動物園
動物園。小学生の時に家族で行った以来だ。その時の記憶はあまりない。どんな動物を見て、どんな経験をしたのかもあまり覚えてない。
ただ、覚えてないというのは、言い換えれば悪くなかったということでもある。辛い経験や悲しい出来事はいくつになっても覚えてるものだ。
だからきっと、俺が動物園に行った時は楽しかったのだろう。
「――あれ? パンダって触れ合えないの?」
動物園の入口にある催し物掲示板には、日向舞の目的に見あったものはなかった。
そういえばこいつ、パンダ抱くとかLINEで言ってたな……。
「パンダはさすがに抱けないだろ……。というか、パンダ自体日本に何頭いると思ってるんだ」
「おかしいな? クラスの友達が動物園でパンダの赤ちゃん抱いたって話してたから、てっきり抱けるものかと……」
「あぁ、それ嘘だろ。みんなから注目されたくてついた嘘に違いない」
言った言葉の後、沈黙があまりに続いたものだから、三人を見れば残念そうな瞳をこちらに向けていた。
「……なんかさ、天津くんが言うと真実味を帯びるから悲しくなるよね」
金剛さんは視線を逸らしながらひきつった笑みを浮かべている。なんでだよ。全然悲しくないだろ。
「誰にだってそういう経験はあるはずだ。俺は別にそいつが悪いなんて思ってない。悪いのは周りだ。間違いない」
注目を集めたくてついつい嘘をついちゃう。いじらしいじゃあないか。そうやって吐いた言葉が嘘であっても、気持ちに嘘はなかったはずだ。
「でも写真も見せてもらったのよね? さすがに合成とは……思いたくないけど」
「ねぇ、舞ちん。その子ってさ、日本でパンダ抱いたわけじゃないんじゃない?」
りんちゃんが言った言葉に、日向舞が「あぁ」と納得の表情を浮かべた。
「そうかもしれない。その子よく海外旅行に行ってるし」
「たぶんそうじゃないかなぁ? ほら、ジェットスキーなんかも日本じゃ免許いるから一人じゃ乗れないけど、前にハワイ行った時に乗ったじゃん? あんな感じじゃないかなぁ?」
「ハワイ……」
金剛さんがひきつった笑みのまま日向舞いとりんちゃんを見る。その反応は俺とて同じ。なにその軽々しくハワイとか出てくる会話。
「日本じゃ抱けないんだねー」
「そっか。ごめん私のリサーチ不足ね」
勝手に納得してしまう二人。だが、それは俺の考えなんかよりも真実に近いのかもしれないと思った。俺は国内の動物園しか頭になかったからこそ、その子が嘘をついたのだと思ったが、その範囲を世界にまで広げるならあり得なくもない。いや、むしろあり得てしまう。
俺はこの時初めて、二人がお嬢様学校として名高い姫沢の生徒であることを実感した。
「とりあえず、各自見たい動物を上げてみましょう? 天津くんは?」
日向舞の言葉で、俺は見たい動物を考えてみる。
「……やっぱ狼だな。あとは虎とか」
猛獣は強い。強い者に憧れるのが男というものだ。
「私はペンギンみたーいっ!」
「私はパンダ見たいし……金剛さんは?」
問われた金剛さんは、うんうんと悩んでいた。いや、そんなに悩まんでも……。
「猫は好き……かな」
猫かい。動物園来て猫かい。
「虎って猫科よね? それじゃあ、天津くんと金剛さんがこっちのルートで、私としょうりんはこっちのルートからペンギン見てパンダに向かいましょうか」
……は?
俺は日向舞の言葉が一瞬分からずに固まってしまった。
「ちょっ、ちょっと待て。一緒に回るんじゃないのか?」
というか、猫で猫科って。
「一緒って、天津くん全部の動物を見るつもりなの? それよりは好きな動物をじっくり見た方がよくない? それであとから写真とか見せ合って話した方が楽しいと思うけど」
「それは……まぁな」
「でしょ?」
「あー……はい」
いや、みんなと一緒が良いとか言ってるわけじゃない。ただ今回の目的は、霧島にフラれたりんちゃんを慰めることにあったはずだ。そんなりんちゃんと離れて行動して良いのかと聞いたつもりだった。
「じゃあ、十二時に、ここの食堂で会いましょう」
日向舞は地図にある食堂を指差した後に、さっさとりんちゃんを連れて行ってしまう。りんちゃん本人もそれに何の意見もない。
――日曜日、絶対来てね!
ってLINE送ってきたのあなたじゃありませんでした?
俺はまるで理解出来ず、立ち尽くしていた。
「ねぇ……私たちもいこうよ」
「あ、あぁ」
金剛さんですら、二組に分かれたことについてはスルーのようだ。……動物園ってそういう感じで見るんだっけ? いや、別にみんなが良いなら良いんだけどさ……。
釈然としないながらも、俺は地図の脇にある園内マップのカタログを取って、日向舞たちとは逆のルートを歩き始めた。金剛さんは少し小走りで追い付いた後、そのまま一緒に歩く。
会話などない。あろうはずもない。
「――ちょっと。歩くの速くない?」
「……悪い」
言われて歩調を少し弛めた。とはいえ、動物園とは動物を見る場所だ。その移動時間は俺にとって、省きたい時間になる。だから、少しでも短縮したいと思ったのは間違いではないはずだ。
別に気まずいからとかではないと思う……たぶん。
屋上ではこんな感じじゃなかったんだがなぁ、と普段の金剛さんとの会話を思い出してみた。
そして気づく。
いつも会話は金剛さんから話しかけてくるのだ、と。
学校での金剛さんは、かなり俺と近い位置にいる。あの事件があった以来、彼女に友達と呼べる者はいなくなってしまった。だから屋上にくる。そして、取り敢えず屋上に居合わせる俺と飯を食べ、何かしらの会話を求めた。
だが、今はそうじゃない。学校での人間関係はなく、話さずとも過ごせる環境が整っていた。だからこそ話しかけてはこない。話す必要がないからだ。
誰かと向き合い、何かをしていると、何故だか話をしなければならないという強迫観念に囚われる。それは決して強制されているわけじゃないのに、勝手にそう思い込んでしまうのだ。
そして、それをしなくて良い環境に置かれると安堵する。
なのに……何故だろうか。二人きりになった途端に話さなくなった金剛さんは、俺を少し不安にさせた。たぶん、俺の中での金剛さんは、こんな移動時間でも話しかけてくるような奴だからだ。
それが俺の思い込みだと唱えてみても、ここ一ヶ月ほどの彼女が、どうしても無言の彼女を否定してしまう。
何気ない会話だったはずなのに。どうでもいいことばかりだったはずなのに。それは積もり積もって、俺の中に金剛麻里香という人間像を作り上げてしまったようだ。
「……あのさ」
そんな彼女が言葉を発した。
「りんちゃんの事なんだけど」
「……おぉ」
「霧島くんの事が好きだったんだよね」
「……知ってる」
「それでさ、フラれた」
「みたいだな……」
それからしばらく沈黙があって、金剛さんの足音が消えて、それに気づいた俺は振り返って。
「あのさ、天津くんが霧島くんから女を奪ったって噂……日向さんだよね?」
そのことについて彼女が聞いてきたのは初めてだった。
「奪ってないぞ。あれは他の奴等が勘違いしてただけだ」
「そう、なの?」
「あぁ。……え?」
それから俺は、今さらながら疑問に思った。
「もしかしてだが……俺とあいつが付き合ってると思ってた、のか?」
「いやっ! なんか二人見てたら違うなーとは思ってたけど、天津くんは、噂のことを全然否定しなかったし、もしかしたら天津くんは日向さんのこと気になってるのかなぁなんて思ったりは……してる」
……そうか。確かに俺は噂を否定していない。というよりも、否定してしまえば俺がしていたことが無駄になる、というのが正しい表現かもしれない。まぁ、別に否定しようがしまいが俺の立ち位置というのは変わりないわけで、否定する必要もなかったというのが一つの解答でもあった。
それで気になったこともある。
「あの噂のこと、あいつらには?」
「話してない」
「そうか」
話してなくて良かった。ということは、日向舞はまだ俺が霧島を説得したと思っているということになるからだ。余計な心配はさせたくない。させれば、なんか面倒なことになりそう。
「少し話さない?」
金剛さんはそう言って、近くにあるベンチを指差す。それに俺は従った。
彼女たちは、俺の目から見てもかなり曖昧な関係性で成り立っている。その中心にいたのは霧島海人という男であり、今はもう、そこにはいない。りんちゃんはフラれ、日向舞は解放され、金剛さんはもう冷やかしのネタにされることもない。だからこそ彼女たちは自由で、交友関係を深められる仲にあった。
「どこから話すか……というか、何を聞きたい?」
「最初から、かな」
「最初からか……」
それは少しだけ長くなりそうだ。おそらく、金剛さんもある程度のことは知っているのだろう。ただ、全てが組合わさるパーツが足りてないだけ。
だから、俺は彼女に話始めたのだ。
あの日、バス停で外国人の男に話しかけられたところから。そして、それからのこと。
そこに俺の感情や考えはなく、ただ事実だけを並べるよう努力して。
金剛さんはじっとそれを聞いていて、時折「そっか」と相づちを打つだけ。
全て話終えると、今度は彼女がこれまでの事を話してくれた。
やはり、勉強会は俺の知らぬところで何回か行われていたようで、一度金剛さんが俺の事を面白おかしく話をした事があったらしい。あはは……何を話したのかは知らないし聞きたくないな。
その事がキッカケで、彼女は四人で遊んだ日のことを知り、りんちゃんが霧島のことを好きであることも知った。金剛さんはりんちゃんの恋に対してあまり関与はしてないらしい。りんちゃん自身が自分で頑張ると言ってたかららしかった。りんちゃんらしいな。
俺が知らなかったのは、りんちゃんはわりと霧島と会っていたということだった。サッカーの応援にも一度行っているらしい。俺は突然りんちゃんがフラれたことを知った為、告白がとても早計のように思えたのだが、実はそうではなかったのだ。
その会話はまるで、パズルを完成させる作業のように行われていく。
動物を見に来たはずなのに、俺と金剛さんは夢中になって話をしていた。
勉強会の話や他のアレコレはいつかどこかで書くかもしれません。




