プロローグ。ぼっちとボッチ
ぼっちとは、孤独である者を指す。
周りから疎まれ、退けられ、拒絶され、そうやって誰とも交わることを許されない者こそ、ぼっちである。
このぼっちは、時にイジメとも間違われた。誰かと共に在りたいのに、誰かと何かを語らいたいのに、それを周りが許さない。だからこそ、その孤独は意図的に周りから与えられたものであり、ぼっちは貧弱の権化として世間にその名前を知らしめる。
だからこそ、みんなはそれを嫌がった。そして、まるでぼっちとは悪であるかのように宣った。
そうやって人は、自分から遠ざけたいものを嫌悪し、蔑み、憎み、それは自分に当てはまらないのだと主張したのだ。
そして、そんな勘違いをした者たちは、その悪から離れる術を会得し始める。誰かに便乗し、意見を合わせ、感情を合わせ、さも自分が誰かの味方であるかのように振る舞った。
それが、新たなぼっちを作り出す悪だと理解しておきながら。
ぼっちとは、成りたくて成るものではない。成りたくなくて、それを誰かに押し付けて、押し付けあって、その生存競争に負けた敗者に貼り付けられる……云わば汚名なのだ。
では、そのぼっちを自ら望んだ者がいたとしたら?
誰かと交わることを嫌い、誰かと語らうことを嫌い、ぼっちを作り出す悪の連鎖そのものを悪とする。しかし、それは誰にも理解されず、共感されることもなく、確かな正義だけは己のみにしか解らない。
そんな者がいたとしたら、彼はぼっちと呼べるのだろうか。
いや、そんなことはない。
その者は、ぼっちを押し付けられたわけじゃない。己が信念のもと、ぼっちを欲したのだ。
だから、このぼっちは貧弱の権化などではない。確かな強さを持つ強者だ。
ぼっちが貧弱の権化として孤独を指し示すのなら、このぼっちは強者の証として孤高の神を名乗ろう。
周りから押し付けられたのではなく、自らの意志でそれを掴み取ろう。
その境界線はひどく曖昧ではあるものの、確かな線引きがそこには在った。
故に、俺はこの貧弱の権化を、孤高の神として区別したのだ。
ぼっちよりもボッチの方がカクカクしててなんか格好いいし、平仮名よりも片仮名の方がなんか強そう。それに、片仮名の方がスタイリッシュで、お洒落感ある。まぁ、お洒落というよりはオシャレ。もっというならオサレ。やばい。あんまり強い言葉を使いすぎると弱く見えてくる。本当は強いのに、みんなには、俺が弱いのだと錯覚させてしまいそう。……ったく、まだ始解しかしてないんだよなぁ。
だから、みんな俺に寄りつかない。『寄りつかないからぼっち』なのではなく、『ボッチだから寄り付けない』のだ。
だから、みんな俺を嫌悪する。あれだよね? 俺が強すぎるから、そうやって遠ざけてないと負けてしまうものね。
だから、みんな俺と話さない。というか、神様と話せるわけがないだろ。身の程を知れよぉ。
だから、だから、だから。
勘違いしてはいけないのだ。期待などしてはいけないのだ。願ってはいけない……望んでもいけない。
俺は、そういった強さを求めたのだから。
その強さの代償として、それらを犠牲にしただけなのだ。
……だから。
――俺は、俺の世界だけで最強となった。