雨
ということで第二章です。
六月某日。うだるような湿気が空気を重くしていく。心地よかった風や日差しは、次第に梅雨時の独特なものに変化し始めていて、それがゆっくりと日常を覆い始めていた。
ふと見れば、教室の窓には一匹の蛙が張り付いていた。外側に張り付いているせいで、こちらには蛙の腹しか見えない。正直言って気持ち悪い。
……井の中の蛙大海を知らず。蛙を見ると、いつもそのことわざを思い浮かべてしまう。そして、教室という小さな領域で、まるで王様のように振る舞う奴らにこそ、この言葉が相応しいと思ってしまう。
だが、このことわざには、――されど空の青さは知っている、なんていう独自に付け加えられた続きがあった。それを思い出し、思い直すのだ。
うわぁ、俺みたいだなぁ、と。特にネガティブな言葉を肯定的に変えてしまってるところとかもう俺っぽい。世の中でボッチとは否定されがちな存在だが、それを神の存在にまで押し上げてしまった俺とまったく思考が似ている。
というか、だ。
「おまえ、なんでこんなところにいるの?」
この教室は校舎の二階にある。そして周辺には水辺などない。この蛙はどこから来たんだろう。どうやってここまで来たんだろう。ほんと不思議。こんな小さな体で、普通では考えられない道のりを旅してきたに違いない。たった一匹で。
そう思うと、その気持ち悪い蛙に愛着が沸いてしまった。そんな蛙と戯れていたら四限終了のチャイムが鳴る。俺はその蛙のように一人で教室を出た。向かうは屋上。最近は雨ばかりだったが、今日は空の青さを見ることが出来そうだった。
「――おまえ、なんでこんなところにいるの?」
そう問いかけずにはいられなかった。蛙にではない。金剛麻里香にだ。
「なんでって……別にいいでしょ? 私がどこにいたって」
屋上で習慣化されているボッチ飯。とある事件を境にして、そこには新たなボッチが顔を出すようになっていた。
金剛麻里香。もはや、今ではボッチとは言いがたい男人気を確立している彼女だが、天気のよい日は、こうして屋上にきて飯を食べていた。
「それよりもさ、さっき天津くん蛙と話してなかった? 見てて気持ち悪かったんだけど?」
「蛙が……?」
「いや、天津くんが」
平然と言うんですね? そういうの。だが、待て。
「お前……それは遠回しに蛙への侮辱だぞ? もしも俺が猫に話しかけてたら気持ち悪いとはならないだろ? つまり、お前は俺を気持ち悪いと言いながら、本当は蛙を気持ち悪いと言ってるんだ」
だから俺は気持ち悪くない。気持ち悪くない。大事なことだから二回述べておく。三回言うと効果が薄れるから三回目は言わない。
「蛙に謝りなさい。あと、もう少し離れてください」
金剛麻里香は、俺の目の前であぐらをかいてお弁当を広げている。少し身動きする度に、スカートから覗く太ももが艶かしく領域を広げたり狭めたりするため、集中してご飯を食べることが出来ないのだ。もう、見せるなら見せるでハッキリしてっ! 優柔不断とかやめてよっ! もうっ!!
「出た。天津くんの屁理屈」
「屁理屈でも理屈は理屈だろうが。あと屁理屈ってなんか握りっ屁みたいだから止めてくれる? まるで俺がくっさい理論をお前に嗅がせてるみたいじゃねぇか」
「たとえが最低なんだけど、なんか言い得てるんだよね……あと、ご飯食べてる時にオナラの話とか……ホントもう残念過ぎる」
そう言って金剛さんはため息を吐いた。それなら俺と飯など共にしなければいいのに、彼女は全く動くことなくまたお弁当に箸をつけ始めた。……聞いてたかな? 離れてって言ったんだけど。
「もう屋上くる必要ないだろ。金剛さんを馬鹿にする奴はいなくなったしな」
彼女がここに来た理由は、居場所がなくなって逃げ込んできたからだ。なのに、まだ金剛さんはここにいる。まるで、匿ってやったらそのまま居候された気分だ。
俺の言葉に、金剛さんはムッとしたように俺を睨み付ける。そして、それには答えず黙々と食事を続けた。……もう、勝手にしてくれ。
俺たちは黙々と食事を共にした。他愛ない話、どうでもいい話題。それは本当に少しずつだが、つもり積もっていく。だが、俺も金剛さんもそんな会話を重ねるだけで、互いに踏みいった話はしない。
金剛麻里香は俺に何も聞いてはこない。たぶん、聞きたいことはちゃんとあるのだろうが。
だから俺も別に何も話さない。話す必要もないからだ。
俺と金剛さんの距離はかなり縮まっている。こうして向き合いながら弁当食べるなんて思いもしなかった。
だが、それでも確実な距離が彼女との間にはあった。どんなに些細なことを並べてみても、どんなに言葉を繕ってみても、埋められない溝が、確かに俺たちの間には存在していた。
そんな最中。
不意に、ぽつりと水滴が頭に当たった。雨? などと見上げるとその水滴は途端に頭上から降り注いでくる。
「きゃぁぁ!」
金剛さんが叫びながら、お弁当を片付け始める。俺も急いで食事を中断。慌てたように俺たちは食べかけの弁当を抱えると、走って屋上の扉へと駆け込んだ。
「もう……いきなり何? 最悪っ!!」
通り雨なのだろうか。激しい雨足が屋上を打ち付け、なんとか校内に逃げ込んだものの、俺と金剛さんはびっしょりと濡れてしまった。屋上へと続く階段に二人して座り込む。
それから気づいた。
金剛さんの制服が濡れて、下着が透けてしまっていることに……。
井の中の蛙大海を知らず。されど下着の青さは知っている。
俺はそれをバッチリ脳内に焼き付けてから、まるで、見てませんよ! と主張するかのように視線を大きく逸らした。そんな俺の不自然な行動に金剛さんは訝しんでいたが、やがて下着が透けていることに気づき、うずくまるようにそれを隠す。
「……みた?」
「見えてしまった、というのが正確な表現だな……」
だからこれは事故。俺は何も悪くない。俺は何も悪くない。
「そこは見てないって言ってよ!」
「俺は嘘つくの苦手なんだよ!」
「馬鹿じゃないの!? なんでそういう気は使えないのよ! 別のところでは使えるく――あっ……」
金剛さんは我に返ったように言葉を中断させ、間を空けてから腕のなかで小さく「く、くっ……せに」と終わらせた。いや、無理に言い終わらせなくても……。チラリと見れば、金剛さんは顔を真っ赤に染めて小さくうずくまっている。なんとなく気まずくなってきて、何を話していいのやら分からない。
「鞄……持ってきて」
そんな彼女が突然言った。
「鞄……?」
「うん。着替えるから。机の横にかかってる」
あぁ、確かにこれでは教室に戻れないよな。
「わかった。ちょっと待ってろ」
俺はここから離れる理由が出来たことにホッとして、階段を下り始める。俺も濡れてはいたが、別に人前には堂々と出られる。透けて恥ずべきことなど何もない。ほんと、男って楽すぎる。
窓の外を見れば、やはり通り雨だったのだろう。雨足は止んでいた。それでも、雨が通った跡はしっかりと残っている。
湿度がまた少し上がっていた。そこには確かな熱気が含まれていて、どこかで嗅いだのに思い出せないような臭いが、校内を満たし始めていた。




