霧島きゅん、動く
水を打ったように教室が静まり返った。
ガララッと扉が開き、授業に少し遅れてきた金剛さんと北上。金剛さんの顔の頬には大きな絆創膏があり、見るからに痛々しさが刻まれている。その傷痕は、彼女たちの喧嘩によるものだろうということを既にクラスメイト全員が知っていた。
授業をしている教師も知っているのだろう。だから、何も言わず席につくよう指示をしただけ。
金剛さんに対し北上に傷はない。ただ、その顔は腫れて少しむくんでしまっていた。女の子同士の取っ組み合いなど小学生以来見ていないが、きっと壮絶なものだったに違いない。
授業が終わると、心配の表情を貼り付けた者たちが彼女たちに近づく。
「その傷大丈夫なの?」
「うん。ただの擦り傷だから」
「北上さん、もう少し冷やしてきた方が良いんじゃない?」
「そのうち引く」
二人ともそれに素っ気なく対応していた。なんとなく二人とも近付きがたい雰囲気を放っている。口に出さずとも「放っておいて欲しい」という主張をしている。にも関わらず、話しかけていく猛者たち。きっと知りたいのだろう。根掘り葉掘り聞きたいのだろう。喧嘩の原因とか、彼女たちの気持ちとか、そしてそれらを話題にしたいのかもしれない。いや……考え過ぎか。普通に心配しているのかもしれない。そうやって、人を疑う癖は全然直っていない。
俺は席を離れて金剛さんに近づいていく。聞きたいのなら、ストレートに聞けばいいのにな?
この俺みたく。
「先に手を出したのは?」
ちょっと群がってた奴等が驚いていた。金剛さんはチラリと俺を見て。
「教師と同じ事を聞くんだね」
なんて言った。
「重要なことはそこだからな」
「そう……。先に手を出したのは私」
自虐的な表情を浮かべて彼女は答える。
「そう、か」
ちょっと意外だった。先に手を出したのは北上の方だと思っていたからだ。正当防衛なんて過剰な考えはないが、先に手を出したのが金剛さんならば、北上がそれに応戦した理由にはなるのだろう。……ただ、おそらく挑発や煽りによって先に喧嘩を売ったのは北上なんだろうな。
俺はそれだけで会話を終わらせて席に戻った。
「なにあれ……」
「心配とかしないんだね……」
群がっていた連中の声が、矢のように背中へと突き刺さる。ただ、それはあまりにか細くて、全くダメージになっていない。
心配するほどの怪我ならば、きっと彼女たちは教室に戻ってこない。修復できないほどの問題であったなら、やはり彼女たちは戻ってこない。つまり、彼女たちが教室に戻された時点で殆どの問題は既に解決されてしまっているのだ。そんなの、心配してもただの無駄だ。
解決出来ていないとすれば、北上と金剛さんの仲だけだろう。ただ、二人はクラスメイトだが別に仲良くする必要なんてない。誰とも仲良くしてこなかった俺がそう判断するのだから、それは間違いではないはずだ。
そして、物理的攻撃における悪者とは常に先手を打った者だ。
そこにどんな理由があろうとも、先に暴力を振るった者が悪い。だから、理由なんて聞く必要はない。大切なのは、どちらが先に手を出したのかだけ。
それだけなのだ。
彼女たちは、その後も何人かのクラスメイトに付きまとわれていた。その者たちが俺には卑しく思えてしまって仕方がない。「あなたのことを本気で心配してます」的な態度が気にくわない。彼らが知りたいことは、金剛さんと北上だけの問題だ。それを聞き出したところで、どうすることも出来ない癖に。
その光景を見ていたくなくて俺は教室を出る。気分転換に廊下の窓から外の空気を吸っていると、霧島が近づいてくる。……これでは気分転換になりゃあしない。
「――天津くんは、誰が悪いと思う?」
唐突な問い。そうやって自分の意見から述べないのは卑怯なやり方だ。あれだ、「今度休み空いてる?」なんて聞いてくる奴等と一緒だ。それに「空いてる」なんて答えると、だいたい面倒臭い予定に巻き込まれるのと一緒。こちらは「空いてる」と答えてしまった以上、それを断りづらい。そして、それこそが奴等の作戦でもあった。
思い出すなぁ。中学の頃、女子から上目遣いで「放課後空いてる?」なんて言われた時を。ちょっとドギマギしながら、少し期待をしながら、それを何とか押し隠して「空いてる」なんて言ったら、掃除当番押し付けられたんだよなぁ……。はぁ、卑劣なやり方過ぎる。そしてあの頃の俺はホント馬鹿。それを承諾して「ありがと!」なんて言われた笑顔にさえドキッとしてしまって、「今度の掃除当番変わるからっ!」なんて秘め事みたく約束したが、その今度は永遠のゼロ。ほんと、片道切符の特攻隊過ぎる。隠れた英雄なんだよなぁ、俺。
そんな卑劣な霧島に……それでも、俺は意見を述べた。
「金剛さんだろ」
そう、それが喧嘩の結末だ。悪いのは先に手を出した金剛さん。その事実は覆らない。
それに霧島は面白そうに笑う。
「良いね。そういう結果主義的な考え」
「主義じゃない。結果は結果だろ」
「そうかな? 少なくとも、俺たちはそこで判断しない。彼女たちが喧嘩にまで至った経緯や原因を重視しようとする。そうやって根本的な解決を求めようとするんじゃないかな?」
「勝手に仲間にしてんじゃねぇよ。あと、それを求めるのは本人たちであってお前じゃない。お前が言う『俺たち』は間違ってるし、勘違いだからな」
だが、霧島の笑みは崩れなかった。
「本人たち、ね。……でも、それに当てはまるのは、なにも本人たちだけじゃないよ。彼女たちがいるこのクラス、そこにいる者たちが願うこともある。そして、願うからこそ知りたいんだ。そして、出来るなら力に成りたいと思う」
「……吐き気がする偽善は止めてくれ。奴等は、居心地の良い仲良しクラスを保っていたいだけだろ。なにも彼女たちの為じゃない」
「そうなのかもね。でもさ? それが結局彼女たちの為になることだってある。結果を重要視するのなら、それは否定出来ないだろ?」
「……まぁ、な」
それに霧島は満足げに頷く。そして。
「なら、俺がこの問題を解決するよ。このまま夏休みになんかなったら、二学期はあまり楽しくなさそうだからね」
なんて平然と言った。
「別に……今だって楽しくはないだろ」
「可能性の話だよ。それに、二学期はクラス全員で取り組まなきゃならないイベントがたくさんあるしね? ここでクラスの仲を修復しておくのは、悪いことじゃない」
「下手に手を出せば火傷するぞ」
「俺が下手を打つとでも? 心配してくれなくて良いよ」
その、のぼせ上がった考えに俺はため息を吐いた。
「……言い方が悪かったな。火傷するのは彼女たちだ。お前の事なんか心配してねぇよ。だから訂正しておく。下手に手を出せば火傷させるぞ」
「あぁ、そっちか。でもさ、このままってわけにもいかないだろ?」
「それを決めるのはお前じゃないって言ったはずだ」
それでも、霧島は笑うだけ。
「まぁ、何とでも言いなよ。そうやって否定したって、俺を止めようとはしないんだろ? ……なにせ、君はいつだって結果主義の『後だしヒーロー』だから、ね?」
悪意が込められた言葉。だが、それは苦しくも的を得ていた。
何が出るのか分からないジャンケンにおいて、絶対に勝つ方法があるとすれば……それは後だしだけ。
それは世の中にも例えられた。いつもいつだって、正義が動くのは悪が露見した後だ。警察が動くのも事件が起こった後だ。ヒーローが遅れて登場するのは、悪を悪と確定付ける為だ。
そして、それが一番分かりやすく手っ取り早い。
何もかもが終わった後で、解決を考えた方が効率的なのだ。
だから、正義はいつだって後だしだ。……まぁ、実際には悪の後に動くから、それが正義に見えてしまうだけなのだが。
だが。
「霧島。その考えは捨てた方がいいな。お前の考えは古い」
「古い?」
「あぁ。後出ししないヒーローはいるんだぜ?」
そう。事件を未然に防ぐために今の警察は躊躇なく動く。悪が露見する前に、その芽を摘み取るヒーローだっている。ただ……それはとても見えづらくて分かりづらい。だから、世間はそれを評価しにくい。
電車だってそう。鉄道員における使命とは、安全を守ることにある。時間通りにやってくる電車を、多くの人々は客に対するサービスだと勘違いしているが、実際はそうじゃない。定刻を守り運転を行うことは、それ即ち電車と電車との間隔を空けることに繋がる。それは、最終的に電車と電車との衝突事故という、最悪の事故を防ぐ為のものだった。だから、電車は時間を守り安全の担保を得ている。ただ、それは普通の人たちには分からないだけ。そして、彼らはそれを説明しようとはしない。前の電車が三分遅れたら、やはり間隔を空ける為に三分遅らせ、ただ謝るだけだ。まぁ、それは基本的な列車運行の概念であって、技術力が進歩した現代では、そこまでやる必要はなくなったが。
ただ、そういった誉められもせず評価されにくいヒーローは確かにいる。
「お前の方こそ『後出しヒーロー』だろ? 霧島。……今度は誰を悪者にする気だよ」
彼は俺に問いかけた、「誰が悪いのか?」と。つまり、霧島は明確な悪を作り出そうとしているのだ。そして、それを滅することでヒーローになろうとしているのだ。そして、その考えこそが悪。
「ふっふっ……ほんと、面白いね天津くんは」
「笑って誤魔化すなよ? もう決めてんだろ? クラスの仲なんて下手な言い訳してんじゃあないよ。お前の都合で金剛さんを悪者にしたくせになぁ?」
「いいなぁ、ほんと。好きだよ天津くんのそういうところ。ゾクゾクしてくる」
「良いから答えろよ霧島」
彼は、もはや隠すことない悪意を浮かべて答えてくれた。
「今回の騒動、悪者にすべきは北上さんの想い人だよ」
とても面白そうに、邪悪に、嬉しそうに。
「彼が悪者になれば、北上さんだって失恋を断ち切れる。彼女が立ち直ることが、かえってクラスの為になる。彼女たちはクラスメイトだからね? 俺は彼女たちの味方なんだよ」
酷く歪んだ回答に、俺は無意識に舌打ちしてしまった。
「スケープゴートにも程があるぞ。その人は全然関係ないだろ」
「ない、とは言い切れない。そして、夏休みまであと残りわずか。その時間だけで北上さんを立ち直らせるには、それが一番手っ取り早い」
「簡単に言ってるが、悪者を仕立てあげるのも時間かかるだろ」
「普通の人ならね? でも、俺はそのやり方も効果的な手段も知ってる。だから、出来てしまうんだよ」
「最低な野郎だな」
「それ、もしかして褒めてる?」
「そんなツンデレしねぇよ。言葉の通りだ。鵜呑みしていいぞ」
霧島は嬉しそうに目を細めた。
「なんにせよ、俺はそう動くよ。……天津くんが後だししないなら、それはそれで見物かな?」
「動くなんて言ってないだろ」
「……君は動くよ。俺が明確な悪だと知った以上、君は動かざるを得ない」
「……変な期待すんなよ。思わず応えたくなるだろ?」
「期待しちゃうなぁ。いつまでも、そうやって天津くんはヒーローでいて欲しいな」
休憩が終わるチャイムが鳴った。霧島は途端に爽やかな笑顔に戻って「じゃね」なんて言ってくる。俺は少ししてから教室に戻った。
霧島は最低だ。そしておそらく、本当にやってのけるのだろう。有言実行。だが、それが北上の為になると思っているのは、大きな間違い。
ただ……彼の着眼点は正しいのかもしれない。今回の騒動を辿るなら、やはり北上の失恋が原因であることは言うまでもない。だが、それをどうにかしてやろうなどというのは傲慢だ。それを利用することは明らかな悪だ。
それを霧島は、敢えて見せてきたのだろう。……俺を動かすために。
罠だと分かっていた。たぶん霧島が語ったことは、彼の全てじゃない。彼の真の目的は、きっと俺への復讐にあるのかもしれない。
それでも。
――君は動くよ。
その言葉を思い出して笑ってしまう。きっと、霧島みたいなのが人の上に立つんだろうなぁと思ってしまう。人を動かし人を動かせる……彼のような者が、やはり人の上に立つのだろう、と。
だから。
やはり俺は動いてしまうのだ。俺が望む俺で在るためだけに。
ただ、その為には俺も少しばかり情報を得なければならない。
「――金剛さん、ちょっと良いか?」
だから、放課後になってすぐ金剛さんに話しかけた。彼女たちの喧嘩の全貌に、なにか情報がないかを知りたかったからだ。
だが。
「ごめん、今はまだ……天津くんと話したくない、かも」
かわされてしまう。北上ももう教室から出ていってしまい、俺は……帰るしかなかった。
そうやってトボトボと一人バス停に向かう。
そこには、見覚えのある制服を纏う者がいた。
姫沢の制服。だが、その者に見覚えはない。
その者は誰かを探しているようで、嫌な予感がして……やはり、俺を見つけると真っ直ぐにやってきた。
その制服がなければ、一瞬男かと見間違うほどに髪はショート。そんな彼女は、俺の前で止まり笑顔を向けてきたのだ。
「――良かった。あなたが天津さん、ですよね」
俺の名前を知っているということは、おそらく日向舞やりんちゃん関係だろう。もしや言伝てでも預かってきたのだろうか? なんて考えながら頷いてやる。
すると、彼女は笑顔のまま俺に告げた。
「単刀直入に言いますね? もう金輪際、日向先輩とは会わないでください。連絡もダメです」
一瞬、何を言ってるのかと思った。思考が停止する。そして、考える暇など与えずに彼女は続ける。
「この――糞野郎が」
最低の悪口が、その綺麗で淀みない表情から浴びせられた。




