彼の昔話
「一つ、昔話をしてやろう」
開けた窓から入ってくる風は車内を抜ける。彼は香水でも付けているのか、少し甘い香りが漂っていた。
「俺の愛する嫁さんは、姫沢高校出身だった」
唐突に始まった彼の昔話。それは彼の言う答え合わせと何の関係があるのかは、皆目検討もつかない。
「まぁ、それを知ったのは結婚した後で、俺と嫁さんが出会ったのは大学の時だ。彼女は慣れてない合コンの人数合わせとして呼ばれていて、他とは明らかに毛色が違った」
「なんですか……急に。俺の緊張でもほぐしてやろうという余談ですか? 答え合わせなら端的にお願いしたいんですけど」
「限られた時間内でそんなことしないさ。別に緊張をほぐしてやるつもりもない。天津少年は、答えなんか言っても納得はしないだろ? なら、説得力が有効な体験談でも交えてやろうという俺の粋な計らいだ」
「納得しないわけじゃなく、鵜呑みにはしないだけですね」
「お前、ほんと生意気だなぁ。若いうちはそれくらい尖ってても良いとは思うが。……あぁ、俺も若さでは負けてないからな」
「いや、そこ張り合われても」
彼は、噛み殺すような苦笑をする。その余裕が、どこか俺を苛立たせた。
「まぁ、聞けよ。合コンでのテクニックなんかを天津少年に伝授しようってわけでもないんだ。結果的に言えば、それが彼女と俺が付き合うキッカケだったというだけの話さ。ちなみにだが、俺はその時の女の子全員の電話番号はゲットしてたな?」
「それ、ただ自慢したいだけじゃ……」
「嫁さんには内緒だぞ?」
なんだその「クラスの皆には内緒だよ☆」的な軽い茶目っ気。じゃあアレか。クラス以外の奴には言いふらしても言いわけですね? セリフだけは格好いいが、発言の内緒度合いがガバガバなんだよなぁ。これでは、こちらまで秘密にしなきゃならない使命感がガバガバになりそう。二周目のループで「私も魔法少女になったの! 一緒に頑張ろうね!」とクラスメイトの前で言ってしまうのも無理ないよなぁ。だって、今のクラスメイトはあの時のクラスメイトじゃないものっ! わたしっ、交わした約束忘れないよっ!!
「それで付き合ったんだが、嫁さんは俺が思ってた以上のご令嬢でな? デートをする度に、普通の女性が驚いたり嬉しがったりする所が……まぁ、なんというか、ズレてた。簡単に言えば、俺と嫁さんとは価値観が圧倒的に違ったんだ」
カラオケに行けば、彼の歌声や歌唱力よりもカラオケ自体を珍しがって喜び、映画に連れ出せば、その内容よりも沢山の人たちと共に同じ映像を見ることに驚き、行きつけの居酒屋に連れていけば、「たまにはこんな風情ある所も刺激があっていいね」と言われたらしい。
「俺は少しずつ劣等感を感じるようになっていた。それまで、俺を形作っていた自信みたいなものが、彼女のちょっとした発言や行動で崩れていくような気がした」
「でも、別れなかったんですね」
「好きになったからな? ……というよりも、意地みたいなものがあったのも確かだ。俺はなんとか彼女の価値観に追い付こうとしてた。身につける物はより高価な物に、生活もより質を高く、そして――」
彼は言葉を切ってから、ふっと笑い告げる。
「――付き合う友達も、な」
軽めに吐き出された言葉だったが、それはゴトリと音をたててしまいそうな程の重みがあったようにも感じられる。
「結果的に価値観ってのは変わらない。生まれてから生きてきた環境や考え方は、どうしたって染み付いてしまってるもんだ。俺が彼女に追い付こうとすればするほど、これまで得てきたものを捨てるしかなかった」
その時の彼からは、それまであった余裕みたいなものがなくなり、どこか悲しい雰囲気があったように思う。
「後悔はしてない。それで得た物もたくさんある。嫁さんを今でも愛してるし、娘のことも愛してる。ただ……俺は運が良かったとは思うんだ。彼女の父親が経営者で、その事業に参加させて貰えたし、それらは成功と呼べる数字を出していった。まぁ、俺が有能だったと言うことも出来るが、わりと周りに助けてもらったことも多々あった」
ちょくちょく自慢を挟んでくるが、実際そこに高慢な感じはない。逆に慎重で繊細な性格をも窺わせる。
「俺が頑張って手に入れてきたものは、彼女にとっては至極当たり前のことだった。だからこそ、俺はより背伸びをしなきゃならなかった。その背伸びが……運良く回ってくれただけなのかもしれない。一歩間違えれば、俺は今ここに居なかったかもしれない。その頃はそんなこと……全然考えちゃいなかったんだがな?」
今にして思えば薄氷の上を全力で走っていたようだと彼は語った。そして、そう在らねば今の自分は無かったとも語った。
「天津少年、世の中はまるで平等であるかのようにこしらえられているが、実際には明確な格差がある。平等で居られるのは、分を弁えられた者たち同士の中でしか成立しない。まるで同じ人間同士のように思えるが、あの子達はあまりに特異な価値観を有している。子供達同士では分からないのかもしれないが、姫沢に娘を入学させた親たち皆がそうなんだ。それだけはハッキリ言える」
……そう言えば、りんちゃんや日向舞たちからは、それを思わせる発言が多々あったようには思える。
動物園に行った時、彼女たちはパンダが普通に触れあえるものだと勘違いしていた。学生のくせに簡単にタクシーを一人で捕まえてしまうのも……校庭に学年全員呼んでしまうのも、親の権力を衣にして教師たちと対抗してしまうのも……今にして思えばとんでもないことだった。
不意に……霧島が言っていたことを思い出したのだ。
『俺たちとは住んでいる世界が違う人間だ』
そして、彼はこうも言っていた。
『どんなに優秀でも、どんなに有能でも、この世界には絶対に覆せない壁がある。それを覆そうものならば、むしろ世界が壊れてしまう。だから、世界はそれを阻止しようとする。……そういうの、君は分かるだろ?』
霧島は分かっていたのかもしれない。彼女たちとは、絶対に解り合えない部分があると。だからこそ、彼はそこで諦めた。たしか、彼の祖父は経営者とも言っていたから、もしかしたらその辺の認識は既にあったのかもしれない。
価値観の違い、格差、それらは社会的に学生という身分しか持たない俺たちにはひどく分かりづらいものだ。
だが。
「そんなに……違うものですかね」
俺は疑問を提さずにはいられない。これまでの彼女たちからは、確かに特異と呼べる部分はあった。だが、考えや悩みに関して言えば、彼女たちはとても普通の人みたく思える。そして、それは俺だけでなく、この世界に生きている人皆がそうなのだ。価値観が違うからといって、感じることまで違うとは限らない。格差があるからといって、悩みが違うとも限らない。見える景色は同じで、体温も匂いも感触さえも、確実にそこにある真実は変わらない。
「まだ分からないだけさ。そのうちに分かる。ただ、その時に天津少年がどうするか次第だ。俺はその時、君が後悔しないことを願っている。だから、忠告しておく必要はあると感じた。知っていて実感してしまうのと、知らずに気づかされるのでは、大きく異なるからな?」
彼は静かにそう言ったのだ。
「答えはそういうことだ。二日前の君からは、そういったことを何も考えていないように感じた。ただ当然のように、当たり前みたく、彼女たちと共にあれるような思考を君からは感じた。それは反してとても良いことだとは思うが、何か一つでも狂ってしまえば危うさにも思えてしまう。君が……彼女たちとは違う人間なのだと判断してしまった時、君は君自身を傷つけてしまいかねない」
「余計なお世話ですね」
「まぁ、そうなんだろうな? ……それでも指摘しないわけにはいかなかっただけさ。決めるのは結局君だから」
俺の事を生意気だと終始言ってのける彼だったが、怒りや嫌悪といった負の感情はない。むしろ、彼は俺に親近感みたいなものを感じ取ったのかもしれない。その臭いは、彼がとうの昔に捨てたものだった。だから、彼は言わずにいられなかったのかもしれない。
「もっといろんな事を知ると良い。今や世界は様々な事に溢れてはいるが、公表されている事、教えられる事が全てじゃない。そしてそれを知るには、自分から動くしかない。動かずにいればその分だけ遅れを取る。取った遅れは取り戻せない。それに気づくのも、ずっと後になってからだ」
説教じみた言葉は、風に拐われてしまいそうなほど軽く語られる。むしろ、そうあるように敢えて軽く言っているのかもしれない。
軽快なエンジンの音。気持ちの良い風。平穏な海沿いの景色は平和そのもの。ただ……肩から腰にかけて掛けているシートベルトだけが、少しだけ締め付けたように思えた。
「ありがとう……ございました」
その説教に対してなのか、別荘を借りた二日間についてなのか、はたまたどちらもなのかは自分でもよく分からない。それでも、俺はその言葉を言わねばならない気がした。それを言うことが、彼の言葉を理解したのだと証明する……今出来る唯一の事に思えた。
彼はただ笑いながら「おう」と返しただけ。
気がつけば、バスのロータリーはもうすぐだった。