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目の前で、侍女の方がぽかんと固まっていた。
普段はレメネシア様にお仕えしている方だと聞いたのだが。
この反応は、あまり侍女がするようなものではないと思われる。
「……あの?」
どうしたものか困ってしまい、とりあえず首を傾げ、声をかける。
は、と慌てたように息をつき、頭を下げられてしまった。
「も、申し訳ございません。火傷があると聞いていたもので」
「騙していたのは……申し訳ありません。祖父に肌を曝すなと教えられていたもので……」
「いえ。そのお言葉は、確かでございます。あまり、お姿を出さないほうがよろしいかと」
「そう、ですか」
そういうものなのか。よくわからないが、いいとしよう。今さら顔を出すのは妙に恥ずかしいので。
というか、帽子がないと視界が広すぎて怖い。世界がよく見えすぎる……。
仕方ないことだと自分に言い聞かせ、恐怖を振り切るように気になっていたことを口に出す。
「ところであの……私のほうが身分も年も下ですので……敬語は……」
「なりません。これから品評会に出るのです。貴方はこの家を代表する庭師なのですから」
「……はい」
迫力に押された。
年齢を推し量るのは日々人の顔を見ていないためとても難しい。そんな人間が察するに、目の前の女性は、母と祖母の間、と呼ばれる年齢に見えるのだが。
それに、レメネシア様付きの侍女ということは、明らかに格上なのだ。
本当に、こんな扱いを受けてしまっていいのだろうか。
慣れないドレスを着ているのもあって、落ち着かない。
黒に、深い青の薄布を何枚も重ねたドレスはサイズも丁度よく、着心地も良い。それは、確かだが。
同色の長手袋を前提としているため、腕どころか肩も出ているし、背中も開いている。
……もちろんこんな服、着たこともない。
むしろ、普段はもっと着込んでいるので、これだけ薄着の時点でいろいろおかしい。
「さぁ、お座りください」
有無を言わせぬ様子で言われてしまい、静かにドレッサーの前に座る。不安げに座る自分の顔は日に焼けないせいで青白い。
品評会に出るのは他の人でよかったのに。
そんな恨みがましい自分が正面の鏡に映る。
「それでは失礼いたします」
背後に立った侍女の方が櫛をそっと、通す。
とても丁寧に。
こうして誰かに髪を梳かれたのはいつ以来だろう。本当に幼い頃、祖父にしてもらったくらいだ。
後々自分でするようになったので、ほとんど覚えていない。
「とても美しい髪でございますね」
「……ありがとうございます」
ドレスと同じような色をした、真っ直ぐな癖のない髪。
それを褒められるとは思っていなかった。
少し嬉しい。
器用な手はくるくると髪を整えていく。緩く、けれど崩れないように束ねていく指先の動きが面白い。きらきら輝く糸を編みこみ、星のように煌めく飾りをつける。ぼんやりと青みのある夜の闇にも似た髪の色に合わせられると、夜空みたいだ。
そんな手腕は、鏡越しに見ていても、素晴らしい動きとしか言いようがなく。
長い髪をさらりと後ろに流したままの仕上がりは、いつもきっちりと結い上げているものとは違っていて、なんだか新鮮に感じられる。
「それでは、次はお化粧をさせていただきます」
「……は、はい」
もちろん、したことがない。顔を出さないので気にしていなかった。肌の手入れが、と嘆く言葉も聞き流していた。
目を閉じ、頬をすべる感覚に身を任せるのは、なんとも不安だ。
あと少し、くすぐったい。
とても静かに、会話をすることもなく作業は進む。余計な詮索もないので、助かるが。
ユギエレムスト様が他言することはない優秀な侍女、と言っていたが、確かなのだろう。
絶対の信頼を受けているのは、なんとなく理解できる。なんというか、安心感のようなものがある。こうして身を任せても大丈夫、と言いたくなるような。
「終わりましたよ」
優しい声に目を開く。
柔らかく目を細められて、居心地が悪い。
こうして、誰かの顔を見ることも、誰かに見られることもないのだから仕方ないだろう。
鏡の自分に目を向ける。血色のいい娘が、そこにいた。
……とても違和感がある。
「元がお綺麗ですので、あまり手を加えておりません。ご安心ください」
「……はい」
どう答えればいいのだ。
よくわからず、曖昧に答えた。
そのまま、ドレスと同じような、濃い色をした層のあるベールがつけられ、落ちないようにとピンで留められる。後ろは開いていた背を覆うほどに長く、前は首、いや……鎖骨ほどまでの長さか。
世界がやんわりと、影に覆われて安心する。髪も顔も、外からはほとんど見えないことだろう。中からも、うすぼんやりとしか見えていないが。
それでも、いつも帽子で遮られている世界よりは、見えているような気がする。
そっと手袋を差し出されたので、身につけた。
いつもの分厚い皮手袋とは違う心地よさのある素材。もちろん、とても華奢で庭師の仕事など出来る代物ではないが。なんだか、身分不相応すぎてそわそわとしてしまう。
やはり今からでもフェムル様と変わってもらえないだろうか。
無理だとわかっていても、足掻いてみたい。
「それでは、ユギエレムスト様をお呼びいたします」
「……はい」
あぁ、だめだ。絶対逃げられない。
そんな絶望感のある声だった。
多分返事は引きつってしまっていただろう。
必要最低限の音が響いている。扉の向こうの誰かに、支度が整ったと報告をして、呼びにいく。
そんな光景は見なくてもわかりきっていて、緊張が増していく。
……気持ち悪くなりそうだ。
深呼吸を繰り返す。
そして、何度目かの時に、ノックが響いた。
「準備は出来たようだね、ルシアータ」
明るい声。
聞き馴染んだそれに、少し、ほっとしてしまう。
顔を向ける。もちろん、はっきりとした姿なんて見えない。ただ、なんとなく影がゆらゆら動いているのがわかる程度だ。
けれども、いつもの帽子よりも見えていると思われる。
「あぁ、よく似合っているね」
つかつかと歩み寄り、跪く。
椅子に座ったままなので、目線はほぼ同じ、だろう。多分。
「美しいルシアータ。どうかそのベールの下を見る許可をいただけませんか?」
茶化したような言い方。
……不思議と、落ち着いた。
「申し訳ありません」
「相変わらず君は頑固だね。ルシアータ」
ふふ、と笑った気がした。
声が、少し近い。
落ち着いたと思っていたのに、やっぱり、緊張する。
「それでは、行こうか。お手をどうぞ、お嬢様」
「いえ……私は……」
「女性をエスコートするのが男性の役割だ。僕の仕事を奪わないでおくれ」
「…………はい」
渋々頷き、差し出された手を掴む。
ゆっくりと立ち上がり、促されるがままに歩くのは……とても落ち着かない。
とはいえ、人払いはされているらしく、誰にも会わない。
よかった、と内心での安堵は悟らせないようにしながら歩く。
かかとの高い靴は慣れないので、少しおぼつかないが。
「さぁ、乗って」
押し込まれるように馬車に乗り込む。
振り返ると、ずっと後ろをついてきてくれた侍女の方がこちらを見ていた。
「ご安心ください。ルシアータ様。とても、お綺麗ですから」
暖かな声に頷く。
内容はともかく、安心感はいただいた。
ユギエレムスト様が向かい側に座り、扉が閉まる。
動き出した馬車は少し揺れるが、不快にはならない。
こうして屋敷の外に出るのは、初めてだ。まさかこんな形で出ることになろうとは。
震えそうな指先を組んで深く、息をつく。
「大丈夫だよ。ルシアータ。君は、ただ僕の隣にいてくれるだけでいい。
今回は、品評会だ。君のような庭師も大勢いる」
「はい」
花は、すでに会場に運び込まれている。
きっと、その中に今回準備したものと……秋の庭から盗まれたものがあるだろう。それ自体は特に心配はしていないのだが。
だったら何故、こんなにざわざわと不安が押し寄せているのだろう。
「……すまないね。ルシアータ」
「え?」
「君は、乗り気ではないだろう?」
「……そう、ですね」
「アーゼナル家としては本当に君には感謝しているんだが、君は……多分、これからが大変だ」
大変?どういう意味だ。
声も少し落ち込んだようだし、顔、はよく見えないからわからないが……。
気になってしまい、不躾だとは思ったが、つい聞いてしまう。
「大変、とは?」
「君は、今回の件で多くの人に周知されてしまうだろうからね。アーゼナル家としては喜ばしいのだが、君はそうでもないだろう?」
「そこまでにはならないと思われますが……。それに、私はアーゼナル家に仕える身です。少しでも貢献できるのであれば、喜ばしいことです」
幼い頃から生活の場を、仕事を与えられた。それがどれだけ尊いことかは、知っているつもりだ。
外の暮らしはよくわからないが、出たいと思わないということは、現状で満たされているということだろう。
それは、アーゼナル家でお世話になることが幸せであるということだ。
「本当に、君は良い子だね。ルシアータ。アーゼナル家は君を失うわけにはいかないから、そう言ってもらえると嬉しいよ」
「……あの、ユギエレムスト様は、あまり嬉しくありませんか?」
「うん?」
ふいに、言葉が口から飛び出ていた。
完全に意図せず、ぽろりと出してしまったのだ。
どうして、嬉しくないと思ったのかすら、自分でもわからないのに。
つい慌ててしまう。
「あ、も、申し訳ありません。不愉快などではないのです。ただ、ユギエレムスト様の言い方では……その、本意ではないのかと……思ってしまいまして」
どんどんと深みにはまっている気がする。主に深入りするのはよくないというのに。
あぁ、どうしよう。こんなつもりでは。
慌ててしまって、上を向けない。
顔は見えないけれど、帽子がないと透けて見えそうで、怖い。
どうしたものかと呻きそうになったところで、ふいに、笑い声がした。小さく、堪え切れなかったような声が。
「……ユギエレムスト様?」
ゆっくりと、頭をあげる。
影が少し、揺れている。
「すまない。ルシアータ。君が慌てているところを初めて見たから」
「あ……その、私は……」
「いや、気にすることはないよ。君は本当に優しいな。僕に気を使う必要はないというのに。
僕にとっても、君はとても大切だ。君がいてくれることは、とても嬉しいよ」
「……そう、ですか」
「言い方が悪かったね。嬉しくないと君が判断した理由はきっと、僕が納得しきれていないからだよ。君に迷惑をかけてしまうというのに、側にいてくれることが嬉しいんだ。けれどそれは、君の自由を奪うことを喜んでいるようで腑に落ちない。
君は、それを感じ取ってしまったんだろう」
「あ、の……ユギエレムスト様。私はただの庭師です。そんな気に病むようなことはございません。
私は、今の生活がとても好きなのです。むしろ、自由を与えていただいて感謝しております。
本当に、ありがとうございます」
勢いで、頭を下げる。本当に、立派な主だ。こんなに気にかけてくださるなんて。
少々言い方は語弊がある気がするが。
それでも、とても嬉しい。
「まったく、君は本当にいい子だね。ルシアータ。おかげで、少し気が晴れたよ。ありがとう」
「いえ……」
言葉が、続けられず言いよどむ。
庭師相手にこうして礼を言う主というのは、いるのだろうか。いたとして、こんなに優しく言ってもらえるものなのだろうか。恵まれすぎているのではないだろうか。
どうにも、慣れないことばかりでぐるぐると混乱している。
ごとごとと馬車の音に意識を集中させ、思考を落ち着かせる。
品評会への道は、いろいろと、遠い。