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声すら出てこなかった。
ただ、傍らで目を見開く。
かすかに開いた唇からの言葉も、ない。
「……ルシアータ?」
呼びかけると、は、と小さく息を呑んで、目線が向けられる。
「申し訳ありません。ここに入るのは初めてでしたので、少し……驚いてしまって。
こんなにたくさんの本を見たのは、初めてです」
「あぁ、そうか。ここは特に制限もないから入ってもよかったのに」
つい笑い声を零しながら、中へと案内する。
アーゼナル家の書庫はさほど大きいとは言えないのだが、ルシアータには十分なのだろう。
背丈よりもずっと高い本棚の間ををきょろきょろと眺めている様子は、新鮮だ。
「今日は司書もいないから帽子を取るといい。そのほうが読みやすいだろう?」
「……ありがとう、ございます」
そう笑いながら取った帽子の下には楽しげな表情。
本が好きなのか、それとも初めて見た本の山に喜んでいるのか。
それはわからない。
けれど、どちらにせよこうして嬉しそうにしているのは、いいことだ。
「すごい蔵書の数ですね」
「これでもまだ少ないほうだ。
王城の書庫はここの倍ほどの蔵書があるし、王立の図書館ともなるとさらに多い」
「……そうなのですか」
「一度、君も行ってみるかい?」
「……いえ。私は……ここにこうしてユギル様と来ることが出来ただけで、満足です」
ふわりと、本当に幸せそうに笑う。
正直、ぐっときた。情けなくみっともなく赤くなったりしていないだろうか。
そう思えるほどに、動揺する。
なので、出た言葉はほとんど負け惜しみだった。
「……どこで覚えたんだい?そんな殺し文句」
「殺し文句、ですか?」
「そうだよ。僕は、君に踊らされてばかりだ」
ふふ、とつい笑いが零れた。
もちろん、嘘ではない。
昔からの、もうどうにもならない事実だ。
「さて、ルシアータ、このあたりは植物に関する本が集められている場所だ」
「え、あ……はい」
急な切り替えに戸惑いつつも、冷静さを取り戻し、頷く。
それに満足して、話を続けることにした。
「この国の植物に関しては裏の庭にあった蔵書で十分だと思っているけど……。それ以外のことを知りたかったらここを見るといい」
「いいのですか?」
「もちろん。ここは誰が見てもいい書庫だよ?
本を見て気になる植物があったら言うといい。
エルトが取り寄せるのは食用のものだけだろうし、花がほしいなら、取り寄せる」
「……そんなことしていただくわけには……」
「気にすることはないよ。この国で見られるのはアーゼナル家だけ、というのも、客をもてなすには十分な理由だろう?」
「ユギル様……ありがとうございます」
嬉しそうに頭を下げるのを、微笑ましく眺めると同時に、少しの罪悪感が過ぎる。
好きに育てさせたいという純粋な望みだけではないからだろう。
ルシアータは血筋も能力も、誰もが認める存在となった。
そして、アーゼナルに嫁いだことで貴族の身分も得た。
あとは、アーゼナルを名乗るに相応しい価値が必要なのだ。
そのためには、やはり珍しい花などを育ててもらうのが一番だろう。
実際、野菜などは彼女の価値を高めるにはとても効果的だった。
秋の庭も今後は一番美しい時期と特別な理由がない限りは使用を制限するつもりだ。
ルシアータの希少性を高めれば、それだけ見たいという要望が増え、価値が上がる。
それくらいしなければ、他の貴族からの蔑みを跳ね除けられないのだ。
もちろん、これはまだ若いからと侮られている当主が悪いのだが。
年齢というどうにもならない部分を補うためにルシアータを使うのは、とても不愉快だ。
けれど、ルシアータが彼らに認められたなら、理不尽な婚姻の申し込みなども消えるだろう。
もうあと一年くらいは、ルシアータと別れて娘と結婚しろなどと言われるだろうが。残念ながら、そんなつもりは皆無なのだ。
「ユギル様?」
「うん?」
「……難しい顔をして、どうされましたか?
お疲れでしたら、少しお休みになられたほうがよろしいのでは?」
いけない。顔に出てしまっていたか。
慌てて笑顔を取り繕う。
「大丈夫だよ。ルシアータの側にいるのが一番休まる。
それで、読む本は今持っているものだけでいいのかい?」
「はい」
「そうか。では、座れる場所に行こう」
奪い取るように本を持つと、慌てて持とうと腕が伸びる。
仕方がないので、取り上げた五冊のうち、一番軽そうな本を一冊、持たせておいた。
不満そうな顔が可愛らしい。
けれど、笑いかけると、諦めたらしく目を伏せた。
少し、耳が赤い。
触れたいなどという不埒な思いは押し込めて、席に案内する。
窓際の小さなテーブルと椅子が二脚。日差しが心地よく、下には夏の庭が広がる場所だ。
春の始まりでは少々早いが、上からの景色はいつもと違っていて、これはこれで美しいと思う。
テーブルに本を置き、辺りを見る。
すぐ近くにあるのは歴史書の棚だ。
「では、座って好きに読んでいるといい」
「ユギル様はどうなさるのですか?」
「今から読む本を探してくるよ」
「……わかりました」
少し心配そうに浮かんだ色は、寂しいと言っているようで。
もしそうだったなら、ルシアータには申し訳ないけれど、嬉しい。
それだけ側にいることを当たり前だと思ってくれているということだ。
あまり離れず、ルシアータが目視できる範囲で面白そうな本を探す。
しばらく来ることが出来なかった間に、本が増えている。司書か、使用人の希望なのかはわからないが、悪くないものを選んだと思われる。
適当に一冊手にとってルシアータの元へ戻ると、熱心に読みふけっていた。
花の挿絵の入ったページが見えたので、植物図鑑のようなものなのかもしれない。
ひとまず空いたほうの椅子に座って、読み始める。
各国の歴史を記したものだったらしく、知識を補うものとしては悪くない。
なので、とりあえず読み進める。
会話などなく、ページを捲る音だけが響く。それでも不思議と心地よく、有意義な時間と言えた。
そんな静寂を壊したのはノックの音。
没入していた本の世界から引っ張り出され、思わずルシアータと顔を見合わせる。
扉を開く音はやけに大きく聞こえた。
「ユギエレムスト様、こちらですか?」
「ケイスか……。ルシアータ、しばらくここで本を読んで待っていてくれるかい?」
「はい」
やんわりと微笑んでの返事に頷き、入り口のほうへ向かう。
さすがに入るのは躊躇ったのか、扉を開いたまま立っている補佐は、珍しく申し訳なさそうな顔をしていた。
ルシアータには聞かせないほうがいい話題かもしれない。
そう判断して、廊下に出る。
……おや。
人が、いた。
「ユギエレムスト様、お客様です」
「……君は?」
「は、はい、あの……これ」
とても分かりやすく緊張しているのはどこか見たことのある面影をした体格のいい青年だ。
服装から見ても貴族ではないし、よくある濃茶に同色の瞳。
そんな彼が握り締めるように持っている封筒を見て、あぁ、と思わず呟いた。
見覚えのある、どころか、日々使っている封蝋。
「君は、ルシアータの家族かな?」
「……はい」
なるほど、純朴な空気を纏いながらも整った顔立ちはルシアータに通じるところがあるのか。
確かに、言った。
結婚すると連絡した際に、一度会いたいと返事が来たので、一人だけなら、と条件をつけて。
大人数では誤魔化すのが難しいことや、接点を増やして外部の人間にルシアータの家族であることを悟られたくはないのだ。
一応、彼らも亡国の王族という身分なので、危険に巻き込むようなことをさせるわけにもいかない。
……などと理由はあるのだが、実際は多分、奪われたくないという単純な嫉妬だ。
律儀なルシアータはずっと側にいてくれるだろうけれど、それでも、用心してしまう。
かといって、会いたいという気持ちを無碍にするわけにもいかないので、一人という条件とした。
その一人が、彼なのだろう。
「えぇと……ルシアータの兄、かな?」
「はっ、はい、ヴェンドです」
「当主のユギエレムスト・アーゼナルだ。よろしく。わざわざ来てくれてありがとう。
すまないね。慌しくて満足な出迎えも出来なかっただろう?」
「いえ、そんなこと、ありません!」
緊張しすぎだ。
どうやらルシアータよりずっと、表情が豊からしい。
むしろ、感情が顔に出る、というところか。
「ケイス、司書室にお茶を持ってきてくれるかい?」
「はい」
頭を下げて去っていくのを軽く見やり、ヴェンドを司書室へと案内する。
不安げに、周囲を警戒するようについてくる様子は似ていない、などと考えながら奥の窓へ。
そろりとカーテンを開くと、相変わらず本を読みふけるルシアータが見えた。
「ほら、そこに座っているのが、ルシアータだ」
指し示すと、恐る恐るといった様子で窓を覗き込む。
そして、とてもわかりやすく、息を呑んだ。
「……あれが」
「そう。いつもは目深に帽子を被ったりして顔を隠しているからね。こういうときくらいしか、姿を見せられなくて悪いね」
「いえ、ありがとうございます。立派になった姿を見られてよかった」
動かず、食い入るように眺める姿を引き戻すことは出来ない。
そうしている間にケイスが戻ってきて、お茶の準備を整える。
「ほら、一度お茶にしよう。座るといい」
「は、はい。えぇと……いい、のですか?」
「うん。君は客人だろう?」
そして、ルシアータの兄だ。
もてなすのは、当然だろう。
司書室にある椅子に座らせ、お茶を勧める。
「……おいしい」
ほぅ、と小さく零れた吐息。
これで緊張はほぐれただろうか。
「さて、遠くからわざわざよく来てくれたね。疲れてはいないかい?」
「大丈夫、です。ここには二日前に来てた……来ていました、ので」
「かしこまる必要はないよ。好きにしてくれていい。
それより、そんな前に来ていたのなら、顔を出してくれれば式にも呼べたのに」
「そういうのは、無理なので。
それに、忙しそうだったから……」
「あぁ……気を使わせてしまってすまなかったね」
そんなことない、と言いたそうに緩く頭が振られる。
緊張は少しほぐれたのだろう。
強張った表情が、少し柔らかくなっている。
「とても素晴らしい式だったと、街中で聞きました。それだけで、十分です」
「……そうか。ところで、君はいつまでここに?」
「明日、帰るつもりですが」
「一日伸ばすことは可能かい?もちろん、宿代は払う。ここに泊まってくれてもいい」
「えぇ!?いや、一日くらい大丈夫です!そこまでしなくても!」
「いや無理を言って引き止めているわけだから……」
「本当に、大丈夫です。それより、何で明日なんですか?」
「明日はね、ここの使用人たちによる結婚祝いのパーティが開かれるんだよ。
参加するのはアーゼナルに勤める使用人たちだけだから、君も参加しやすいかと思ったんだ」
言うと、驚いたように目を丸くされた。
そんなに変なことを言っただろうか。
「あ、あの……アーゼナル家って、すごく大きいんですよね?」
「まぁ……大きいほうではあるかな」
「そんな家の偉い方が使用人相手にパーティですか?」
「彼らがルシアータのために開きたいと言ったからね。喜んで手伝わせてもらったよ」
言葉も出ない、とはこういうことなのだろう。
何か言いたそうに口を開き、閉じる。
そんな様子を何度かしているのを、つい珍しく眺めてしまった。
ここまで驚いた人を初めて見た気がする。
そして、たっぷり悩んで、どうにか言葉を見つけたらしい。
恐る恐ると言った様子で、発した。
「あの、貴族がそんな使用人のためにって、あるんですか?」
「どうだろうね。今回の申し出はルシアータのためでもあったから受けたけど、用件にもよるだろうから」
「あぁ……そう、ですよね。うん、そうだ」
最後は明らかに自分に言い聞かせていた。
そうしてようやく納得したらしいので、とりあえず本題に戻すことにする。
「それで、明日はどうかな?」
「じゃ、じゃあ……あの、参加してもいいのなら、参加、したいです」
「うん。そうか。それはよかった。少しくらいは会話も出来るようにしておくよ。
ただ、家族であることは気付かれないように、頼むよ」
「はい」
迂闊に気づかれて家族の下へ行くと言われても困るし。
心が狭いと言われようが譲れないものはあるのだ。
けれど、こうして話す機会を作ってやりたいのも、事実なのだ。
ルシアータの家族には、手紙では伝わらない部分を彼を通して伝えてもらいたいと思っている。
健やかでいることを、知らせたい。
「それでは、僕はここで一度失礼するよ。
あまりルシアータを待たせるわけにもいかないからね」
「あ、ご、ごめんなさい!邪魔して」
「いいんだよ。君に会えたのは、悪いことじゃないからね」
言って、とりあえず席を立つ。
入り口に立つケイスに目を向けると、静かに近寄ってきた。
「話は聞いていたね?彼のこと、いいようにしてあげてくれ」
「わかりました」
「失礼なことをしてはいけないよ。大事な客人だ」
「はい」
そんなことをしないとわかっているが、念のためだ。
予期せぬ客人ではあったけれど、有意義だった。
そう感じながら、書庫に戻る。
「……ユギル様」
「遅くなってすまないね」
「いえ。お休みの日でも、忙しいのですね」
「まぁ……そうだね」
急用ともちょっとした来客とも言いづらく、思わず濁してしまった。
けれど、仕事に関しては言えないこともあると理解しているルシアータはそれ以上を詮索しない。
有難くも申し訳ないが、助かるのは事実だ。
「ルシアータのほうは、面白い本は見つかったかい?」
「はい。どれも興味深いものばかりです」
柔らかく笑みを浮かべているあたり、とても楽しんでいるようなので、今日はこのままここで足止めできそうだ。
そんなことを内心で安堵しつつ、気付かれないようにちらりと司書室を見た。
カーテンが少しだけ、開かれている。この様子を見ているのだろう。
多分、ルシアータは気付くこともないので、好きにさせればいい。
途中だった本をに再び目を通す。
静かで穏やかで、あたたかな空間は、それはそれは、心地よかった。




