ついた先。彼女の気持ちと思惑と……
「――ここは?」
バスの終点で降りると、りんちゃんはそこから近い駅で電車に乗った。揺られること二駅目で彼女は降りる。
そこは何もない住宅街。それから彼女はスマホを取り出して、地図アプリで目的地を探し始めた。そうやって歩くこと十分ほど。
俺たちの前には、ボロいアパートが見える。
「あのアパートの206号室。そこに住んでる人が、天津くんの信号無視をTwitterで上げた人だよ」
その事実に、俺は言葉を失う。りんちゃんは平然としている。笑顔はない。だが、怒りのようなものも感じない。
「……どうやって」
「ちょっとしたツテでね? 調べてもらったの。……まぁ、それを調べてもらうにも、ちょっとした手続きとかあったんだけどさ、あのTwitterの人、天津くんのやつ以外にも悪意的な呟きをしてて、犯罪に繋がりそうな可能性を秘めてたからこそ出来たんだ」
「手続きって」
淡々と述べるりんちゃん。
「あと、調べてもらった時に、この情報を悪用しないよう法的な契約も私は交わしてる。まぁ、私にその能力が認められなくてママにも協力してもらったけど」
スラスラと出てくる言葉たちに、俺は驚愕するしかない。
そして、最も驚くべきことを彼女は言い放ったのだ。
「――でも、その契約を天津くんは交わしてない。だからこの事を知った天津くんが何をしようと関係ない。咎められるのは私とママだけ」
「何を言ってるのか分かってるのか……」
それに、りんちゃんは俺を窺うように見て。
「分かってるよ」
そう、言ったのだ。
そして思い出す。りんちゃんが、日向舞と共に学校に来て最後に言ったことを。
「それでも私は許せない。許したくなかった」
声音は硬く乾いていた。毅然とした彼女には、強い意志があった。
「どうする? ここで何かしてもいいし、天津くんが後から何をしたっていい。ただ、私は何も出来ないから、黙って見ていることしか出来ない」
りんちゃんは、そうやって俺と相対する。
「選んでいいよ。私は選べないけど、天津くんは選べる。その答えに私は従う」
ジッと見つめられる本気の視線。傾いた日の光のせいか、その目には燃えるようなものが見えた気がした。
俺はそれに、少し息を吐いてから訪ねる。
「りんちゃんが許せない理由はなんだ?」
「当然、天津くんが酷い目にあったから」
「……それだけか? 個人的な恨みとかは?」
「それだけだよ。そして、それが全て。私は天津くんを好きになりかけてる。だから、天津くんを傷つける奴は嫌い」
ハッキリとりんちゃんは述べた。
そして、俺はその言葉に安心した。
「それは少しだけ違うな? 俺の事を好きになりそうなのだとしたら、対するその人のことも嫌いになりそうだってことだ。まだ、嫌いになったわけじゃない」
彼女は少しだけ首を傾げてみせた。
「だったら?」
それに俺は笑ってやる。
「なら、俺は何もしない。ここで俺が何かをして、りんちゃんまで咎められるなら尚更だ。確かにあれには少しの悪意があったのかもしれない。だが、俺も悪かったんだ」
「いいの?」
「あぁ、俺は許すよ。恨みもない」
「私はちゃんと仕返しして欲しいけどな。その人に「バレてるからね」って言ってやるくらいでも」
「関わらない。関われば、何が起こるか分からないからな。予想できないことは実行したらダメなんだ。それは博打と一緒だ」
「臆病者なんだね? 天津くんは」
りんちゃんが言葉に毒を混ぜた。それでも、俺は笑うだけだ。
「俺は臆病だからボッチなんだ。今頃気づいたのか?」
「そうやってると、いつかまた同じ目に逢うかもしれないよ? 誰かを許して、甘やかして、最後には天津くんが傷つくかもしれない」
「俺は傷つかない。なにせ最強だからな?」
「臆病者なのに最強なんだ?」
「違うな。臆病者こそ最強なんだ。誰にも味方せず、誰とも戦わない。勝ち負けを超越してしまうからこそ、俺は最強なんだよ」
「なにその理屈。全然強くない」
「言っただろ? 劣っているモノは武器になるって。俺は自分が臆病者であることになんの後ろめたさもない。むしろ、それが俺の強みなんだ。ナマケモノ見ただろ? あれと一緒だ」
彼らは、動かなければならない過酷な自然界で、動かぬことを武器とした。 それは、周りから見ればひどく頭の悪いやり方だ。にも関わらず、彼らは長い時を生き残った。絶滅していく種を横目に、彼らはただ確実な結果だけを残してきたのだ。
「俺は動かないよ。ここで動いたって、何も生まない。それが分かってるから動かない」
というよりも、動かない利を知っている、というのが正しい。俺が何もしなければ、何も起こらない。それは返ってりんちゃんの為でもあり、俺の為でもある。ただ……それはあまり言いたくない。
なのに。
「天津くんがその結論を出したのは、誰の為?」
なんて、彼女は聞いてきたのだ。
「俺の……為だ」
「ほんと? 私の為じゃない?」
「りっ、りんちゃんは仕返しして欲しいんだろ。俺がりんちゃんの事を思ったら、ここで動く……だろ」
だが、彼女はそこで、にひっと笑ってみせた。
「違うね。天津くんは優しいから、そんなこと絶対考えてない。いつもいつだって、どうしたら誰かを守れるか考えてるんだ。そして、守るために誰かを傷つけようとはしない。向けられた刃を自分が受けて……いつも平気な顔しているんだ」
そして、彼女は笑いながらうつむいた。
「そんなことな――」
「分かるよ!」
その瞬間、りんちゃんは俺に抱きついてきた。突然のことに言葉を失う。
「分かるよ……あの時だってそう。天津くんは、そうやって簡単に自分の弱い部分を見せるんだ。それを勝手に最強だとか言って、私を励ましてくれる。私が……同じように弱い部分を見せたって、天津くんは簡単にそれを許してしまう」
回された手の指が背中に食い込む。だが、痛くはない。
「いつも誰かが傷つかないことだけを天津くんは考えてる」
りんちゃんはそう結論づけた。だが、そうじゃない、
「俺は、自分が傷つきたくないだけだ。だから、誰も傷つけないだけなんだ。俺は俺のことしか考えてない。結果的にそれが誰かの為になっただけに過ぎない」
りんちゃんは顔を俺に埋めたまま黙っていた。
やがて。
「私ね? 自分がズルいことに後ろめたさを持ってた。誰かを利用して、誰かに乗っかって、いつも自分が勝ち馬に乗ろうとしていることに罪悪感があった」
そして、にゅっと顔だけ出した。
「だから、自分だけでやってみようと思った。霧島くんを自分だけで振り向かせてやろうと思った……。でも、舞ちんと麻里香ちゃんを見てたら不安になって……今まで自分はズルばかりしてたから、一人になったら自信なんてなくて……だから、焦っちゃって……」
それを俺は聞くことしか出来ない。
「……でも、それを天津くんは許してくれた。私が許せなかった部分を、天津くんはあっさりと許してくれた」
それはまるで、訴えにも似ていた。
「その時にズルくていいんだって思えた。だから、天津くんみたいにそれを強みに出来るかもしれないってはじめて思えた。でもね? それでも私は不安だったんだ」
彼女は何かを必死に訴えている。気持ちを吐露して、言葉を労して。だから、彼女が何を伝えたいのか聞くしかなかった。
「だから、またズルをしたの。今日ここに連れてきたのは、仕返ししてもらう為じゃないの。天津くんが本当に私のズルさを許してるのか試したかっただけ。本当は分かってた。天津くんが何もしないこと。だから、ママにもそう言って協力してもらって……」
そうか、そういうことだったのか。
「私はズルいんだよ。こうやって、天津くんも簡単に騙そうとする。自分の不安を消すために、簡単に騙そうとする。だからっ……」
そこで彼女は言葉を切った。だから、なんだ。
だから……なんだというのだ。
「人間なんて、みんなズルいだろ。それに、騙された俺が悪い」
そう。人はみんなズルい。だから、自分の為に他者を利用する。騙そうとする。りんちゃんの言うことはりんちゃんだけに当てはまることじゃない。それを自分だけに当てはめようとするのは、やはり彼女が強いからだ。弱い者はそうじゃない。「みんなやってる」それを合言葉に結託するのが実状だ。それを彼女は許したくないだけなのだ。
彼女が許したくないなら、誰かが許してやればいい。
それがたまたま俺だっただけの話。
今、それが分かった。
「りんちゃんが俺を好きになりそうって理由が分かった。だが、それを許してくれる奴なんて探せばたくさんいると思うぞ。ただ、それを言葉にする機会がないだけだ」
それにりんちゃんは、少しだけ恨めしげに俺を見上げ。
「天津くんしかいないよぉ……」
なんて超ド級の甘い声を出した。
「もう、天津くんしか見えないよぉ……」
なんて、最強の追い討ちをかけてきた。
「麻里香ちゃんの気持ちがようやく分かった……麻里香ちゃん、自分では隠してるつもりか分からないけどさ、すっごく溢れちゃってるもん」
「なにが……」
「気持ちが。私が今そうだもん……抑えられないよぉ……」
それまで痛くないほどに食い込んでいた指が、もっと深く背中を掴まんとする。それは一旦弛むものの、さらに強い力を持って食い込んだ。
やがて、その力はだんだん無くなり、代わりに言葉として出てくる。
「――好きです。私、天津くんの事が好き」
それは、前みたいな予約ではない。とてもストレートな告白だった。
「天津くんは?」
「あっ……なっ……」
答えを求められ、俺は動揺した。
「俺は……」
その視線に耐えられなくて、俺は不意に視線を逸らしてしまう。
その時に、少し離れた場所でカメラを回してる人に気付いた。
それは、サラリーマン風の男で俺に気づきサッとカメラをしまう。その姿は、どこかで見たことがあるような気がした。
その既視感を探していった先に、考えもしなかった全貌が浮かび上がったのだ。
「りんちゃん……少し離れていてくれ」
「ふぇ?」
彼女をゆっくりと離してやる。それから、俺はその男に向かって歩きだした。男は、辺りを見回した後に、背を向けて走りだす。
俺が走り出したのも、その直後。
この世界には、たくさんの善悪がある。その善悪にはちゃんとした線引きがないものがたくさんあって、人はそれを勝手に独自解釈し、線引きしてしまう。
やがて、独自解釈された善を押し付けようとする者がいた。相手のことを知った気になって……それが相手の為になると信じこんで、なんの躊躇いもなく彼らは、その善を人に押し付けようとした。
それがその者にとっては悪になり得たかもしれないのに。
ただ、それが悪になったとしても、やがてその者は知るのだろう。それは善意によって押し付けられた悪だったのだと。
だから、それを理解して、言葉で伝えあって、和解して、仲を深める。
――それと同じように、敢えて悪を押し付けようとする者もいたのだ。
そして、それは返って善になることもあった。
悪意を持って「彼女を追いかけろ」なんて言ったのかもしれない。自分の為にその言葉で俺をけしかけたのかもしれない。
だが、行動した俺にとって、それは善になった。
あの時、日向舞を追いかけてよかった。諦めないでよかった。そこになんの目的があったにせよ、結果的には良かったのだ。
だから、それは許せた。
だが、今度ばかりはそうじゃない。
悪となる善意は許せても、善となる悪意は許してしまっても、悪としかならない悪意は許せない。
俺は大抵のことは許してしまう。許せてしまうのだ。そこに微かな善があるのなら、俺はそれを認めてしまえるのだ。
だが、今度ばかりはそうじゃなかった。
目には目を。悪意には悪意を。
向けられたものが明確な悪である以上、俺も誠意を持って明確な悪で迎え撃とう。
りんちゃんが許せないと言った言葉を、その瞬間にようやく理解できた気がした。
なんだよ……。
「俺も結構心狭かったんだな」
だが、それでいい。
口元の歪みを押さえきれない。追い付いた後の未来を想像して、笑いが抑えきれない。
楽しくて仕方がない。
彼は必死で逃げている。しかし、しまったカメラを気にしてかうまく走れていない。
距離はどんどん狭まっていく。
もはや、心の高鳴りは最高潮にまで達していた。




