02.問題解決ね!
ある日アリシアが帰ると、家の前に一人の少年が立っていた。十一歳になった少年、ジャンである。ターシャと雷神が命がけで救った子どもだ。
「ジャン? どうしたの、こんなところで」
「別に……」
「あ、ロクロウね? 残念だけど、ここから出てっちゃったわ。挨拶もなしに、ごめんなさいね」
「挨拶ならしたけど」
ジャンの言葉に、アリシアは首を傾げる。この少年に別れの挨拶をしたなら、ここに雷神がいないことはわかっているはずだ。
「じゃあ、なぁに?」
「アリシアさん、次の休みいつ」
「次の水曜日だけど」
「ふぅん」
そう言ってジャンは、アリシアの家から立ち去ろうとする。
「待って、送るわ。もう暗くなってきたし危ないわよ」
アリシアはそう言ったが、ジャンは「これがあるから平気」と短剣を見せて去っていった。
その日からアリシアの仕事が休みの日には、必ずジャンが現れることとなる。
最初のうちは家に訪ねてきても、次の休みを聞くだけで帰ってしまっていた。少し慣れてくるとアリシアはジャンをお茶に誘い、お菓子を食べる。昼食を一緒にとることもあった。そして、短剣を持つジャンの相手をしてあげた。
さすが雷神に手ほどきを受けただけあって、その腕は下手な大人よりも随分と筋がいい。
「ジャンは、ロクロウみたいなトレジャーハンターになるの?」
そんなジャンをアリシアは軽々と打ち負かし、尻餅をついている少年に向かって尋ねる。ジャンは息を切らしながら首を横に振った。
「やだよ、あんなの」
「あら、そうなの? てっきりロクロウに憧れているのかと思ってたわ」
「まさか」
ジャンは気だるそうに立ち上がり、短剣を鞘にしまった。
「今度はさ……剣を教えてよ」
「剣? どうして?」
「俺、来年、オルト軍学校に志願する」
「オルト軍学校に? 来年ってあなた、幼年学校の卒業まで後一年あるでしょう」
「関係ない。本当は今すぐにでも、入りたいくらいだ」
ジャンは瞬きすらせずにこちらを見据えている。その瞳は真剣だ。いつもの冷めた目ではない。それがこの少年の生き甲斐になるならと、アリシアは剣を教えることを二つ返事で了承した。
しかしその後、アリシアの妊娠が発覚し、あまりジャンに剣を教えることはできなかったのだが。それでも彼は、週に一度はアリシアの家に訪れていた。まるで、様子を見るだけだと言わんばかりに。
時は過ぎ、ジャンはオルト軍学校に入学する。学校と言っても、実践も経験させる本格的な軍学校だ。そうするとさすがにほとんど顔を合わせなくなってしまった。
アリシアは九月に出産し、その出産前後に三ヶ月の休暇を取った。しかしいざ職場に復帰するとなると、生まれた赤ん坊をどうするかという事態に直面してしまった。
騎士職は、場合によっては何日も家を空けることもある。ベビーシッターを雇うにしても、二十四時間、何日も続けてはお願いできない。職場は王宮か戦場なので、赤ん坊を連れていくことも不可能だ。
「どうすればいいのかしら……」
雷神との子どもを授かれたことは嬉しいが、一人で育てるには厳しい状況だ。
ベビーベッドで眠る我が子を見ながら途方に暮れていた、その時だった。来客を知らせるドアノッカーが鳴り、アリシアは玄関に向かう。そしてそこに立っている人物を見て、身を硬化させた。
「マーディア王妃様……!?」
お付きの騎士を連れて凛と立っていたのは、アリシアの仕えるストレイア王レイナルド・バルフォアの第一王妃、マーディアであった。
アリシアは驚きながらも、肩口に手を当てて敬礼のポーズを取る。
「ストレイア第二軍の将、アリシアね」
マーディアは美しくも威厳のある瞳でそう問いかけてきた。ただの一将軍になんの用だろうかと訝りながらも、「はっ!」と声を上げて答える。
「出産したと聞いたわ。おめでとう」
「……え? は、ありがとうございます!」
まさか、出産を労ってもらえるなどとは露ほどにも思っていなかった。
マーディアが優しく目を細めてくれたのを見て、アリシアは少しホッとする。
子どもを見せてと言われたので、中に案内してリビングに座ってもらった。すやすや眠る我が子を連れ出して、マーディア王妃にその顔を見せる。
「あら、素敵な黒髪ね。生まれたばかりなのに、綺麗に生えそろってるわ」
「ありがとうございます」
「名前はなんというのかしら」
「アンナ、と名付けました」
「いい名前ね。まぁかわいい女の子だこと」
マーディアはそう言ってアンナをアリシアから奪っていった。慈しむようにアンナを撫でてくれはするものの、マーディアの目的がわからずハラハラと見守る。
「あなた、シングルなんですって?」
マーディアは唐突にそう言った。アリシアが子どもを出産したことは、軍内なら誰でも知っている。そして夫はいないということもまた、いつの間にか知れ渡ってしまっていた。
「はい。パートナーはいません」
「そう……職務中、この子はどうするおつもり?」
「それは……ベビーシッターを常時何人か雇うことで解決する……と思っていますが」
「うちで面倒をみましょうか」
マーディアの信じられない提案に、アリシアは目を見開いた。
「よろしいんですか?」
「ええ。私も二ヶ月前にシウリスを産んで、生家に帰ってきているのよ。ここからも近いし、あなたの仕事が終わるまでは預かれるわ。ナニーもたくさん雇っているし、気にしないで」
有難い申し出に、アリシアは今にも飛び付きたい気分だった。
しかしなぜ、マーディアがこんなにも自分を気にかけてくれるのかがわからない。そしてその疑問は、顔に出てしまっていたようだ。
マーディアはフッと笑っている。
「ふふふ、警戒しているのかしら?」
「いえ、そのようなことは」
「あなた、ラウ派というわけじゃないんでしょう?」
「はい」
ストレイア王のレイナルドには、王妃が二人いる。
目の前にいる第一王妃のマーディア・リーン・バルフォア。
そして第二王妃のヒルデ・ラウ・バルフォアだ。
マーディアには、第一王女のラファエラ・リーン・バルフォア、そして今回産まれた第二王子のシウリス・リーン・バルフォアがいる。
マーディアの長男のシウリスを第二と呼ぶのは、すでに第二王妃ヒルデの元に男子が産まれているからだ。
第一王子の名を、ルトガー・ラウ・バルフォアという。
いずれは、どちらかの王子が王位を継承することになるだろう。
軍内でもリーン派とラウ派にわかれ、それぞれの支持する王子が王になれるよう、画策している者もいる。
「では、我がリーン派?」
「いえ」
「はっきり言うのね。では中立派かしら」
「私はレイナルド王に忠誠を捧げております。どの派閥にも属したりはしません」
キッパリと宣言すると、マーディアはふふふとおかしそうに笑った。
「気に入ったわ。我が夫レイナルドの片腕となるにふさわしい人物ね」
「お褒めいただき恐悦至極に存じます」
マーディアはヒルデと違い、穏やかな人物だ。
政治においても穏健派で、レイナルドを諌める役回りでもある。
「ふふ、政治の話を出すなんて、無粋だったわね。私はただ、あなたが困ってそうだったから声をかけただけよ。アンナには、シウリスのよい友人になってあげてほしいの。ダメかしら?」
そんな風に言われては、ダメだなどという言葉を王妃に言えるはずもない。
なんだかんだとリーン派に引き込みたいが故の提案だろうが、実際にアリシアも助かるし、断る理由はなかった。
「こんなに有難いお話はありません。マーディア様の寛大なお心に感謝いたします」
「ふふ、あなたが有能な将だから、特別よ?」
そう言ってマーディアは悪戯っぽくクスクスと笑った。
こうしてアリシアはアンナをマーディアの生家に預けて復帰することになる。
騎士の仕事は不規則だが、マーディアの生家ならば警備も厳重でナニーまで用意してくれるのだ。
こうしてアンナは、第二王子のシウリス・リーン・バルフォアと一緒に育てられることになったのだった。
ある日、アリシアは非番で、抱っこしたアンナの鼻をつんつんとつついていた。
髪の色も目の色も黒く、確実に雷神の血を引いているとわかる愛しい我が子。父親は今頃どこにいるのかと想いを馳せていると、ドアノッカーが家に響いた。アンナを抱いたまま玄関の扉を開けると、そこにはジャンが立っている。
「うわ。生まれたんだ」
ちょうど冬季休暇の季節だ。ジャンはアリシアの手の中にいるアンナを見て、不思議そうに顔を覗いた。
「お帰りなさい、ジャン! どう、オルト軍学校は?」
「うん……まぁまぁ」
「剣術大会では八位に入賞したんですってね。すごいじゃない、その年で!」
「別に」
そう言いながらジャンは、物珍しそうにアンナのほっぺをつついた。しかしすぐ興味をなくしたらしく、家の中に入っていく。
「ジャン、紅茶とコーヒーどっちにする?」
「……ミルクティー」
「いいわよ。ちょっとアンナを抱っこしててね」
「え」
アリシアはジャンにアンナを手渡し、紅茶を淹れてミルクを注いだ。ふと見ると、ジャンがアンナを相手にあたふたしている。彼のそんな姿を見るのは初めてで、思わずアリシアは吹き出した。
「あっはははは! あなたでもそんな顔をするのね! なんだか安心したわ」
「……なんかこれ……落とすとすぐ壊れそう」
「怖い?」
アリシアは一度カップを置き、アンナをジャンから受け取った。
「怖くない?」
「そうねぇ」
アリシアはアンナを片手に移し、もう片方の手でミルクティーのカップをジャンに渡す。
「すぐ死にそうだし」
ジャンはカップを受け取りながらそう言ったが、アリシアは笑って首を振った。
「私の子だもの、そんな簡単に死ぬわけないわよ」
そしてアリシアは眠そうな目をしているアンナの頬をつるりと撫でる。
「第一王妃の生家に預けてるって聞いたけど」
「ええ。警備も万全だし、安心でしょう?」
「逆だよ、それが危ない」
「……どういう意味?」
ジャンの言葉にアリシアは眉を寄せ、視線をジャンに向けた。
「王家に縁のある人物は、利用される可能性が高いってこと」
「それってフィデル国にってこと?」
「かもしれないし、ルカスかもしれない。ストレイア自身かもしれない」
「うーん……」
言われてみれば、そうだ。なぜ世継ぎ候補であるシウリス・リーン・バルフォアの住む家の警備があれほどまでに厳重なのか? それを考えればすぐに答えは見つかる。
誘拐、暗殺、政治利用を恐れているからだ。厳重だから安全という保証はない。むしろ王家の中にいる方が、危険がつきまとってしまう。
特にアンナは、王妃の生家にいるものの、王家とはなんの縁もない者だ。もしシウリスと共に攫われでもすれば、アンナの方が先に殺されてしまうだろう。それを考えて、アリシアはゾッとした。
「ほら、怖くなった」
「本当ね……厳重だからと安心しちゃってたわ」
「預けるの、やめたら」
「そういうわけにはいかないわよ。仕事もあるし、王家の警備を信用してませんって言ってるようなものじゃない。出世できなくなっちゃうわ」
出世云々はともかく、ジャンにそう言われてしまうと心穏やかではいられない。あまり一緒にいてあげられないとはいえ、雷神との大切な一人娘である。
「そう……だわ。いいものがある」
そう言って、アリシアは自分の部屋に向かった。そして机の上に飾ってあった物を、その手に取る。
「それは?」
後ろをついて来ていたジャンが覗き込んだ。アリシアの手の中にある一冊の本を見て、初めて見る書だ、と呟いている。
「これは、『救済の書』っていうの。ロクロウからの初めてのプレゼントよ」
「ふぅん……どんな能力の書なの」
「守りたいと思っている者が、死んでしまうという時に、それに間に合うよう知らせてくれるもの。確かロクロウはそう言っていたわ。これを習得すれば、アンナを守れるってことよ。問題解決ね!」
笑顔を輝かせてそう言ったアリシアは、じっと救済の書を見つめる。
雷神にもらった大切な宝物だ。不思議な模様の描かれた本を、ずっと部屋に飾っておこうと思っていた。しかし雷神がいなくなった今、これを習得することで、彼と気持ちが共有できるように思えたのだ。世に言う恋人たちの、愛の証である指輪のように。雷神との大事な一人娘を、二人の力で守ることができると。
「さっそく習得師のところへお願いしてくるわ! ジャン、アンナをお願いね!」
「え」
「すぐもどるわー!」
アリシアは家を飛び出すと、まっすぐ習得師の元へ向かった。
こうしてアリシアは、その身に救済の異能を習得することになったのだった。