世界は案外捨てたものでない
通りを歩く顔顔顔が一斉にこちらを見た。
その中に、日向舞の顔はない。こんな中から彼女を見つけようというのは、まるで雲を掴むような話に思えた。彼女がどこへ向かったのかも検討がつかない。
ただ、日向舞は泣いていた。俺はその情報しか持っていない。
「どなたかぁー! 泣いてる女の子見ませんでしたかぁぁぁ!」
響き渡る叫び。恥ずかしくて顔が熱くなるのが分かる。なんでこんなことしてるのか冷静になりそうになる。それを必死で無視した。
返答はない。ただ、彼らは少し変わった状況を傍観するだけ。
「――やだぁ、なにあれぇ」
「――泣いてる女の子だってさ。お前のことじゃね?」
「――やめてよぉ、もうっ」
クスクスと、そんな会話が聞こえる。ほんと、穴があったら入りたい。路地裏とかに逃げ込みたい。こんな姿をいつまでも晒していたくない。
それから気づいた。もしかしたら、日向舞も同じ気持ちだったのではないか、と。
辺りを見渡し、今の俺が逃げ込めるような場所を探す。それはわりと近くにあった。ビルとビルの隙間。
……もしかして。
そこまで走りその薄暗い路地裏を見やる。
「にゃあ~」
「お前じゃない!」
鳴いてる猫しかいなかった。日向舞の姿はない。
もう一度見回して見るが、そこ以外に俺が逃げ込みたい場所などなかった。彼女は、この人混みの中を抜けたのだろうか。
だったら、やはり見た者がいるはずなのだ。
「……どなたか! 泣いてる女の子を見ませんでしたか!」
もう一度叫ぶ。歩きながら見てくる者。立ち止まってはみるものの、すぐに関係ないと去ろうとする者。俺をネタにして会話をしだす者。
それでも、俺は叫び続けた。そうすることしか出来なかった。羞恥心は極限にまで達していて、普段こんな使い方をしない声帯が渇きかすれ始める。それでも……なにかが、止めてはならぬと頭に囁いた。意味がないことなのかもしれない。見つけられずに終わるのかもしれない。無謀なことなのかもしれない。なのに、それを続けてなくてはならないような気がするのだ。
「誰かぁぁぁ!」
誰だっていい……。
「泣いてる女の子をぉぉ!」
俺じゃ見つけられないんだ……。
「見ませんでしたかぁぁぁ!」
だから……。
結局、誰一人として俺に情報をくれる者はいなかった。俺の周りだけ人が避けて通る。その輪の外からスマホを掲げて俺を撮ろうとする輩までいる。
あまりの虚無感に、膝から崩れ落ちそうになった。
それでも、俺が諦めるわけにはいかない。あれは……俺がしでかしたことなのだから。
もしも日向舞が帰るとするなら、駅に向かった可能性がある。
俺は一縷の望みにかけて走り出した。
駅までは走れば五分もない。うまくいけば間に合うかもしれない。
「――きやっ!? なに!?」
「――おい、あぶねぇよ!」
「すいませんんんん! 急いでるんですぅぅ!」
ぶつかりそうになった人達に謝りながらも足は止めない。全然たいした距離じゃないくせに、健全であるはずの体が悲鳴を上げ始めていた。
駅前まで来たものの、やはり見回しても日向舞の姿はない。駅地下まで行ってみたが、やはりそこに彼女の姿はない。
万事休す。もはやどこを探せばいいのかも分からない。
それでも。
強く歯を食い縛り、諦めるという選択肢だけは思い浮かばせなかった。
きっとこれは罰なのだ。人を疑い、穿って見ようとして、安心したくて、煽って……傷つけて。だから、こうして思い知らされた。それが罪なのだと、犯してはならぬのだと。
それでも、他にどうしろというのか。俺にはそれしか取る方法がなかったのだ。俺はボッチだから、誰かを頼りになんてしないし出来ない。なら、独りでやるしかないじゃないか。
そして、独りでやれることに限界なんてないはずだ。
俺はそうやってきたのだ。誰かがみんなとやってることすらも、俺は……俺だけは独りでやってきた。証明したかった、独りでも平気なことを。確認したかったのだ。独りでやれることを。
それはまだ終わってない。それが罪であり、これこそが罰だったとしても、俺の中でだけは最後の審判は下っていない。
「――改札を! 泣いてる女の子が通りませんでしたか!?」
改札の駅員に問いかける。その若い駅員は「何時ごろですか?」と聞かれ、「おそらく今から十分前後です」と答える。彼は少し困った表情をして、後ろにいる帽子に白線が入った壮年の駅員と顔を見合せ。
「十分前後って言っても、たくさんの人が通ってますからねぇ」
なんて言われた。見ていないのだ。もしくは、見過ごしているか。
「ありがとうございます」
改札から離れる。
もしも日向舞が改札を通ってるにしろ、通っていないにしろ、一つだけ確かなことがある。
それは、この世界に日向舞は確実に存在しているという真実だ。
そして、その範囲はここ日本であり、この町のどこか。こうしている今この瞬間にも、俺と日向舞は確実に存在している。
よく、男女の出会いを世界の規模に例えて三十六億分の一などと言うが、そんな確率よりもずっと高い。
なら、まだやれることはあった。
俺は再び走り出す。どこに向かってるのか、どこに行こうとしているのか、まったく分からない。だが、日向舞の行き先すらまったく分からないのだから、運が良ければ鉢合わせる……かもしれない。
「日向ぁぁぁ! 居たら返事をしてくれぇぇ!」
そんな確率を少しでも上げる為に声を張り上げる。体が疲れているからか、気がおかしくなってしまったのか、もはや羞恥心は薄れ感覚が麻痺していた。
人々は俺を見る。なのに、見てほしい人はそこにいない。
そのことがあまりに滑稽で、笑いそうになる。こんなことで見つけられるはずがない。分かっていても止められない。
その笑いが、次第に感情の波となって悲しさまで運んできた。油断してしまえば、理性の防波堤を乗り越えて涙が滲みそう。
そんな水分は、エネルギーに変えてしまえ!
「日向ぁぁぁあぁぁ!」
俺はあらんかぎりの声で、あらんかぎり走る。
誰も知らない、誰も助けてなどくれない。頼れるのも、信じられるのも自分だけ。だから、諦めてしまえるのも自分だけ。……そして、諦めずに貫き通せるのも自分にしか出来ない。
それは、見覚えのある服装だった。
通りの向こう、その女性はすぐに角を曲がってしまったが、髪型や服装が日向舞と酷似していた。信号を見れば、赤信号になったばかり。だが車が向かってくる様子はない。
迷ってる暇などない気がした。灯った希望の火を消してしまいたくなかった。
だから、俺は全速力で横断歩道を駆け始める。対抗で青信号を待っている人々が、少し驚いているのが分かる。それでも構ってなどいられない。きっと何かが俺を狂わせていた。分かっていたが、それを無視するしか出来なかった。
一応、轢かれることのないように用心して渡り、見覚えのある女性を探す。それは意外とすぐに見つけられ……そして絶望する。
その女性は、日向舞ではなかった。
そして。
「――君、ちょっと来なさい」
後ろから声をかけられる。振り返れば警察官が一人、無表情で俺を一瞥していた。
それに、俺は立ち尽くすことしか出来ない。
「――信号無視の危険性は分かっているね?」
「……はい」
「如何なる理由があろうともルールは絶対だ」
「……はい」
「一応、身分証は?」
「持ってないです」
「学生?」
「……はい」
その警察官は、こんこんと信号無視の危険性について語った。それがとても当たり前で、理解できるだけに反論のしようもない。
「信号は人が渡るためだけにつくられているわけじゃない。運転する人が、人を轢いてしまわない為にもある。そしてその安全とは、双方がルールを守った条件下でしか保たれることはない。君は学生だが、今の行為を見たもっと幼い子達が真似したらどうする?」
「……はい」
「間違えてはいけないよ。信号とはそこにあるから安全ではないんだ。交通ルールがあり、信号とはそれを守らせる一つの手段でしかない。手段は目的じゃない。だからこそ、君は今回無事だったんだ。見ていたが、君は君なりに用心して渡っていたようだしね。でも――」
警察官は少したりとも表情を弛めなかった。
「それはルール違反だ。事故が起こらなかったのは結果論でしかない。信号無視は立派な犯罪だよ。わかるね?」
「……はい」
「もっと視野を広めなさい。この世界には、君以外の人達もいるんだと理解しなさい。ルールとは、彼らが上手く共存できるようにつくられたモノなのだから。それを理解したフリをして、真に分かっていないから信号無視なんてするんだ」
「……はい」
それから彼は浅く息を吐いた。
「本来なら罰金を取るところだ。犯罪にはしっかりとした罰を与えなければならない。それはどんな者においても例外はない」
そして彼はチラリと腕時計を見た。
「三十分か……。未来ある若者の三十分をお金に換算したとするなら、だいたい釣り合うと思うかね?」
「……はい?」
「それと、気になったが君は人を探しているのかい?」
疑問に思いながらも、俺は日向舞のことを伝える。何故探してるのかまで話さなければならないと思ったが、彼が質問してきたのは、背格好だけだった。
その後、彼は無線でそれをどこかへと伝えると驚いたことに情報がないかを確認してくれたのだ。
「……うーん。力になれそうにはないな。すまないね」
唖然としている俺に彼はそれだけ言った。
「まぁ、これ以上探すにしてもやり方を考えなさい」
そう言うと、彼は付近に止めてあった自転車へと向かって跨がった。
「……あの、良いんですか?」
「なにが?」
「いや、なにって……」
それに警察官はふっと笑ったような気がして、少し帽子のツバをつまんだ。
「正直言うと、君が横断し始めた時点から見ていたんだ。だけど、君が注意深く渡っていたから笛を吹くのを躊躇ってしまった。そのまま君の注意力を信じてしまった。その時点でルール違反だったのにね。でも、吹かなくて良かったかなと思う。吹いて君を驚かせれば、もしかしたらそれが原因で轢かれていたのかもしれない。だから、さっきのは少し僕自身を許せていないんだよ」
正直……よく分からなかった。
「君は警察の仕事というのが、犯罪者を捕まえることだと思っているかい? ……違うね。僕らの仕事は市民の安全を守ることだ。犯罪者を捕まえるのも、その為の手段の一つでしかないんだ。そして、手段というものは選ぶことができる。捕まえることよりも、効果がある手段があるなら、僕らはそちらを取るだけのこと。僕は君から罰金を取った。今後事故が起きないよう注意もした。そんな君をこれ以上拘束しておくことと、もっと他に安全を守れることがないか見回ることと、どちらが大切だと思うかい? 言ったはずだよ。この世界には君だけじゃない。君以外にも守らなければならない人々はいるんだ」
そして最後に彼は真面目な表情で俺へ言ったのだ。
「ただ、勘違いはしてほしくないな。言っておくが、世界の中でも日本警察は検挙率に関してかなり優秀なデータをあげているんだよ。ゆめゆめ忘れなことだね」
そして、警察官は俺の前から去っていく。その背中が格好良く見えたのは、彼が警察官だからではないだろう。きっと、彼がとても人間臭かったからだ。
誰も頼りに出来なかった。誰も助けてなんてくれなかった。それが当たり前だと分かっていた。そんな中で、正直に、誠意を持って接してくれた彼だけが、とても温かく思えたのだ。
たとえそれが仕事であったのだとしても、彼からはどうしようもない程の人間臭さが滲んでいた。
――この世界には君以外の人達もいるのだと理解しなさい。
彼が放った言葉が、強く焼き付いていた。
そんな時。
不意にポケットが振動する。取り出すと、それは日向舞からのLINE通話だった。
『――まだ近くにいる?』
その声を、久々に聞いた気がした。
「あぁ」
『突然いなくなってごめんなさい。少し冷静になりたかったの』
「俺も悪かった。あれは……言うべきことじゃなかった」
『……駅前、これる?』
「駅前だな?」
『……うん』
そうやって通話を終える。駅前に戻るためにはまた横断歩道を渡らなければならない。信号は赤。立ち止まって待つ人達と同じように俺も待った。
ルールがあり、統制された世界。なんの変哲もない光景だが、それが如何に仕組まれ作り上げられた平和なのかを、俺は知れたような気がした。
俺が間違えたのは、信号無視からじゃない。きっと、既に間違えていたのだ。そしてそれが形となって現れた。
なら、立ち返るしかない。間違えてしまった所まで戻るしかない。
日向舞を見つけて、それから何をすれば良いのか分からないでいた。なんて言葉をかければいいのか迷っていた。
だが、今なら分かるような気がする。
それを警察官の彼から教わった気がした。
※これは青春ラブコメファンタジーです。ゆめゆめ忘れないことです。




