温泉でのこと
動物園をようやく出た時には、園内を歩き回ったからか足の裏が痛い。この後に温泉施設に行くというのは、とてもよく考えられている。
そこは動物園前からバスに乗って五分ほどの距離。老舗感漂う建物はどこか安心できる雰囲気があって、俺は三人と分かれて男湯の方へと向かった。
かぽーん、なんて音が聞こえてきそうな大浴場。体を洗ってからゆっくりと浸かる。そうやっていると、全身の凝り固まった筋がほどけていくような気がした。
客は他にもいたが、その殆どは老人ばかりだ。きっと地元の人たちなのだろう。
別段話し相手も居ない俺は、体が温まったのを頃合いに大浴場を出る。温泉に行くなんて聞かされてなかった為に、着替えなんて持ってきてない。まぁ、疲れは少し取れたことを言い訳に同じ服を着るしかなかった。帰ったらまた風呂に入り直すことになりそうだ……。
男湯を出ると、意外にもりんちゃんが既にマッサージチェアに座ってコーヒー牛乳を飲んでいた。マッサージチェアは動いていない。ただ、彼女が座っているだけである。
「二人は?」
「まだだよ。私はもう熱くなっちゃって出てきちゃった」
「そうか」
彼女の服が変わっているところを見ると、温泉施設に行くことは知っていたらしい。というか、俺だけが知らされて無さすぎた。ほんと、ただの人数調整過ぎる。
「まぁ、ちょっと居づらかったってのもあるかなー。二人とも体がスゴいんだもん」
なんて、苦笑いのりんちゃん。それには俺も苦笑いするしかない。同じ苦笑いだが、俺のは別の苦笑いだろう。
りんちゃんは小柄だ。それは良くも悪くも……。
「やっぱり、男の人って大きい方が良いよね?」
苦笑いして済ませようとしたのに、りんちゃんは俺を逃してはくれない。その大きいが、何を意味しているのか理解できるだけに答えづらい。
「そんなことないと思うぞ……なんだ、需要はちゃんとある、と思うが」
「あははー……。言いたいことは分からなくもないかなぁ」
分からなくもない、か。とりあえず今のである程度伝わってくれてよかった。
「……でもさ、好きな人がそうとは限らない、よね」
そう言って彼女が付け足した言葉には、どこか自虐的なものを感じた。霧島のことを言ったのだと、すぐにわかった。
「別に、そんなところで判断するわけじゃないと思うが……」
精一杯の反論をしてみる。それでも、りんちゃんの表情はあまり変わらない。
りんちゃんは、座ったまま足をぷらぷらと振り子のように振った。そのかかとが、ボフボフとマッサージチェアを軽く殴り付ける。
「私がフラれちゃったのは……たぶん知ってるよね?」
不意に呟かれた言葉にドキリとする。
「舞ちんは、そんな私を励まそうとしてくれてるんだよね? きっと」
問いかけられた言葉。問い詰めるような視線。それに俺はどう答えていいか分からず無言になってしまう。
「……やっぱりね」
それが、答えを言っているようなものだと分かっていても、口を開けなかった。
「やっぱりフェイクかぁ……」
「フェイク?」
「うん。今回のこと、別に目的があるんだよ」
「別の目的……?」
見透かすようにりんちゃんは、俺を見つめてくる。その、別の目的というのも俺は知らされてない。おそらく、日向舞がりんちゃんを連れ出す為の口実なのだろう。だから、彼女はそれをフェイクと呼んだのだ。
「ちなみに、その目的ってなんだよ」
聞いてみたが、彼女は答えなかった。
ただ。
「天津くんなら分かると思ったけどな?」
なんて思わせ振りな言葉しか返ってこない。俺なら分かる? いや、知らされてもないことが分かるはずもない。
「はぁぁあッ……楽しかったけど、ちょっぴり疲れたよね」
「まぁ、な」
足のプラプラは止まらない。
「私ね……ちょっと焦っちゃった。麻里香ちゃんが、霧島くんと同じクラスだって知ったとき、霧島くんの近くにはこんな可愛い子がたくさんいるんだなぁーって思って……そんな子たちは霧島くんと近くに居れて……もしもその子たちの誰かが霧島くんとくっついたらーって思ったら……なんか悲しくなった」
最後の言葉には、少しの嘲りが入っていたように思う。たぶんそれは、自分自身に向けたものなのだろう。
「だから、そうなっちゃう前に告白したの。でもやっぱりダメだったなぁ」
やっぱり、そう彼女は言った。その告白が早すぎることはりんちゃんにも分かっていたのだ。それでも、告白せずにはいられなかった。それを急かしたのは金剛さんらしい。彼女ほど可愛い人なんてあまり居ないのに……それをりんちゃんは知らないから。
そういうことだったのか。俺はようやく理解する。
りんちゃんが告白したのは、引け目からだったのだ。告白が成功するかどうかではなく、自分が想像する最悪の事態に耐えきれなかったからなのだ。
だから……もしかしたら断られるかもしれないと分かっていても告白するしかなかった。
「なんで私ってこうなんだろ……私が舞ちんや麻里香ちゃんみたいに可愛いかったら……せめて他の人くらいに大きかったら……そんな焦ることもなかったのにね?」
同意を求められたが、俺は答えられなかった。
「もっと、自信があれば良かったのに」
そして、同意をされなかった彼女は、そうやって終わらせる。
それで終わらせてはいけないよう気がして、俺は少し考えてみる。だが、考えたことがあまりに彼女を励ます言葉とはかけ離れていたから迷ってしまい、それでも言わないわけにはいかないと思った。
「……自信なんて、無い方がいい」
言葉にすると、やはりその考えは正しく思えた。
「俺は、自信満々の奴等の方がおかしい気がするぞ。自分の悪いところから目を逸らして、偽って、誤魔化しているようにしか見えないからな」
「天津くん……」
「よく教師なんかは言うよな? 「他人の良いところを探しましょう」って。だが、他人の良いところを探したら、自分が劣等感を感じるだけだ。自分よりその人の勝ってる部分を見つけて褒めるなんて、自分を貶めてるのと同じだ。なんでそんなことしなきゃならないんだよ……」
りんちゃんは可愛くないわけじゃない。ただ、彼女が日向舞と金剛さんを、自分と比較してしまっただけだ。比較して答えを出したのだ。
自分は可愛くない、と。
人には長所と短所がある。それはまるで、良いところと悪いところに捉えられがちだが、実際はそうじゃない。長所は長所であって、短所は短所でしかない。それを誰もが履き違えてしまうのだ。だから、友達がいない者が悪のように語られてしまう。
俺がりんちゃんに「そんなことない」と言ったって、きっと彼女は信じない。彼女自身が既に答えを出してしまっているからだ。それを否定するのは違う気がした。たとえ、本当にそうだとしても。
「りんちゃんが他の女子より劣っていると思うのなら、いっそのことそれを武器にしちまえよ」
「……武器?」
「あぁ。人よりも劣っているのは、言い換えれば人よりも抜きん出てるってことだ。だから、あいつらが出来もしないことも、りんちゃんなら出来てしまう。それが何なのかは知らないが、確実にやれることはある」
絶対値と同じだ。他の人を0として、自分がマイナス1だとする。そのマイナスを抜けば、そいつよりは勝ってるということになる。
「俺はボッチだが、ボッチに引け目なんて感じたことないな? むしろ、それが俺の武器ですらある」
自信満々を演じてみるが、演じる必要ないほどに、その言葉は自信に満ち溢れていた。
「あと一つだけ言っとくぞ。りんちゃんに霧島は不釣り合いだからな!」
その自信の勢いに任せて言い切ってやった。それは嘘偽りない俺の真実だ。
それにりんちゃんは少しだけ、ぽけっとしていた。
そして。
「……天津くんは、強いね」
なんて言われてしまう。
そうじゃないんだ……りんちゃん。俺は強くなんかない。むしろ強いのは彼女の方。
りんちゃんは、何か対して真正面から向き合う強さがある。だから、彼女は霧島が日向舞にあからさまな好意を見せても、日向舞を切らなかった。だから、彼女は告白の決断をした。だから、彼女は日向舞の思惑を知りながら、何も知らないフリをして今日を過ごした。
それらは、俺には出来なかったことだ。全てを諦めて投げた俺には取れなかった選択だ。
りんちゃんは強いのだ。もちろん、それは俺と比較してのことだが。
「今頃気づいたのか? 実は、俺は強い」
しかし、そうは言わずに全て肯定してやる。彼女が出した答えに上書きしてやるのだ。実の答えを。
俺のくっそ生意気な態度に、りんちゃんは「ばっかだぁ」と笑いだした。
「どうやったら天津くんみたいに強くなれるの?」
冗談混じりにりんちゃんが聞いてきた。だから、俺はそれに調子よく答えてやる。
「全部捨てればいい。そうやって捨てて捨てて、捨てられなかったものだけを大切にすればいい」
それが俺の場合、自分だっただけ。
「そっかぁ。でも、それは私には無理かも。私、捨てられない女の子だから」
「ならそれでいいんじゃねぇの。別に捨てなくたっていい」
大切なのは、そんな自分を受け入れてしまうことにある。
「りんちゃんが、誰かより劣ってると思う部分を俺は否定したりしない。たぶん重要なのは、自分がそれを許せるかどうかだ。俺は何もかも捨てられる自分を許せる。ただ、他の奴等からしたらそんな俺は許せないのかもしれないな。まぁ……だからボッチなんだろうが」
許せるかどうか、それを考えることはとても重要だ。
何故なら、許せないものはどうしたって許せないから。あれだ。生理的に無理というやつと同じ。だから、許せるのなら許すに越したことはない。
「りんちゃんは、あいつらよりも劣ってる自分を許せるだろ?」
許せないはずがない。自分を許せない奴など、いないはずがない。許せないのは、許したくないからだ。だが、実際は許せてしまう。
「俺もそれを許してやる。だから、もうそれは考えなくていい」
りんちゃんは、穴が空きそうなほどに俺を見ていたが、やがて吹き出して、また笑いだした。今度のは止まらず、彼女はひとしきり笑っていた。
「はぁー。ほんと、ばっかみたい。なんで勝手に許されてるの」
そして、りんちゃんは顔をあげる。
「ほんと……ばっかみたい」
そして俺に向かって言い直した。
「……私さ、前に自分のことズルいって言ったの覚えてる?」
よみがえる記憶。たしか、ボウリングをした後の駐車場で言っていた言葉だ。日向舞に頼って便乗して、そんな自分がズルい……と。でも、彼女はそれを分かっていたからこそ、その後は自分で頑張ると決断した。
そんなりんちゃんは、少し唇を噛みしめて、そして、なんとも言えない表情をして。俺に告げる。
「麻里香ちゃんには悪いけどさ……私、やっぱりすごくズルいかもしれない」
何故、ここで金剛さんが出てきたのか分からなかった。
そんなりんちゃんは、頬を少し染め、俺をしっかり見据えて。
「――私、天津くんのこと……好きになりそう」
その言葉は、あまりに突然のことだった。




