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一つ目の結末

 パタンと閉まった扉。廊下の強い光が遮られ、真っ暗な部屋の中には、窓から射し込む月明かりだけがあった。


 その月明かりの中にゆっくりと現れたのはりんちゃん。


「……どうかしたか?」


 などと、呟きにも似た問いかけをしてみるが、彼女は微動だにしない。パジャマ姿のりんちゃん。寝ぼけているのかと思ったが、その表情には……瞳には、眠たげな様子は一切なかった。


 上体だけを起こしたまま俺は彼女と見つめ合う。まるで、時でも止まってしまったかのように、そこには静かな雰囲気が降りていた。微かに聞こえてくる波の音。それだけが、この状況に現実味を与えてくれる。


 そうして、りんちゃんはパジャマのボタンに手をかけた。


 それが、何を意味するのかを理解するには、俺の思考はなかなか動き出してはくれない。


 スルスルと布が擦れる音がして、パサッとそれは床に打ち捨てられる。


「……いや、おいおい」


 出てくる言葉は形なく、縛られたように動けなく、ただ、目だけは釘付けにされたように逸らすことが出来ないまま。


「ごめんね」


 りんちゃんがポツリ。それには主語がなくて、一体誰に言っているのかも分からぬまま。


 何もかもが理解不能な中途半端な俺の前には、その白い肌を月明かりに晒す少女がいた。


 少女が身につけていたのは、ライトブルーの下着のみ。それが生温い月光を仄かに反射している。まるで、大切な物を守るように……そこに在った。

 細くきめ細かい肌と、やはりほそっりとした四肢。それらが恥ずかしげに微かに(よじ)る。……低俗的に言えばめっちゃエロい。


 そして、それが詰め込まれた稀有とも呼べる全てが、俺に向かって忍び寄る。


「なにを……」

「何を? 分からないの?」


 りんちゃんが吐息混じりに囁いた。そして、そのままベッドに手をついて、侵入してこようとした。


「まっ、待て」

「待てないよ」

「なんで……」

「天津くんが迷ってるから。言ったよね。私は私のやり方で天津くんを振り向かせてみせるって」


 後退る。りんちゃんは優雅に迫り来る。止めようと手を伸ばすが、それに触れてはいけない気がして、やはり後退るしかない。

 彼女の頬が、耳までもが赤い熱を持っていた。


「だからって……これは」

「天津くんは許せるかな?」


 もはや行き場を失った俺の前で、りんちゃんは言った。


「私は天津くんが欲しいの。その為なら手段を選んだりしない。私は天津くんを信じて待ってられるほど、自分に自信を持ってない。だから――こんな卑怯なことだってする」


 彼女の丸い瞳が揺れる。それには何かしらの催眠作用があるのか、頭の中までぐらついてくる。ツ……と、りんちゃんの足が俺の足に触れる。布一枚隔てたそこから、彼女の体温が伝った。


「それを天津くんは許せる?」

「それは……」

「それを審議するための今でしょ?」

「だが、それは……」


 否定したいのに言葉が出てこない。何か不自由な呪文をかけられたように、何もかもが鈍い。


「許せたなら、きっとこれからも許せるよ。大丈夫……楽にして」


 甘い声はじんわりと脳を侵した。熱と香りが取り巻いて、麻薬みたく意識が薄れそうになる。それは恐怖でもあったが、強烈な誘惑でもあった。手を伸ばせば触れてはならぬ禁忌がそこにある。


 それを彼女が艶かしく許可するのだ。


「俺は……」


 もはや無理な上体起こしに腕が痺れて、力を抜いた瞬間に体が崩れる。その機を逃さず、りんちゃんは覆い被さってきた。


 もはやこれまでかと思われた瞬間……頬に温かな雫が跳ねた。


「……これで嫌いになるのなら、私は納得できるよ」


 それが、りんちゃんの流す涙であることに気づいた。


「それでダメなら……もう私に出来ることないもん」


 落ちる雫が、一つ二つと増えていく。それに俺は驚いて……彼女の肩が震えていることに気づいた。


 彼女とて怖いのだ、と察した。きっとそれは、これから彼女が行おうとしている行為にではなく、その果てにある結末についての感情。

 その震えを隠す布はなく、涙を拭う布もなし。だから、彼女は怯えた己を晒すしかない。


 その痛々しさに、視界が晴れていく気がした。寝ぼけていたのは俺だと気づいた。


 酷いことをしていたのは俺の方だった。許しを乞うべきは俺の方だった。それを強いていたのは……俺だった。


 何かが溶け出した気がして、それは不自由になる魔法。


 手が動いた。腕が、足が力を取り戻す。


 やるべきことはそこにあって、俺は考えるべくもなく行動にする。ゆっくりとその、か細い肩に触れ腹筋に力を入れる。あれほど強い魔を発していたりんちゃんは、呆気なく俺の上から退かされてしまった。その呆気なさには笑いすら出そうになる。


 その弱々しさを俺は思い出した。


「覚えているか……駐車場でのこと」


 それはアミューズメント施設での事だ。四人で遊んだ日の事だ。


 隣で倒れたりんちゃんは、少しだけ身動ぎをして、言葉は出ない。だが、彼女も忘れているはずがない。


 何も出来ず、無力にもただそこに居続けることしか出来なかったあの時、俺はやはり彼女を励まそうとしたのだ。


 りんちゃんが、あまりにも弱々しく映ったから。そのままにしてしまえば、まるで壊れてしまいそうだったから。


 だが、俺は俺の信念に基づいて(うそぶ)いたのだ。


 まるで、ボッチが正義であるかのように理由を騙り、根拠を騙り、俺は俺自身を納得させる為だけの荒唐無稽をこじつけたのだ。


 本当は――。


 本当は……見ていられなかったのだ。彼女の気持ちがあまりにも分かってしまったから。誰かに拒絶されることが、あまりにも悲しいことだと知っていたから。


 だから……それがごく自然のことであり、当然のことであり、それは気にするほどのことではないと唱え、むしろそれは誇るべきことのように(のたま)った。


 そうしなければ、俺は俺を破綻させなければならなかった。


 誰かの為にある俺は、いつか捨て去った俺だった。それを肯定してしまうことは、ボッチとして在り続けようとする俺自身を否定することになる。


 だから、俺は嘯いたのだ。


 本当は違う。そして、その本当こそが彼女を揺さぶったのだろう。


「俺を好きになったのは、俺がりんちゃんを許した(・・・)からじゃないよな」


 やはり、返答はない。だが、俺には確信があった。


 彼女が俺を好きになってしまったのは、たぶん俺が彼女を救ってしまったから。許す許さないはおそらく後付け。それは、彼女が俺に告白するための隠れ蓑。


 何故なら、そんなことだけで誰かを好きになれるのなら……彼女はここまで怖がったりしない。


 怖いのは、やはり傷つくからだ。俺から……金剛さんから……そして、日向舞から傷つけられることが一番怖い。


 それが分かっていてなお、彼女はその手段を選ばずにはいられなかった。俺がその他を許さなかった(・・・・・・)からだ。


 だが、それを敢えて口になどする必要はないと思った。そんなことなどしなくとも、事態は収集すると思っていたから。


 俺は俺だけいれば満足だ。


 それを、りんちゃんが納得しなかったのは、やはりそれすら嘘だから。嘘だから……その言葉に力はない。力がないから、彼女には響かない。


 そんな……行き当たりばったりの、その場しのぎが彼女を追い詰めた。


 追い詰められた彼女がとった方法は、一か八かの賭けだった。


 始まってしまったことには、やはり終わりが必要だ。それがどんな結末であろうと、終わればまた……始められる。


 俺は、まだ始まったことにさえしていなかったのだ。何故なら、その終わりには痛みが伴うから。


 それを誰かに与えることは、返って自分すらも痛め付けることになる。


 それが怖かったのだ。だから、俺は見てみぬ振りをした。


 りんちゃんが俺を好きになった理由。たぶん、本当の理由なんてないのだろう。


 それが分かるなら、人は簡単に誰かを好きなったりしない。傷つくかもしれないと分かってて、安易に手を出したりはしない。


 操作出来るのなら、きっとこんなに苦しんだりしない。


 それを操作した気になって、支配した気になって、俺は気付かない振りをしただけ。


 曖昧で、自分だけを騙すことのできる御託は必要なかった。


 屁理屈でもはやどうにか出来るものでもなかった。


 だから。


「俺は――りんちゃんを好きにはなれない。恋愛感情での関係は築けない」


 言った瞬間に走った痛みは、焼け尽くすような轟きを響かせた。きっとそれは、彼女にしてみれば如何ほどのものであったかを知ることは出来ない。


 その慟哭は収まりを見せず、タンタンタンタンと、どこかから罪悪感が駆けてくる。その足音に震えた時、スススとりんちゃんは起き上がった。


「……まっ、だよね」


 力ない笑い。照れたように頭を掻いて、ドジっ子のようにはにかんで、半裸の彼女はいつもの彼女に戻って。


「分かってたけどね……こんなことしたって天津くんが手に入らないことくらいさ。ちょっと最後に思い出つくってみよっかなーなんて思っただけ」


 返す言葉はない。俺から言うべきことは、言ってしまったから。


「というか天津くん焦りすぎぃ。本気でそんなことするわけないのにぃ」


 いつもの調子のりんちゃん。


「どうだった? ……びっくりした?」


 それに、俺は微笑んでやる方がいい気がした。


「……あぁ、ビックリした。もうダメかと思った」

「はははー、ドッキリ大成功だねっ。明日みんなに話したら……笑ってもらえるかなぁ」


 それに俺は首を振る。


「誰にも言わない。この事は誰にも話さない」


 りんちゃんからスッと笑顔が消えて、ハッとしたように俺を見て、今にもその表情が崩れそうになって、それでも、次の瞬間にはまた笑顔があった。


「……えぇ~、それだとドッキリの意味ないじゃ~ん」

「それを暴露されるのは恥ずかしいからな。りんちゃんも言わないで欲しい」

「……どうしよっかなぁー。まぁ……天津くんがそう言うなら、言わないであげてもいいかなぁ」


 言いながら彼女はベッドから降り、脱ぎ捨てられたパジャマを雑に羽織る。


「まぁ……目的は果たせたし、私はもう寝ることにするよ」

「……だな」


 カチャリと扉が開かれて、強い光が射し込む。現実に引き戻されるような感覚になった。


「もうLINEでの『おやすみ』も『おはよう』も、このおやすみで最後にするね」

「……わかった」

「あと……一つだけ。私見つけちゃったな? 私が天津くんを許せない部分」


 りんちゃんは、そう言って扉の向こうに身を滑り込ませた。


「俺の許せない部分?」


 扉の隙間から、りんちゃんは最後に顔だけを覗かせる。


「うん。それはね? ……優しすぎるところ」

「許せないのか? それ」

「許せないね。少なくとも私はさ」

「そうか」

「うん、そう」


 そうして、俺とりんちゃんは数秒見つめあったが……やがて。


「おやすみ……天津くん」

「おやすみ、りんちゃん」


 そしてパタンと……扉は閉められた。



 残された部屋の中で、一つ一つの絡まった糸がほどけていく。


 俺が無理やり丸めてしまった不格好な玉留めが、呆気なく(ほだ)されていく。


 必死で縫い合わされたツギハギの『旗』は、ボッチを掲げた俺の決意でもあった。


 聞こえる波の音。遠くに見える黒い大海原。


 そんな黒い海を突き進む為に作った帆が、簡単に崩れた。


 風は止み、そこに一人浮かぶ俺は……ただ漂うことしか出来ない。


 波が、静かに船ごと俺を運んでいく。必死で離れようとした陸地に、少しずつ船を運ばせた。


 それは、固い大地を持つ恐ろしい大陸だ。


 そこに俺は戻された。そもそも、俺は沖にさえ辿り着けてはいなかったようだ。


 長い時間をかけ、俺は戻ってきてしまった。


 そして、この陸地には待ち人がいる。


 待っている人がいた。今度は、その人に告げなければならない。


 その前に。


「くそっ……」


 ベッドにうずくまり、軋む心を残された糸だけで縫い合わせなればならなかった。

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