その時、天津は動いた
結局、北上は負けてしまったらしい。
あの後に再開された試合は、純粋なバスケ勝負になり、北上がいくら上手いと言えど、さすがに明石先輩に勝つことは出来なかったようだ。まぁ、そりゃそうだろうなと思う。ただ、彼女は彼女なりの決着をつけられたのだろうか。
後日、金剛さんが北上から聞いたところによれば、彼女は告白すらしなかったらしい。何やってんだよ……あれだけリベンジの機会をつくってやったのに。あそこで告白しないなら、きっともう北上が告白することはないだろう。
そして、それは的中する。
明石先輩と岸波先輩がよりを戻した、という話を聞いたからだ。もちろんそれも金剛さん経由での話である。もはや、北上に為す術はない。
そんなある日の昼休み、屋上に岸波先輩がやってきた。
「――ここに二人ともいるって聞いたからさ」
岸波先輩は、お礼を言いに来たのだという。
「別にお礼なんて言う必要ありませんよ。俺は、あなたを明石先輩から奪おうとした男ですから」
「本気じゃなかったくせに。あんな大がかりな演技までして……あの時見てた人たちは天津くんの悪口を散々言ってたよ?」
「慣れてますから。そういうの」
「そういう問題かなぁ? ただ、あれのお陰で私は瑛太とよりを戻せたから、立場的には否定出来ない」
「俺は俺の考えでやっただけです。気に病む必要もありませんよ」
「……ふぅん」
そんな岸波先輩は、金剛さんの方を見てから一言、「大変だね」と言った。
「それと、金剛さんもありがとう。なんか、先輩なのに助けられちゃった」
「いえ、私も私の考えで動いただけです。それに……岸波先輩には、大切なことを教わりましたから」
「なんか言ったっけ?」
「あー……別に覚えてないならそれでいいです。それと、私や天津くんは殆ど試合出来なかったですし……」
金剛さんもそう言うしかない。俺たちは岸波先輩だけの為を考えたわけじゃない。そこには北上明奈という人間も含まれていたのだから。
「北上さん……。なんか、悪いことしちゃったなぁ」
岸波先輩は、少し遠い目をした。
「瑛太が言ってたの。試合が終わった後に彼女から『一度選んだ女くらい最後まで付き合ってみせろ』って言われたって」
あちゃー……北上、お前相手に塩を送ってどうするんだよ……。
「北上さん、本当に瑛太のこと好きだったんだよね」
金剛さんが気まずそうな表情をする。
「見てて思ったよ。北上さんのバスケ……瑛太とそっくりなんだもん。タイミングとか、技とか、スタイルも全部。だから、本気で瑛太のことが好きだったんだって思った」
「それ、明石先輩に言っちゃいました……?」
金剛さんの問いに岸波先輩は首を振る。
「言えるわけない。でも、瑛太はなんとなく気づいてはいるのかも。だから、私にもう一度付き合おうって言ってくれたんだと思う」
真相は本人たちのみが知る……か。北上は本当にそれで良かったのだろうか。それで、立ち直ることが出来るのだろうか。俺には……分からない。
ただ、それが北上の出した答えなのだろう。やはり、あいつは自分で終わらせてしまったのだ。時を戻したとまでは言わないが、自分が明石先輩と付き合えるかもしれない機会を目の前にしたにも関わらず、やはり……彼女はその結末を選んだ。
だが、今度は選べた。彼女の失恋は、彼女が選ぶ暇すらなく現実のみが彼女に降りかかった。だが、今度ばかりは自らその現実を受け入れた。
その差は大きいだろう。
「じゃあ、私は行くね」
そう言うと、岸波先輩は屋上の扉に向かって駆け出し、「おっとと」とこちらを振り向く。
「天津くん! 何でも自分で勝手に決めちゃダメだよ! 女の子って、結局それを受け入れるしかないんだからね!」
最後に釘を刺されてしまった……。
だが、岸波先輩自身がそうだったに違いない。あれだけ明石先輩を思い、明石先輩を最高だと言った彼女ですら、明石先輩の決断には従うしかなかった。それを「彼がそう決めたのなら……」と受け入れるしかなかった。そして、二人は別れてしまったのだ。そこにどんなやり取りがあったのかは知らないが、おそらく身を切るような痛みが伴ったのだとは思う。
「……岸波先輩に言ったの。『このまま終わったら、明石先輩の為にも良くない』って」
不意に金剛さんが喋り出す。
「このまま終わったら……きっと明石先輩はバスケの試合にも影響を出すって。だから……岸波先輩に頼んで、明石先輩を倒せそうな人が試合に出てもらえるよう協力してもらったの」
「そうか……それで北上に……」
あの日の休憩時間に話していたのはそういうことだったのか。
「うん。岸波先輩、それだけは嫌だったみたいですぐに協力してくれた。恋敵であるはずの北上さんに頭まで下げて……たぶん、北上さんからしたらキツかったと思う。好きだった明石先輩を奪われた彼女に『明石先輩の為に試合に出てほしい』って頼まれて……」
「よく出てくれたな」
「出るしかないよ……だって、それを断ったら、北上さんは岸波先輩に対して敗けを認めたことになるもん。だから、北上さんは岸波先輩に「自分も明石先輩のことを想ってるんだ」って、試合に出て証明するしかなかった」
寂しげに彼女は言葉を紡ぐ。
「まさか……それを見越して……?」
その言葉に驚きながら尋ねるが、金剛さんは答えなかった。
代わりに。
「なんか、おかしいよね? 北上さんと岸波先輩は明石先輩のことを想って……明石先輩は岸波先輩のことを想って……天津くんは北上さんのことを想って……私は天津くんのことを想って……そうやって、みんな誰かの為を想って行動したのに、それらが全然上手く噛み合わなくて……」
そう言って苦しげに笑ったのだ。
「そんなもんだろ。……だから、勘違いや、すれ違いってのは起きるんだ」
誰かの為に動いたって、それが誰かの為になるとは限らない。むしろ、事態を悪化させてしまうことだってある。だから、最後には動くことすら止めてしまいそうになる。
ただ、今回はそれを仕組んだ奴がいた。
だから、彼らが気に病むことは何もない。
「全部霧島が悪い」
そう、全ては霧島が悪いのだ。
「霧島くん……か。でもさ? 霧島くんも北上さんの為にやったんでしょ? なら、悪いと言い切れるのかな?」
マジか。ここであいつ擁護すんの……。どんだけ心広いの。
「霧島にされたこと……覚えてる、よね?」
「うん。でもそれは北上さんにも言えたことで、私はこれまで霧島くんとネタにされることを利用してたんだ。そうやって、ネタにされる度に……優越感に浸ってた」
「そこまで自分を貶めなくても良くね?」
「ううん。だってそれは事実だもの。確かに、今でも思い出すと怖くなる。でも、怒りはなくて、なんて私って馬鹿だったんだろうって最後には笑えてくるの。……おかしいかな?」
「いや……まぁ、そう思えるのなら良いことだとは思うぞ」
「うん。私もそう思う。感謝なんて意地でもしないけど、霧島くんがあそこで私を切り捨てなかったら、きっと今でも私は馬鹿な私のままだったんだ」
それはとてもポジティブな言葉だったのに、声は沈んでいた。頭ではそう思えても、気持ちがついていってないのだろう。
「それに、天津くんがいなかったら、どうなってたのか分からない」
そうやって俺を見上げる。
「いや、そんなことはない。金剛さんは自分一人でだって、どうにかしてたさ」
彼女は強くなった。そういった素養が彼女にはあったのだ。遅かれ早かれ、彼女がその強さを自分のものにしていた可能性は高い。本当に、それが早かっただけのこと。
人間ってのは案外丈夫に出来ている。だから、最後には一人でだって、どうにかしてしまう。
「俺が言うんだから間違いない」
少し自虐を交えて言った言葉に金剛さんは微笑んでくれたが、寂しげな色は消えなかった。
「ありがとう」
ただ、そう返すだけ。そして、その表情のまま、彼女は俺に一歩近づいた。
「……天津くん一つお願いしていい?」
「なっ、なんだ」
それに一歩退いてしまう。しかし、背中にカシャンと金網が当たりそれ以上は下がれない。
「私、天津くんをずっと待つって言ったよね?」
「……あぁ」
「でもね? それは結構キツイことなの」
丸い瞳が俺を捉えて離さない。
「私が天津くんに好きだって伝えてるからだと思うけどさ、どうしようもなく気持ちが抑えられなくなる時がある。……それは、こんなに傍にいるのに、天津くんを遠くに感じる時ほど……すごく、思うよ」
「……」
「だから、天津くんがちゃんと傍にいるんだって実感したい」
彼女はそっと、俺に触れた。それはとても優しく、柔らかく。それでもその事に俺はビクリと反応してしまう。それにも金剛さんは辛そうにして、ゆっくりと手を引いた。
「キスしたいって……思うよ」
引いた手は、自らの心臓を掴むように拳は握られた。
「きっとそれをしてしまえば、こんな気持ちはなくなるんだと思う。それをしてしまえばきっと……無条件で私は幸せになれるんだと思う」
辛そうな表情が苦しみをも含む。どうしていいのか分からない虚無感が、俺に向けられた。
「でも……それはダメなんだ。天津くんは、それを見透かして言ったんだよね? ……あの時」
「あの……時?」
「私が、恋人っぽいことをやろうって言った時。天津くんは『それだけ?』って私に問いかけたでしょ?」
「……あぁ」
それは、金剛さんが提案してきたことだ。『恋人っぽいことをやれば、好きの気持ちが分かるかもしれない』と。
「天津くんの言うとおり、私は恋人っぽい事じゃなくて、それ以上のことも望んだんだ。それは天津くんの為じゃなくて、私の為だったんだ。それを見透かされて、私は恥ずかしくなったの」
金剛さんは苦しげに言葉を吐き出す。
「でもさ、私は時々天津くんを遠くに感じることがあって、その度に、あなたがちゃんとそこにいることを確かめたくなる。そんな時に……どうしようもなくキスがしたいとか……それに……それ以上の事を天津くんとしたくなる」
そうやって吐き出された言葉は重く、生々しく、杭の如く俺に突き沈んでいく。
「でも、私は待つしかないから、それとなく天津くんに触れてみるしかなくて……そうやって触れても、天津くんは気づかないの。……おかしいよね私」
それにどう返せばいいのか分からなかった。
きっとこんな時は、何も言わずに抱きしめてしまえば良いのだろう。ドラマでよく見かける。きっとそれをすれば、彼女の苦しみは少しでも収まる気がした。
だが、それは出来ない。
彼女は俺にして欲しいことを、こんなにも分かりやすく訴えていた。
俺は、彼女の望みをこんなにも分かりやすく理解してしまえた。
なのに、それは成らない。
そして、それが分かっているからこそ、俺たちはただ苦しみ、のたうち回るしかない。
簡単にそれは成ってはならない。簡単だからこそ、成ってはならない。
世間が出してる答えはすぐ目の前にあるのに、俺たちはそれを取ろうとはしない。それはあくまでも、世間の答えだから。
やはり、痛いほど分かっているのだ。
これに、その答えを当てはめてはならない、と。
「……お願いってのは?」
「私が天津くんを待てる勇気が欲しい。どこでも良いから、天津くんから……私に少しだけ触れて欲しい。そしたら、天津くんがここにいるんだって、きっと少しは実感できる」
いやらしいニュアンスなどどこにもない。企みの思惑など微塵もない。
ただ、そこには純粋な願望だけがあった。
「それだけなの」
その懇願に、浅く息を吐き出す。
触れるだけ。そして、それは『俺から』。
だが、それをしてしまえばきっと彼女はもっと苦しむのかもしれない。人は強欲だ。一度許してしまえば、再現なくそれ以上を欲してしまう。
だから、きっとそれをしてしまえば、りんちゃんのように、彼女もそれ以上を望んでくるかもしれない。
あの時はそれを見越してなかった。だが、今は違う。それをしてしまう重みを知ってしまっている。
だから……俺はそれすらもしてはならないのだ。
動かぬままの俺に、金剛さんは失望とも呼べる表情を浮かべる。そして、諦めたように笑ってうつむいて――。
「何度もは出来ない」
俺はそう言い、金剛さんの頭にそっと手を置いたのだ。
「……だから、俺は俺の答えを全力で探す。それを約束する」
そして、なんとかそれを言い切った。
それをしてはならない。だが、そのしてはならぬことを、俺は既にしてしまっていた。
気づかぬうちに、知らぬうちに、それを自分の為だと取り繕って。
だから、してはならぬ意味は今や殆どない。それでも……これは簡単には出来ない。それをすれば、やればやるほど、彼女には期待させてしまう。許されたのだと思わせてしまう。
だから、たぶん何度もは出来ない。
そして、そのうちに俺は何かしらの答えを出さなければならない。りんちゃんが、金剛さんが前に進める何かしらの答えを。
それが何なのか全然分からない。それでも、俺は既にその未知に踏みいってしまっている。それを踏みいってないことにして、知らぬ存ぜぬを貫き通すことは、あまりにズレているような気がした。
それだけは、ちゃんと分かった。
「うん……うん。待ってる」
滲む声音には、熱いものが混じっていた。それが何なのかを俺は完全に理解してあげられなかったが、冷めきってしまう前に、今の答えは出せたのだと安堵する。
「全力で考える。だから、少しだけ待ってて欲しい」
「うん……うん」
こくこくと金剛さんは何度も頷いた。そして、俺の時が刻々と動き出したのをどこかで感じ取った。
それは、いつか俺が終わらせてしまった時。終わらせたと思っていた時。終わってなどいなかったのだ。ただ、壊れてしまっていただけ。
だが、動き始めた時はあまりにも現在から置き去りにされていて、そのことに呆然としてしまいそうになる。畏れおののきそうになる。
……それでも。
俺は取り戻さなければならないのだろう。
そのことを、今その瞬間に理解したのだ。
 




