見た。彼のことだから、王宮前でのジャンとのやり取りを見ただけで、大体のことは察しているだろう。本人以外の者に聞くのは卑怯な気もしたが、やはり気になるものは気になる。
「ルーシエは、ジャンの出生を聞いたことはある?」
「いいえ、本人の口からは。オルト軍学校時分に聞いたことはありますが、答えてはもらえませんでした」
「本人の口からは? じゃあ誰かに聞いたのかしら」
「私がアリシア様の副官となったとき、隊の者を洗いざらい見直しました。出生、経歴、家族構成……少しでもアリシア様に不利益が生じると判断した者を、別の隊に異動させるために」
「そんなことをしていたの? 私の隊を全員? 相当な作業だったでしょうに……」
「アリシア様のためならなんてことはありません。その時にジャンも調べておりますので、それでよければお話しいたします」
「ええ、お願い」
アリシアの先を促す言葉を受けて、ルーシエはコクリと頷いた。そして彼は話し始める。アリシアの知らない、ジャンの過去を。
ジャンが生まれたのは、この王都ラルシアルだった。
父親は大手企業の社長で、母親は専業主婦という、平均よりもかなり高い水準の家庭にジャンは生まれた。
ジャンはなに不自由なく育っていたが、生まれついてのものか、コミュニケーション障害を抱えているような子どもであった。
人から見ればそれはただの人見知りであり、ただの個性であったかもしれない。だが、それをよしとしない人物がいた。ジャンの父親の両親。つまり、ジャンの祖父母である。
彼らは、息子に継がせた企業の創始者であり、ゆくゆくは孫であるジャンに継いでもらおうと期待していた。が、ジャンのコミュニケーション障害を知って、祖父母は落胆したのだ。人と人との繋がりが重要である企業の社長が、コミュニケーション障害であってはならない、と。
そんな考えを、彼らはジャンの母親にこんこんと説明した。ジャンがこんな風に育ってしまったのはお前のせいだと言われ続けた母親は、結果育児ノイローゼとなってしまう。
そんなノイローゼとなった母親が頼ってしまったのが、占い師だった。後にこの占い師は詐欺で逮捕されるのだが、この時、精神的に追い詰められていた母親には、救いの神に見えたのかもしれない。
占い師はジャンのことを、陰の年、陰の月、陰の日、陰の刻に生まれた、この世で最も忌むべき存在であると嘯いた。そして母親はそれを聞き、安堵してしまったのである。ジャンが人と関わることが苦手なのはそういう存在だからであって、自分の育て方が悪かったわけではなかったのだ、と。
なまじお金のあった母親は、その占い師にのめり込んでしまった。ジャンを罵れと言われればそうし、折檻しろと言われればそうし、水や食事を与えないこともあった。そうすればジャンのコミニュケーション障害は治ると占い師に言われ、盲信してしまっていたのだ。母親も、ジャンに立派な社長になってほしい一心だった。
しかし当然のことながら、ジャンのコミュニケーション障害は治らなかった。それどころかどんどん酷くなっていき、母親はまたも占い師に相談した。すると占い師は、やはり忌むべき子の改善は無理だから捨てろと言い放った。そうすれば運が開けると。
この時、母親は二人目となる子どもを妊娠していた。後のジョルジュであるが、ジャンがいるとジョルジュにも悪い影響を与えてしまうと言われ、切羽詰まってしまったのである。
母親は父親に、ジャンを捨てると伝えた。当然、父親は反対した。あんな占い師の言うことを聞くなど、間違っていると。しかし母親は聞く耳を持たなかった。占い師の言うことがすべて正しいと、思い込まされていた。
最終的に、父親の方が折れることとなる。ジャンを捨てなければ、お腹の子とともに死ぬしかないと言われ、父親はジャンの方を見捨てた。ただし山に捨てようとした母親をなんとか説得し、孤児院に捨てるということと、その占い師とは今後付き合わないという条件を付けて。
父親の方は、母親が落ち着けばすぐにジャンを迎えに行くつもりだったのだろう。しかし結局その後しばらく、母親は占い師に依存していて、迎えには行けなかったようだ。
こうしてジャンは、わずか五歳で孤児院に入れられてしまった。両親に付き添われ、しかしその母親に「要らない子だから捨てます」と目の前で言われて。
「普通は両親が揃っている子を受け入れたりしないそうなのですが、あまりに不憫だったので院長が許可したそうです」
ルーシエは長い話に一旦区切りをつける。幼き頃のジャンの気持ちを考え、アリシアは胸を痛めた。
「……よくそれだけのことを調べたわね……」
「個人的にも気になっていましたから……実はオルト軍学校にいた時、ジャンの両親が隊舎に訪ねてきたことがあるんです」
「どんな、理由で?」
恐る恐る聞いてみるも、その答えはアリシアの想像しているものと違っていた。
「家に戻ってきてほしい、と」
「そう……なの?」
「はい。ちょうどその頃、例の占い師が逮捕されたので、その影響かと思いますが」
「で、ジャンはなんて?」
「帰る意味がない、と一言だけ。他はなにも言わずに無言を貫き通していました」
「……そう。ジャンが人と関わるのを苦手とするのは、そういう経緯があったからなのね……」
ジャンの気持ちを聞きながら知った話ではない。ジャンの視点から聞けば、また印象も変わってくるだろう。しかしそれを聞き出せたからと言って、どう慰めればいいというのだろうか。ジャンの過去を知ってしまった分、彼との接し方に悩んでしまう。
そう考えたところで、アリシアはハッと気付いた。
(だからジャンは、私には言いたくなかったんだわ……私の態度が変わるかもしれないのが嫌で……)
ならば、とアリシアは考える。今まで通り、なにも知らないフリをして過ごそうと。ジャンがそれを望むならと。
「ありがとう、ルーシエ。でも私は、なにも聞かなかったことにするわ」
「承知しております」
ルーシエは当然のように頷き、出ていった。
その瞬間、アリシアはベッドに倒れ込む。一瞬の間もなく、睡魔が襲ってきた。
(ジャン……今頃誰かと一緒にいるのかしら……。両親に捨てられた寂しさを紛らわすために? それとも……)
アリシアの思考はそこで途絶え、微睡みに任せて目を瞑った。




