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「……はい?」
思わず声が出た。
昨日は来客のため入らなかった秋の庭。基本的には水遣りだけでいいかと思っていたのだが。
如雨露を横に置き、バラを前に、座り込む。
枝が、折られていた。そんなに多くはない。が、ずいぶんと根元のほうが折られているものもある。
花泥棒、というやつか。
もちろん、そんな華麗なものではなく、比較的悪質だと言える。
切り口は乾燥しているが、古いわけではない。多分、昨日の茶会に持っていかれたかのだろう。
困ったものだ。
正面からは見づらい場所なので大きな影響は出ないが。
せめてすっぱり切ってくれればよかったのに。折れた部分が痛々しい。
そこまで見て、ふと思う。
……これはもしかしなくても、フェムル様に報告したほうがいいのだろうか。
大事になるのは困るが、言わずにいるわけにも。
一応、意図していない理由によって景観を損ねたことになるわけだ。
それなら、言ったほうがいい、のだろう。
気が重い。
はぁぁ、と深く溜息をついて、立ち上がる。そのままぐるりと、水遣りをしながら注意深く一周をしたが、他の被害はないらしい。
それはよかったのだが……。
とりあえず、フェムル様の現在位置を考える。
まだ昼には少しあるので、備品庫で育成計画を練っていることだろう。
庭をひたすら奥へ進み、使用人通路の途中に位置する備品庫の入り口に立つ。
ずしりと淀む気持ちを押し隠すように深呼吸をして、ノックをした。
「フェムル様、いらっしゃいますか?」
「おう。入れ」
あぁ、ちゃんといらっしゃった。
よかったような、悪かったような。
とても複雑だが、ひとまず中に入る。
備品庫の左側にはちょっとした会議が出来る場所がある。そこの机に、直接座って書類を見ているフェムル様を見つけ近づいた。
「ルシアータか。珍しいな」
秋の庭はほぼ好き勝手にさせてもらっているため、庭の育成計画も自由にさせてもらっている。
確かに、こんな時間にここに近づくことは少ない。
もう少し顔を出したほうがいいだろうか。いや毎朝の定期連絡はちゃんと出ているのでそれで許して欲しい。
「フェムル様、報告があるのですが」
「どうした?」
「秋の庭なのですが、花を持っていかれた形跡が」
「……どれだ」
声が変わった。いつもの明るいおじさんのものではなく、年季の入った厳しい庭師だ。
ぴり、と空気が凍った気がして、つい腹に力を入れる。
花を愛するこの人にとって泥棒なんて、許せる存在ではないのだろう。
「正面右側に植えられた黄色にピンクの挿し色があるバラです」
「あぁ、あの見事な木バラか……。状況は?」
「表からは見えない場所を、根の程近くから二本ほど。上部の花のほうを五本ほど折られていると思います」
「ひでぇことするな……。被害はそれだけか?」
「はい」
「……よし、一度見せろ」
「はい」
よいせと机から降りて、手にしていた紙をそのまま置くフェムル様。
……いいのだろうか、あれは。
重要な紙、はさすがにこんな形で読んだりしないか。
そう思うことにして、さっさと歩き出してしまった姿を追う。
すたすたと、それなりに早い歩調に合わせて小走りに。
なんとなく声をかけづらい雰囲気があるが、やはり怒っているのだろう。
多分、言わなかったらこれよりさらに恐ろしいことになっていたに違いない。言いに来てよかった。
普段は温厚なだけに、やはり怖い。
行く時の半分ほどの時間で秋の庭にたどり着き、迷うことなく被害に遭ったバラへ向かう。
「……なるほど」
状況を確認したのだろう。
がさがさと葉を揺らし、ぐるりと周囲を巡り、動きを止める。
そのまま黙り込むこと数秒。
居心地の悪さに身じろぎした時、唸り声がした。
「こりゃ報告だな」
「報告、ですか」
「あぁ、ユギエレムスト様がご帰宅次第だ。ルシアータ、お前も付き合え」
「……はい」
思った以上に大事になってしまった。
けれど……本当に、報告しておいてよかった。
少なくとも、怠った場合説教ではすまないところだった。
「じゃ、あとはしばらく好きに作業しろ」
ふ、と圧迫感が消えた。
そして、ぽふ、と帽子越しに何かが乗る。フェムル様の手だったらしい。
頭が左右に揺れ、ちょっとふらついたところで手が離れた。
「相変わらず、この庭は見事だな。お前の腕は信頼してるぞ」
「……ありがとうございます」
頭を下げると、満足したのか来たときよりは少しゆったりした足取りで歩いていく。
庭の奥へ消えたのを確認して、顔を覆う薄布を上げた。
視界が広がる。空が見える。庭の全容が見える。
今はまだ花が少ないため、色彩は緑が多く、ちらほらと他の色が見える程度だが。後々花が咲くことだろう。そうなった場合に増やすべきものはあるだろうか。減らしたほうがいいものはあるだろうか。咲く予定の花と色を照らし合わせ、悩む。
今のところはこれで十分だと思うのだが……。
お客様にご満足いただけるものになる予定だ。
またユギエレムスト様がお帰りになってからこちらを見ることになるだろうが、この状態なら大丈夫だろう。
被害に遭ったバラをどうにかしたい気持ちはあるが、触らないほうがいい。
日は天辺。まだまだ時間はある。
少し早いが昼食にして、今日は奥の庭の手入れをすることにしよう。
「なるほど……これはひどいね」
押し殺した声だった。
先に報告を受けたらしい主は、早々に帰ってきて、一直線に庭へと向かってきた。
夕暮れ時なので、明かりがなくとも被害が見えるのは、ありがたいことだ。
「花泥棒、にはいささかやりすぎではないかな?」
「そうですね……ずいぶんと下のほうからもやられております」
「やはり、品評会、か。これだけ盗まれた場合、増やすことは可能なのかい?」
「挿し木は可能な時期でございますが、根付くかは庭師の腕次第でしょう」
「そうか……わかった」
あぁ、そうか。フェムル様が危惧しているのは、品評会なのか。それでわざわざ報告を。
考えもつかなかった。まだまだ未熟だ。
「ルシアータ、品評会の花は、無事なのかい?」
「はい。問題はありません」
「そうか。ならいいよ」
「今回の件はどうなさいますか?」
「犯人を絞るのは簡単だろうけれど、あまり波風を立てるのはよくないかな。ルシアータの花に目をつけたのはよかったけど」
……言葉が止まった。
思わず頭を上げるが、腹まで見えていた主が、胸まで見えるようになった程度。
これ以上は、いけない。
自制の声がかかった気がした。
「……まぁ、それでも敵わないルシアータの実力を見せるのもいいんじゃないかな」
何やら暴言を吐いている。主はこんな人だっただろうか。
……あぁ、花を盗まれて怒っているのか。
フェムル様と同じようなものだろう。
「ユギエレムスト様がそれでよろしいのであれば、このままということにしましょう。ですから……少し落ち着いてください」
「落ち着いているよ。僕は」
いや無理だろ。
小さくぼやくフェムル様の声がした気がする。
一体見えないところで何が起こっているんだろう。
気になるが、見たくはない。
「あぁそうだ、品評会のことで話があるんだった。ルシアータ、時間は大丈夫かい?」
「はい」
「なら、俺は先に戻ってるから、ルシアータ、あとは任せた」
「はい」
頭を下げると、そのまま急ぎ足で行ってしまう。
まさか、丸投げされたのだろうか。一瞬思ったが、そういうわけではないだろう。
「相変わらずフェムルは忙しそうだね」
「この時間は明日の予定をみんなに伝えなければなりませんから」
「あぁそうか……悪いことをしてしまったな」
「大丈夫です。ゲント様が代わりをされていると思います」
「優秀な助手がいるなら大丈夫か。……ルシアータは行かなくてもよかった?」
「構いません。秋の庭はほぼ私一人で管理しておりますから。他の方にお伝えするような事柄はないのです」
「……わかってはいるけど、忙しそうに聞こえるね」
くすくすと笑い声がする。
秋の庭は、管理が楽なのだ。それを主は理解している。
秋は次の春に向けての準備が多いため、春の庭はとても忙しくなる。そのため、ほとんどの人員は春の庭に回され、秋の庭は後回しにされやすい。
だからなのか、それを見越してなのかは知らないが、秋の庭の手入れは比較的簡単にされている。
手入れの容易な樹木、植え替えの必要がない多年草、暑さにも寒さにも対応できる植物達。それらを多用しているので、日々の水遣りや雑草の処理さえしているなら数日放っておいても大丈夫。そういう風に、作られている。
もちろん、手をかけられるなら剪定や肥料などいろいろとあるが。基本的には、あまりすることがない。
だからこそ一人で管理し、奥の庭の管理も出来るわけで。
あまり人には見られたくないということをフェムル様が配慮してくれた結果だろう。
感謝しかない。
「さて、ルシアータ」
「はい」
「そこの東屋と君の秘密基地、どっちがいい?」
「……何がですか?」
思わず首を傾げてしまった。
うーん、と困ったような唸り声。
やがて、そっと手が差し出される。
「座って話そうか、ってこと」
「……あぁ、申し訳ございません。立たせたままで」
「ルシアータ。君もだよ」
「いえ。私は……」
「じゃあ秘密基地ね」
無理矢理手を取られた。
引っ張られ、バランスを崩しかけ、仕方なくついていく。
手袋越しの手は、力強い。
むずむずと、奇妙な感じがする。
「あの……ユギエレムスト様……」
「食べ物を用意しておけばよかった。おなかがすいてしまったよ!」
……あぁ、とても、楽しそうだ。
ただでさえ人の言葉を聞かないのに、これはもう無理だ。
多分、わざと聞かないようにしているのだが。
心持ちうなだれながら、主が秘密基地と称する蔦バラのドームへ向かう。
そそくさと入り込むのを上から見下ろすのはいいのだろうか。
……薄茶の髪がさらさらと夕焼けに染まっているのが見える。髪なんて、そう見るものではない。
「ほら、ルシアータ」
乞われてしまえば仕方がない。
けれど、主にそんなことを言わせること自体が間違いだ。いや主がここに入ることから間違いか。
途方に暮れながら、渋々入り、狭い場所に座り込む。
「天井が赤い。見事だ」
「……そうですか。それで、お話とは?」
「あぁうん。品評会は明後日からの建国祭が終わった翌日、五日後だ。準備は出来ているね?」
「はい。花は全て準備できております」
あとは、飾り付けるだけだ。
なるべくぎりぎりまで切らずに美しさを保たなければならない。
「よかった。君の準備はどうするんだい?」
「……代わりにフェムル様にお任せしてはいけませんか?」
基本的に作った庭師も品評会に出席しなければならない。
それは決まりごとだ。わかっている。
けれど、当たり前だが、行きたくはない。
「そういうわけにはいかないよ、ルシアータ。一応、フェムルにも聞いたけれど、君を連れて行ってほしいと言われている」
「……そうですか」
やっぱり、無理なのか。
どんよりと気が重い。
「前にも言ったとおり、ドレスもすでに準備してある。アーゼナル家の庭師として恥ずかしくないようにしてあるし、顔も、隠れるようにしてあるよ」
「はい」
確かにそれは聞いている。
どんなものなのかは見ていないが、ベールで隠せるとは聞いてある。
それでも、やはり乗り気にはなれない。
「それで、髪や化粧の話を聞いているんだけれど……自分でするかい?」
「え?あ……それ、は……」
そういえば、そうか。花のことばかりで考えていなかったけれど。
身だしなみも考えなければならない。いくら立派な服を着ていても、見えなくても、適当には出来ないだろう。
かといって、そんな公式の場に出られるような身だしなみなんて、無理だろう。
「その反応は予測していたよ、ルシアータ。
当日は朝から屋敷のほうへおいで。母の侍女が君を整えてくれる」
「……え?」
「あぁ、心配しなくても彼女はとても口が堅い。君の素顔を見ても誰かに吹聴するようなことはないから」
それは、確かに大切なのだが。その可能性はあまり考えていなかった。むしろ、顔を曝すほうに抵抗がある。
けれど主の中ではもうこれは決定事項なのだろう。
断れないのは、身分のためか意思の弱さか。多分後者だ。
零れそうな溜息を飲み込み、頭を下げる。
「それでは……ユギエレムスト様、よろしくお願いします」
「そうか。では、母にも伝えておくよ」
あぁ、なんて楽しそうな声をなさるのか。
恨めしく思うなんて、あってはいけないのだが、思わずにはいられない。
うなだれそうなところをどうにか押し留める。
今は、それくらいしか出来そうになかった。