ナマケモノ
「一時半から、イベントあったしそれに行きましょうか」
飽きることないお喋りの末、日向舞がそう言ったのをキッカケに俺たちは食堂施設を出た。「なんのイベントか?」と聞いたところ、あまりテンションの上がらない答えが返ってくる。
「ナマケモノとのふれあい」
「あぁ……」
ナマケモノ、ね。ナマケモノ、か。……なんでナマケモノなんだよ。
ナマケモノは、地上最弱とも呼ばれている動物だ。全身の筋肉はほとんどなく、動きすぎると死んでしまう。動きすぎて死ぬってなんだよ。弱いにも程があるだろ。だから日中は殆ど動くことはなく、木にずっと引っ掛かってるだけ。
その昔は体長五メートルを越える巨大動物だったらしい。何が悲しくて今のような進化を遂げたのか。……進化なんだよな?
そんなナマケモノとふれあえる場所までくると、まだイベントまで少し時間があった。時間潰しにナマケモノの説明看板を読むと、俺は悲しくなってしまった。
――ナマケモノはあまりに無防備なため、天敵に襲われても抵抗する術を持たない。ただ、全身の力を抜いて、死を受け入れることしかできない。
マジかぁ……。冷酷非道な自然界に、まだこんな奴がいたのかよ。誰か救ってやってくれよ……ナマケモノ。
そうやって待っていると、ようやく飼育員が抱いたナマケモノが出てきた。その表情からは何を考えているのかよく分からない。瞳だけはくりくりと丸い。そしてジッとされるがままになっている。飼育員の説明によると、ナマケモノは臭いもほぼ無いらしい。木から降りず、捕食者に見つからぬようじっとしているらしい。臭いが無いのも見つかりにくくするためらしい。
己のステータスを、動かぬことに全振りした存在。故に、一度見つかってしまえば、そこから逃げる術を持たないのだ。
「可愛いー」
等と、他の子供たちに混じって順番に触る彼女たち。俺は止めておいた。というより、三人の荷物を持たされていたからだ。「ごめん、これよろしくね」なんて日向舞が当たり前みたいにカバンを渡してきて、それにりんちゃんが倣い、金剛さんに至っては無言で差し出してくる。ふむ。どうやら荷物持ちとしての才覚を三人には見破られてしまったらしい。だから俺は、目の前で触られているナマケモノのように、ただ立ち尽くして眺めていた。
自然界は弱肉強食だ。だからそこに住まう生き物たちは、必死で生存競争をしている。天敵に見つからぬよう、見つかっても逃げられるよう、様々な能力をその身に宿した。無防備に動かないことは、きっと彼らにとって致命的な弱点にも思える。にも関わらず、その動かぬことのみを追求したナマケモノ。
なんとなく、俺は親近感を覚えてしまった。
人間界においても、何もせず、動かず、友達を持たないことはあまりに無防備だ。だが、俺はそれこそを極め今日までやってきた。彼らはボッチを弱点とし、それを忌み嫌う。だが、そうではなく俺はそれこそを強みとして戦ってきたのだ。
今この瞬間、彼に触れているのは、子供たちと彼女たちと飼育員だけだ。だが、この場において彼と最も近い気持ちを有するのは俺なのかもしれないと勝手に妄想する。
ナマケモノはなすがまま、されるがまま、ただそこにあり続けた。なんの反応もなく、なんの素振りもなく、なんの影響もなく……。
その大変さを俺は知っている。
なのに、彼らを客観的に捉えた“ナマケモノ”という名前は、その辛さを嘲笑うかのような“ボッチ”という言葉とどこか似ていて、触れなくたって、俺は彼らを理解出来てしまうような気がした。
「――本当に全然動かなかったね」
「ねー」
「何を考えて生きてるのかしら」
「さぁ? 何も考えてないんじゃない?」
「頭カラッポだっ!」
「少し羨ましいと思ってしまったけど、さすがに無理ね」
「ちょっと、あのマヌケな顔が誰かさんと似てて笑っちゃった」
「それ私も思ったよ!」
うわぁ。先程まで「可愛い」を連呼してた女子たちの手のひら返し……怖すぎる。しかも誰かさんの悪口のオマケ付きとは……。ほんと、女子の可愛い発言って信用ならない。もはや後で悪口に変えるためのフリにすら思えてしまう。
「あぁ、荷物ありがとうナマケモノさん」
日向舞がそう言って俺から荷物を受けとる。二人もそれに倣って荷物を受け取りにきた。俺は荷物持ちという仕事をしてたから怠け者じゃあないんだよなぁ……。ほんと、誰かナマケモノを救ってやれよ。
「この後はどうするんだ?」
「軽くみんなで周りましょうか。そのあとは、この近くにバスで行ける温泉施設に寄って今日は終わりね。ほら、電車の移動時間もあるし」
「なるほどな」
なんとなく、朝が早かったことに納得してしまった。わりとスケジュールは詰め詰め詰めだったらしい。もう、法律狂わして濡らしとけよ。
その後は、日向舞の計画通りなんとなく四人で見てまわる。園内は広く、時間帯によって居ない動物もいたために全てまわることなど出来ない。某夢の国では、計画を練って園内をまわることが重要とされているが、それは動物園でも同じことらしかった。
りんちゃんの様子を窺っていたが、好きな人にフラれたというのにあまり消沈した様子はない。その姿を見ていると、今日の目的さえ忘れてしまいそうになる程。
その時、彼女はどういう気持ちだったのだろうか。どういう気持ちでその場に臨んだのだろうか。だが、告白などしたことがない俺にとって、それは分からないことだった。
ただ、漠然としながらも想像することはできる。誰かから拒絶されてしまうことは辛いことだ。たとえそれを予期していたとしても、実際に経験してしまうとやはり悲しくなる。だから、俺は最初からそれを望まない。
ただの逃げであることは重々承知だ。それでも、それを理解してそれに徹することも辛いことなのだ。そして、辛いからこそ価値はあった。
りんちゃんは、純粋に動物園を楽しんでいた。そんな彼女に、俺は少し穿ってしまう。
もしかしたら……楽しんでるように見せてるだけなのではないか、と。
人はそうやって、楽しくもないことを、さも楽しんでるかのように振る舞うことがある。それは「騙す」為だ。一緒にいる人が楽しめるように自分も楽しそうに振る舞う。そして、そんな自分が本当に楽しめるよう、偽りの楽しさをつくりあげるのだ。
それは演技だとしても、見分けることはなかなか難しい。自分すら騙しているのだから、本当に楽しくなっている可能性すらある。
それでも、そんな無理はどこかで破綻する。見ていれば、それは分かる。
だが、りんちゃんは本当に楽しそうだった。それはとても良いことのはずなのに、俺はなんだか違和感を覚えてしまうのだ。
これも、俺の悪い癖だ。
人の感情を素直に認められない。きっとそれは、俺自身が内面に真なる感情を押し隠して生きてきたからだろう。俺と彼女は全く違う人間なのに、どうしたって、人は人に自分を重ねて傲慢な想像をしてしまう。それを分かっていても、だ。
「天津くん?」
ふと気がつけば、りんちゃんが俺の顔を下から覗き見ていた。その顔の近さに驚いてしまう。日向舞と金剛さんを探すと、二人は『牧場ミルク濃厚ソフト』というお店に並んでいた。
「楽しんでる?」
言われて笑ってしまった。それはこちらのセリフだったから。
「あぁ。動物園なんて子供の行く場所だと思ってたが、案外楽しいのな?」
「あははー。自分だってまだ子供のくせにぃ、生意気だぞ!」
りんちゃんは、まるでガキ大将のようにプリプリと怒って見せた。
「それよりもさっ。麻里香ちゃんとはどうなのさっ?」
急な質問に俺は眉をひそめてしまう。
「どうって……?」
「可愛いよね麻里香ちゃん。最初会ったときビックリしちゃったよ。もちろん舞ちんも可愛いけど、また別の可愛さだよね。あれは」
女子の可愛いは信用ならない。それは悪口を言うためのフリにしか思えない。
なのに。
「私とは大違いだなぁ……」
ポツリと出てきたのは、自分自信に対する悪口だった。
「そんなことないぞ」
だから、思わずそれを否定してしまう。
「あははー。……優しいなぁ天津くんは」
今度の笑いには、どこか無理があるような気がした。そして、日向舞と金剛さんを見つめるりんちゃんは、どこか優しげで……そして、まるで檻の外から動物を眺める人かのような印象を受けた。
それを見てしまったから、俺は何も言えなくなり、ただ彼女と同じように待っていることしかできなくなる。
そして、二人が戻ってきた時には、既に元のりんちゃんがそこには居て、その事にまた動揺した。
「はいっ!」
なんて金剛さんがソフトクリームを口元に差し出してきた。もう一つ反対の手に持っているところを見ると、どうやらそれは俺の分らしい。日向舞はりんちゃんの分を持っていた。……いや、別に頼んでないんだけど。
「荷物のお礼ね」
あぁ、そういうことか。それを受け取ろうとしたが、金剛さんはソフトクリームを、サッと引っ込めてしまう。
「……え?」
そんな俺に、金剛さんはニヤリと笑う。
「食べさせてあげるよ。はいっ!」
そしてまた口元に寄せられるソフトクリーム。いやいや……いやいやいや、それは流石に。
見れば、りんちゃんと日向舞が興味深そうに見ている。これ、俗に言う「あーん」という奴ですよね。恋人限定のイベントですよね。なんで俺が……。
そんな空気に耐えきれず、俺は強引にソフトクリームを掴む。だが、金剛さんの手も一緒に握ってしまった。
「きゃっ!」
「うおっ!」
その事に驚いた彼女が、ソフトクリームから手を放し、俺も驚いて手を放してしまう。
宙に置き去りにされたソフトクリームは、重力に従ってそのまま落下し、地面で無惨に散った。
「あーあ……」
りんちゃんの悲しげな声。
「いや、あの……すまん」
「私も……放しちゃってごめん」
……最悪だ。まだ一口も食べられていないソフトクリームは、もはや、拾うことすら不可能なほどにぶちまけられてしまっている。
気まずさと罪悪感。金剛さんも、髪を少し弄りながらうつむいてしまっていた。
「……もう一つ買ってくるわ」
日向舞が小走りに店へと向かった。それを止めようとしたのだが、あまりに早く向かったために声をかける暇さえなかった。
誰もが当たり前のように出来ることが、俺には難しい。ノリ良くソフトを食べてやることも、それをキッパリと断ってやることも、俺には難しいのだ。
だから、変な反応をして、動揺して、最悪の結果をもたらしてしまう。
そんなこと、俺の経験にはないから。
だから演技すら出来ない。
結局、日向舞が買ってきてくれた二つ目を、俺は素直に受けとった。そのソフトクリームは、甘くて、やはり俺には不釣り合いの代物に思える。
それでも、文句など言えるはずもない。
それは、荷物持ちのお礼だったはずなのに、俺の胃には少し重かった。
人の好意が、必ずしもその人の為になるとは限らない。何故なら、その好意はあくまでも、その人の自己満足だからだ。だが、その人の気持ちを汲み取れてしまう人間は、それを表には出さない。その好意を、嬉しそうに受けとるしかできない。そして、上手くそれが出来ない奴もいる。
それでも。
「旨いな……これ」
「でしょー?」
それを押し隠して演技する。そうすれば、本当にソフトクリームが美味しくなるような気さえして。
馬鹿なことだと分かっていても、馬鹿を演じてしまうのだ。
それが人間関係というのなら、なんと人間関係とは悲しいものなのだろうか。相手を騙し、自分すら騙し、なかった感情を無理やり作り出して、最後には笑うしかない。
俺たちは園内をまわる。楽しげに、それが本当の楽しさかどうかも分からぬままに。
きっとそれで良いのだろう。みんながそれをやっているのだから。
みんなが……みんなが……みんなが。
それは良いことのはずなのに、まるで正当化するように頭の中で唱えていた。
それはいつしか本当に正当なことのように思えてきてしまう。
誰かが、耳元で囁いた気がした。
「――なにやってんだよ。お前」
その声はとても冷たく、ある種の残虐性すら窺える。
それを聞こえないフリをした。そうすることが、この場における正解のように思えたのだ。
ここ最近の経験が、そう思わせたのだ。
ソフトクリームは、食べ終わったあともその甘ったるい後味を口の中に残していた。




