霧島の勝ち。だが
――男バスの明石先輩はヤリチンだったらしい。
そんな噂が流れ始めた。発信元は軟式野球部と言われていたが、これに関して信憑性は定かではない。というより、発信元はサッカー部の霧島なのだ。
そういった噂は、はじめ屋外スポーツの部活内で囁かれていたらしい。部活動生には、目に見えない派閥がある。それは主に四つに分けることができ、『武道系』『グラウンド』『屋内』『文系』の四つ。表面上は、同じ部活動生のくくりとして意気投合しているのだが、やはり戦う場所を同じくする部活の方が圧倒的に親密だ。
だから、その噂はグラウンド勢の中でだけ流れ始め、そして、その噂は屋内勢の噂であるために、他よりも簡単に外部へと漏れだした。やがて、漏れだした噂は部活動生ではない者たちにも簡単に染みだし、あれよあれよという間に、それは全校区の噂として行き渡ってしまったのだ。
それを教室などで囁く生徒に、屋内スポーツ系統の者たちは殆どいない。特にバスケ部と近くにいるバレー部やバド部の者たちは固く口を閉ざしていた。ちなみにだが、この学校では空手部もこの屋内勢に属している。剣道部や柔道部が道場を有しているのに、空手部は道場を有しておらず、体育館で練習を行っているからだ。だから空手部は武道系にも関わらず、わりと屋内勢と仲がいい。これは硬式テニス部にも言えたことで、グラウンド勢の中にいるにも関わらず、部専用コートを有している為に、あまりサッカー部や野球部と話をしていない。
何が言いたいのかといえば、そういった部の格差や派閥が上手く噛み合い、その噂は実に速やか、且つ、効率的に全校生徒に広まったという所だ。
おそらく霧島がそうなるよう仕組んだのだろう。そういったネットワーク事情を掌握しているあたり、彼の有能さがここでもかいま見えてしまう。
そして、霧島の意地汚いところは、この噂に関して寛容である態度を貫いているところだ。何故なら、ヤリチンという噂がたった生徒はこれまでにも少なからずいて、それがサッカー部の先輩にも当てはまってしまっていたから。しかし、この噂には、遅れてもう一つ付け足された話があった。
――彼はイジメっこだ、という噂。
これに関して霧島は、あまり賛同出来ない態度を取った。それが許してはならないという雰囲気を伝染させ、やがて、その噂が男バスの先輩が悪であるという事実に変貌していく。
霧島は、男バスの明石先輩に関する情報を二つ同時に持ち得ていたにも関わらず、『彼がヤリチンだ』という情報と『彼がイジメっこだ』という情報を分けて時間差で流したのだ。
つまり、ヤリチンという噂に対して寛容だった者たちが、付け足されたイジメっこに断固拒絶をしたことにより、その『寝返りの主張』が噂が拡大させてしまったのである。
彼らは、悪気があって噂を広めたわけではない。ただ、自分の態度を覆すため、周囲へとそれを主張したに過ぎない。それこそが、噂を急速に広めたのだ。
端的に言えば、彼らは敵に寝返るため、味方の情報を敵に流したようなもの。それすら霧島の思惑通りであることに、一種の恐怖を感じざるを得ない。
彼は、ヤリチンという噂で構築されたネットワークに、後からイジメっこという悪を流し、結果的に明石先輩を悪者に仕立てあげたのだ。
だから、それまで口を閉ざしていた屋内勢ですら、口を揃えて彼を断罪し始めたのである。
「――明奈、良かったじゃん」
「――付き合わなくて正解だったね」
そんな会話が教室で見られたのも、やはり霧島の思い通りなのだろう。女子の部活動生を中心として、そんな北上への声かけが頻繁に行われていた。
やがて、その断罪により、噂ではなく紛れもない事実が結果として生まれることになる。
――男バスの明石先輩が彼女と別れた。
それは、あまりにも急な展開だった。しかし、それを知った者の口から出てくるのは「当然」「自業自得」の二つ。中には「リア充の爆発だ!」なんて言ってる輩もいた。だいたいそれが言いたいだけの美術部。どこからインスピレーション受けたよ……。お前らが太陽の塔を作るのは無理ですからね。
「――岸波先輩から別れた……わけじゃ、ないよね……たぶん」
金剛さんがお弁当を広げながら呟く。あの日から、金剛さんは再び屋上にきて昼食を共にしていた。そこに何の意図があるのかを……俺は聞いていない。彼女も話そうとはしなかった。
「さぁな。ただ、岸波先輩が噂で別れを切り出した……とは考えづらい」
「だよ、ね。じゃあ……自然消滅なのかな?」
おそらく、それは違うのだろう。自然消滅なら、こんなにも早く噂が広まったりしない。つまり、どちらかが明確な意思を持って別れを告げたのだろう。
そしてたぶん、それは岸波先輩からではない。だから、明石先輩から別れを告げた。もちろん、噂が原因で。
大半の者たちは、明石先輩がフラれたと思い込んでいるのかもしれない。だが、岸波先輩を知ってしまった俺と金剛さんからしてみれば、もう一つの真実がどうしようもなく見えてくる。
つまり、明石先輩から岸波先輩に別れを告げたこと。そしてその理由はおそらく……岸波先輩を守るため。
自分についた悪い噂が、岸波先輩にも及ばぬよう彼女を切り捨てた、という推測だ。
これはあくまでも推測に過ぎない。だが、俺たちにはあの岸波先輩が明石先輩を切り捨てるようにはどうしても思えなかった。
そのことに、金剛さんも気づいているのだろう。だから、「自然消滅」を口にした表情は浮かなく、声は落ち込んでいた。
「どちらにしたって、俺たちが口を挟めるような事じゃないな」
「……そう、だよね」
すべては霧島の思惑通り。そのことに、悔しさを感じないと言ったら嘘になる。だが、それを受けて別れてしまった二人をどうにかしてやろうというのは、あまりに傲慢であるとも思えた。
結局、これで北上は事実上救われたことにはなるのだ。
俺の完全敗北だった。
そんな日の放課後、俺は北上が金剛さんを連れ出すのを目撃してしまう。それは帰宅部や練習に向かう部活動生に混じってさりげなく行われた為に、気付く者は殆どいない。なにか嫌な予感がして、俺はそれを尾行してしまったのだ。
彼女たちが行き着いたのは校舎裏。少しピリついた空気の中で、北上が口を開いた。
「――いい気味だ、って……思ってるんでしょ?」
「……なにが?」
「分かってるくせに……。私があんたに言ったこと、今度は私に当てはまるもんね?」
校舎の壁際で聞いてるせいで会話しか聞こえない。それでも、内容は十分に理解できた。
「そんなこと思ってないよ」
凛とした金剛さんの声。そこには、迷いなど一切ない。
「嘘だね。ハッキリ言ったら? ヤリチンでイジメっこを好きになった私には、男を見る目がない……ってさ」
「言ったでしょ。思ってないよ、そんなこと」
北上の舌打ちが聞こえた。
「そうやって平然としてるくせに、心の中では笑ってんだろ? マヂムカつくから止めてくんない?」
「ムカつくのは……たぶん、ただの嫉妬だよ。自分の恋は上手くいかないのに、北上さんには、私が上手くいっているように見えるから……だから嫉妬してるんだよ」
「はぁっ!?」
北上の声が荒ぶった。
「あんたに、何が分かるわけ!?」
それに、金剛さんはとても冷静に言ったのだ。
「分かるよ。私も……同じ気持ちだからさ」
そして、何故だか少し、悲しみが混じっていた。
「私は上手くいってないよ。ただ、そう見えるだけ。だって、私は全然そうは思えない。全然……思い通りにいってない」
その落ち込んだ声音に、しばらく無言が続く。
「……だからね。私は曲がりなりにも北上さんの気持ちは分かるよ。盗られたって思う気持ちも分かる」
「分かるわけない……あんたなんかに分かるわけない。私は中学の時から瑛太が好きだった。ずっと、好きだったんだ。だから、同じ学校を選んだし、彼にもっと近づきたくてバスケ部に入った。上手くなればなるほど、瑛太に近づいていく気がしてた。なのに……」
北上の声は微かに震えていて、悔しさが滲む。
「瑛太が……違う女とヤってることなんて知ってた。瑛太があまりに突出してたから、バスケ部の中で浮いてたのも知ってた。たぶん、そのストレスの捌け口がそんな風に出てたんだ。私はそれを知ってた。だって、彼が私にバスケを教えてくれてる時は優しかったし、そんなこと……私に求めたりしなかった」
悔しさには、水気が混じりはじめる。……やはり、北上がバスケ部ですぐにレギュラー入り出来たのは、明石先輩と繋がりがあったからだったのだ。
「ずっと遅くまで練習してたんだ。ずっと、私は瑛太だけを見てた。なのに……それを、あんたなんかが……分かるわけない」
また喧嘩にでもなるのかと思ったが、そうはならなかった。
「辛いよね、そういうの。それを誰にも言えないことも、誰にも分かってもらえないことも、さ。……話せば、きっとその人が悪者になるのが見えているから。きっと……誰もが善意でそれを否定しちゃうから」
霧島の思惑通り事は運んだ。だが、彼の目的でもあった北上を立ち直らせるというのは、少し無理だったらしい。
北上は全て知っていたのだ。その上で、やはり明石先輩を好きだったのだ。
人を動かせても気持ちまでは動かせない。霧島の真の目的は、失敗に終わっていた。
そして北上は全て知っていたからこそ、その気持ちを赤裸々にすることは出来なかった。出来なかった想いは何年もの間、告白できずに彼女の中で閉じ込められてしまった。
彼女自身が、それをしたのだ。
「ねぇ、北上さん。まだ明石先輩のこと、好きなんだよね」
金剛さんが語りかける。
「だったらさ、告白しようよ」
そして、北上にそう提案したのだ。
「北上さんが明石先輩を好きだったなら、それをちゃんと伝えないと。全部知ってて、それでも好きだったんなら、それもちゃんと伝えないと。そうやって自分を欺いたって無理だよ。だって、好きって気持ちが無くなることはないもん」
それはダメだ……金剛さん。たとえ北上が告白したって、断られるのは目に見えてる。しかも、その理由はおそらく……北上に与えてやるべき理由じゃない。
俺の想像通りなら、明石先輩は岸波先輩を思って別れを告げた。そんな人が別の女の子を受け入れるはずがない。きっと北上も、岸波先輩と別れた同じ理由で拒絶される。それは、北上に与えてやるべき理由じゃない。
そんな理由じゃ、きっと……北上は納得出来ない。
なにせ、りんちゃんがそうだったのだ。だから、北上が振られる理由は『明石先輩が岸波先輩を好きだから』という正当な理由でなければならない。
だが、事実上、明石先輩はその理由で北上を振れない。何故なら別れてしまったから。
明石先輩と岸波先輩はちゃんとしたカップルだったのに、それが霧島によって壊された。壊された関係に自分の想いを告げても、結局何にもならない。
だが、もしも明石先輩がちゃんとした理由で……ちゃんとした気持ちで北上を振るのなら話は別だ。
それを北上は受け入れるしかない。それは北上にとって最も辛いことかもしれないが……そうでなければ意味などない。
その瞬間、俺は理解した。
北上が失恋から立ち直る、一番良い方法を。
そもそも、北上のは失恋などではなかった。彼女が勝手に終わらせた恋慕に過ぎない。
だから、その恋慕は本当の恋として取り出してやらねばならない。そしてその恋には、正当な結末を与えてやらねばならない。
それには……どうしたらいいのか。
簡単だ。元に戻せばいいのだ。
まだ、北上の恋が恋であった所にまで。そして、それを彼女が勝手に終わらせてしまう前に、その想いを昇華させるしかない。
それには……。
俺は静かにそこを離れた。そして、その足で体育館へと向かう。
これは、やはり……後だしに近いのだろう。結局俺は、霧島に対してそういったやり方でしか対抗出来ないのかもしれない。
だが。
霧島は最後まで勝つだろう。たとえ俺が後だししても、彼の勝利は揺るがない。
何故なら。
俺が……負けてやるからだ。後だしジャンケンで、俺がわざと負けてやるからだ。だから、霧島は負けない。
そして、負けるのはこの俺だ。
「見せてやるよ。霧島……試合に負けて、勝負に勝つってやつをなぁ……」
もう足は止まらなかった。その勢いのまま、俺は体育館のドアをド派手に開いてやった。
「――明石瑛太ぁぁ! 岸波陽子を掛けて、この天津風渡と勝負しろぉぉぉ!」
夏の熱気が蒸せかえる体育館で、俺の叫び声は、大きく響き渡ったのだ。




