バス停での出会い
校舎を出て、帰路につく。校門から一番近くのバス停には同じように帰宅する生徒たちがいて、いつものようにバスを待った。
季節は春。吹き抜ける生ぬるい風は心地よく、世界はまるで優しさに道溢れているかのような錯覚をしてしまう。調子に乗った生徒がおどけてみせ、それに少しの笑いが起こった。
俺にはないもの。だが、羨ましいとは何一つ思わない。
それはきっと知っているからだ。その光景が、その日常が、ちょっとしたことで簡単に壊れてしまうものだと。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり……。俺は平家物語の詩の一節をふと思い出した。
栄えるものはいつかは滅びる。きっとそれは形あるものだけでなく、形の無いものにさえ当てはまってしまうこの世界の法則なのだろう。
そんな物思いに耽っていると、ようやくバスが到着した。乗り込む生徒たちの列に並び順番を待つ。少し距離を取っていたせいで、列へは最後に並ぶことになり降りてきた人たちがすぐ側を通りすぎていく。
その最後に出てきた眼鏡の男が、手に持つスマホと睨めっこしながら降りた直後に俺へと話しかけてきたのだ。
「――Excuse me. How do I get to the station?」
「え……」
眼鏡の奥から覗く日本人にはない琥珀色の瞳。表情は柔らかく、そこからは悪意など一つも感じない。道を訪ねられたのだと気づくが、突然のことでよく聞き取れなかった。相手もそれを感じ取ったのか、今度はゆっくりと同じ言葉を発してくれた。
……駅? 微かに読み取れた単語から、男の意図を推測する。駅への道は知っていた。だが、それを伝える英語がすぐには出てこない。助けを求めて乗車列に目を向けるが、彼らは気まずそうにさっさとバスへと乗り込んでしまった。……あっ、なるほどね。
彼らの態度と表情で一気に気持ちが冷めていく。まぁ、彼らにとって俺は別に関わらなくていい存在なのだ。だから、敢えて関わる必要もない。きっとそれは、先ほど俺が教室でやったことと同じ。だから、怒りなんて沸いてこない。
要は俺だけで解決すれば良いだけの話、それだけだ。
俺は出来うる限りの単語を頭に思い浮かべ、手振りを交えて駅への道を男に教える。バスのドアは無情にも閉まり、車体が動き出した。バスを一本遅らせればいいだけのことなのだが、何故か置き去りにされたような感覚になった。
だが。
動き出したバスが、数メートル先で停止した。おもむろにドアが開く。何事かと思い見れば、そこから一人の女が降りてきたのだ。
「What’s the matter?」
その女はヒラリと着地し、こちらへと駆け寄ってくると完璧な発音でそう男に話しかけた。うちの制服じゃない。この街では有名なお嬢様学校の制服だ。
男はそれにわざとらしささえ感じさせる反応で、一気に言葉の量と速度を速めた。それはもはや聞き取ることすら出来ないネイティブ。その事に恥ずかしさとネガティブになりそうな俺を無視して、女は一言「ok」と微笑む。これはさすがに聞き取れた。
俺は見事な襷リレーを女と交わし、彼女は見事なまでに彼へ駅までの道案内をした。
呆気にとられていると、話が終わったのか男は最後にカタコトの「アリガトゴザイマス」で手を合わせて女に祈り、それに彼女は親指をつきだして返した。
「助かった。ありがとう」
男が去った後で改めて口にすると、ようやく彼女は俺を見る。
「やっぱり降りて良かった。あの人、運転手の人とも話してたけどイマイチ理解してなさそうだったし」
「そう、だったのか」
「うん。それと、窓から見たあなたがとても下手くそなコミュニケーションしてたから」
そう言って女はクスリと笑う。見られていたのだと気付き恥ずかしくなった。
「次、何分だろー?」
それから彼女はくるりと身を翻し、今度は時刻表と睨めっこをする。それから「九分後だー」なんて独り言を洩らした。うん……独り言、だよな? 返答する必要ないよね?
心配になって女を見ると、屈んで時刻表を見ているせいかこちらに突きだしたお尻とスカートの下の白い太ももが際立って見えてしまう。いかんいかん。
何も悪いことをしているわけではないが、なんとなく視線を逸らしてまだ来るはずのないバスを遠くの道路に探す。すると、腕のあたりをちょんちょんとつつかれた。
「あのさ、一つ聞いてもいい?」
さすがは外国人と会話するだけある。なに? この近い距離感?
「なっ、なんですか?」
思わずのけぞって敬語で返してしまった。それに彼女は不審そうな表情をしたが、構わず続けた。
「あのさ、霧島海人くんって知ってる?」
その瞬間、俺は無意識のうちに抱いてしまった淡い期待に気づいて、そのことに笑いそうになってしまった。だよな、俺に興味などあるはずがない。
「知ってる。同じクラスだし……」
「うそっ! ほんとにっ!?」
その言葉に、彼女の声音がワントーン上がった。まぁ、無理もない。霧島海人は、学校内でもおそらく一、二位を争う有名人だ。サッカー部所属、学年でも成績上位であり、なにより長身のイケメンだ。信じられないことに彼にはファン倶楽部なるものが存在しており、女子生徒の中では、誰も侵してはならない絶対領域として神格化されている。それは学校内だけにとどまらず、現在進行形でその信者を増やし続けている……らしい。
「えっ、じゃあさ! 一回でいいから仲介して欲しいんだけど!」
表情はパァッと明るく、その瞳はキラキラと輝いていた。その圧に押されながらも、俺はハッキリと断りをいれることにする。
「無理だ」
そう、無理なのだ。たしかに俺は霧島とは同じクラスであり毎日顔を合わせている。だが、それは同じクラスというだけであって立場までもが同じというわけじゃない。彼と俺には埋めようのない差があるのだ。
「そこをなんとか! 私の友達で霧島くんに想いを寄せてる子がいるの。付き合うことは出来なくても、会わせてあげたいんだ!」
うわぁ……そういうタイプか。俺は目の前で手を合わせ俺に頭を下げる彼女に引いてしまった。わざわざバスを止めてまで降りてきたところからも察せられるように、どうやら彼女はかなりのお節介な性格らしい。俺が最も苦手とするタイプの人間だ。こういうタイプには、ハッキリとした態度を取らなくてはならない。
「無理だって」
「じゃあ、話をしてみるだけでもお願いっ!」
出た。勝手に譲歩して交渉してくるパターン。はた目から見れば、交渉の常套手段に思えるのだが、よくよく冷静になれば、こちら側には何の利もないのがよく分かる。
俺はため息を吐いた。俺が霧島に話しかけたところで相手にされるとは思えない。さらにいえば、神に話しかけようとした愚か者として断罪される可能性すらある。たとえ話が通ったところで、俺には何の得にもならない。
そのことを彼女には理解してもらわねばなるまい。
だから、俺は最終手段に出ることにした。
「俺には友達がいない」
「……え?」
一瞬の間があった。それに構わず続ける。
「クラスで会話する奴が一人もいない」
「……は?」
「虐められてるわけじゃない。むしろ、いじられることすらないんだ」
「……なに? 急に」
自分の声が震えてるような気がしたが、極めて冷静に言葉を紡いだ。……さぁ、仕上げだ。
「そんな俺が霧島に話しかけることができるはずがない。相手が悪かったな? 諦めてくれ」
堂々とこれ以上ないほどに強く言い切ってみせた。その昔、侍の切腹は名誉ある死と言われていたが、これもそれに近いものがあるだろう。潔さでは彼らにも劣りはしない。
そんな覚悟で放った言葉に、目の前の彼女はひどく残念な瞳をこちらに向けていた。
だが、これにはさすがの彼女も諦めるしかないだろう。俺は歯を食い縛り決着を待った。
……にも関わらず。
「えっーと……じゃあ、私のLINEのID渡してくれるだけでいいや」
なんと彼女は、そう言って鞄からスマホとメモ張を取り出すと、さらさらと自らのLINEのIDをそこに書き留めて、俺に渡してきたのである。
「俺の話聞いてたか? そもそも話しかけることすら出来ないんだって」
「知らないわよそんなの。渡すくらいなら出来るでしょ?」
キッと睨み付けられてしまい、思わずよろめいてしまった。……殺気ですか?
「いや、これを渡しても連絡来るとは限らないぞ?」
「仕方ないじゃない。あなたが霧島くんに話を通してくれないなら、これが最善手なんだもの」
「お前……その最善手で、あっさりと自分のLINEのIDをどこの馬とも知れない男に託すのか? ……信じられん」
「信じられないのはあなたよ。友達がいないとか堂々と言ってのける人なんて初めて会ったわ」
「事実だからな。嘘ついてどうする?」
「羞恥心ってものはないの? 友達がいないって恥ずべきことよ?」
彼女は呆れたように言った。だが、それは少し違うと思った。
「友達がいなくて何が悪いんだ? 世間はそれを悪のように言うが、本当に悪なのはそれだけで人を卑下する考え方のほうだ」
「……正論めいてるけど、ただの屁理屈でしかないわね」
「屁理屈で何が悪いんだ? 世間はそれを悪のように言うが、本当に屁理屈しか出てこないんだから勘弁して欲しい」
友達がいないというのはかなりのパワーワードだ。これを使えば「外で遊びなさい!」と、うるさい母ちゃんですら、一瞬にして黙ってしまうほどの兵器である。兵器は悲しみしか生まない。ゆえに、黙った母ちゃんも、それを言った本人ですら涙を流すことは不可避である。
だからこそ、大きな効力があるのだ。だからこそ、人は兵器のない平和を望んで止まないのだ。
最終手段を行使した俺は、彼女が白旗をあげるのを待った。もう反抗しないで欲しかった。これ以上の被害は無意味でしかないのだ。主に俺自身への、だが。
「……ごめん。よく分かったわ」
彼女は諦めたような声を出した。そうか、ようやく分かって……。
「なら、私があなたの友達になってあげる。これなら、たとえひどいことになったとしても、私が励ましてあげられる」
優しげな瞳で、そのLINEのIDを俺へと差し出してきたのだ。……うん。全然分かっていなかった。
「どう? これなら残念なあなたにも利益がある。あなたはクラスでひどい目に遭うかもしれないけど、代わりに私という友達が出来るの」
「肉を切って骨まで断とうとするな。その紙切れが赤紙に見えてくるぞ。死刑宣告かよ」
「死ぬと決まったわけじゃないわ。もしかしたら、あなたは霧島くんと仲良くなって友達になれる未来もあるかもしれないじゃない」
「あり得もしない希望を持たせて送り出そうとするな。冷酷な指揮官か」
「おかしいな……私と友達になれるのに、何でそんなに拒むの? 他の男ならすぐに飛び付いてくるのに」
そんなことを真面目に呟く彼女に俺は引いてしまった。どうやら、残念なのは俺だけではなかったらしい。